間章 世界で一番、優しい絆
酷く冷たい雨が降っていたのを覚えている。冬は越えたはずなのに、その日の雨は身も凍るほどに冷たかった。
正直、自分の体は雨に濡れた程度で不調を訴えるような柔な造りをしていない。それでも傘を差していたのは、あの男――玄十郎が強硬にそう主張をするからだ。
傘など邪魔なだけ。雨とは濡れてこそ風流だというのに全く、あの男は堅物だ。
まあ、そうでもなければこの国を支える一騎当千の猛者――『侍』の頂点になど立てようはずがないのだが。
「傘なんて邪魔なんですけどねー」
呟きは、激しい雨音によって掻き消される。正直、雨はあまり好きではない。行軍が滞るし、不確定要素が増える。今日のような視界を覆うほどの雨は特に厄介だ。闇に紛れて敵が攻め入ってくる。
まあ、ここは大日本帝国の中心、古都・京都だ。敵が攻めてくることはありえないのだが。
くるくる。くるくる。
傘を回し、水を跳ね上げ、薄い浴衣一枚をその身に纏う少女が微笑む。幻想的なまでに美しい蒼い髪が、水に濡れて怪しく光っていた。
「おや……?」
不意に、少女が足を止めた。その視線の先には、一人の少年がいる。
生きているのか、死んでいるのか。少年はピクリとも動かない。
「……これも縁、といったところですかねー。合縁奇縁、袖擦り合うも他生の縁。まあ、私の他生は『こうなる前』なので……彼からの縁故でしょうけれど」
みんな死んじゃいましたしねー、と少女が笑う。その中でも、少年は動かない。
少女は、吐息を一つ。いつの間にか随分と気温が下がっていたらしい。吐いた息が、白く染まる。
「ねえ、あなた」
少女は屈み込み、少年の方へと傘を傾けた。そこで初めて、ピクリと少年の体が震える。
それを見て取り、少女はゆっくりと問いかけた。
「世界が――憎いですか?」
再び、少年の体が震えた。投げ出されていた手が、ゆっくりと拳を作り上げる。
カチャリ、という鈍い金属音が響いた。少年が、その体と共に地面に投げ出されていた刀の柄を握り締めた音だ。そこで、少女は改めて少年の状態を理解する。
――満身創痍。
一目でそうとわかる状態だ。傷だらけの体。ボロ布のような着衣。まともな食事さえ摂っているか怪しい程に痩せた体。
成程、と少女は思った。あの男の言っていた通りだ。
この少年は、正しく怪物。この幼さで、あの地獄をここまで生き抜いてきたのか。
「…………ッ!!」
少年が顔を上げ、こちらを睨む。酷い顔だ。健康であれば随分整った顔であろうに、頬は痩せこけ、目は血走り、その目の下にはそう簡単には取れないであろう隈が浮かんでいる。
しかし、その瞳は――こちらを殺す意志を携えたその両目は、死んでいない。
「酷い顔。酷い瞳。醜いですね、やはり」
達人であろうと、至近で見つめれば思わず退いてしまうような少年の気迫。瀕死の、それもまだ五つにさえならないような少年のそれとは思えぬ圧力を受けながら。
しかし、少女は無表情に呟くだけ。
「別に、私はこの国が理想だとは思っていません。幸福論、でしたか? どこぞの偉い学者が幸福について定義を述べたようですが……くだらないですね。宗教観、倫理観、人生観――そもそも、自らを産んだ親の人格によってその人生における幸福は決定されるというのに、彼らは一切それには触れていない。欺瞞ですね、くだらない欺瞞です。人とは何度やり直しても〝そのまま〟でしてねー。……くだらない生き物です、本当に」
少年は何も言わない。いや、言えないのか。
それでも少女は、言葉を続ける。
「苦しむ者がいることは知っていますし、今のあなたのように世界そのものを憎悪するような者がいることもわかっています。それでも、ここが――この国が、この現状が。ギリギリの妥協点なのです。世界は、それほどまでに……ままならないのですから」
こんなはずじゃなかったことばかりで。
理不尽と不条理に覆われた世界で。
「そう、ままならない。どうしようもない。どうにもできない。それでも私は、そのままならない世界をどうにかするためにここにいます。……だから、と言いますか。あなたが世界を憎むというのなら。この世の全てを憎悪するというのなら。あなたが私を裁いてはくれませんか?」
手を差し出す。少年は、その手を凝視するだけだ。
「この手が道を誤った時、私の首を落としてください。世界に傷つけられ続けたあなたには……その権利が存在する」
少年は動かない。雨の中、差し出した少女の手を睨み付けている。
少女は動かない。雨の中、微笑みを浮かべて手を差し出している。
――雨が、強くなった気がした。
◇ ◇ ◇
「ん、ん~……?」
夢心地から帰還すると、体にかけられていた毛布に気が付いた。すぐさま正常に作動を始める思考。どうやら、眠ってしまっていたらしい。
「あ、あの、陛下……」
起き上がると、声が聞こえた。視線を向ける。そこにいたのは、一人の少女だ。
大日本帝国軍最高幹部《七神将》第四位、水尭彼恋。一部の兵士たちからは『うさぎちゃん』などと呼ばれ、実際小動物のような可愛らしさを持つ少女だ。人とのコミュニケーションが致命的に苦手な少女であるが、一度戦場に出れば《神速刃》とまで呼ばれる武勇を発揮する。
そもそも、あの《武神》でさえ成し得なかった十歳での《七神将》入りを果たした天才だ。才能がある者というのは総じて、その才能に見合う『欠落』を有している。それが見えるか見えないだけ。天才集団である《七神将》など、欠落者の集まりだ。彼恋の場合、それが目に見えているだけマシである。
「ああ、おはようございます彼恋。すみませんねー、寝ちゃって」
「い、いえ、その……お、起こしてしまいましたか……?」
うーん、と背伸びをする少女――帝に、彼恋が伺うように問いかける。帝はクスクスと笑みを零した。
「大丈夫ですよ、彼恋。ちょっと、懐かしい夢を見ていただけですから」
体の調子を確かめながら、そんなことを口にする。……うん、大丈夫。問題ない。
しかし、本当に懐かしい夢だった。自分のような存在に夢を見るなどという機能が残っていたことが驚きだが……まあ、どうでもいいことだ。
欠伸を零す帝。その肩を、小さな手が軽く叩いた。振り返ると、スケッチブックを持った少女がいる。
「あ、しーちゃん♪」
『お疲れ様です、陛下』
目に入ったその少女に帝が笑みを浮かべると、まだ齢十を数える程度であろうその少女――神道詩音が礼儀正しく一礼した。この齢でこの立ち振る舞い。流石にあの《剣聖》の娘である。
……父親? 何の話だろうか?
「しーちゃんが来たということは、木枯たちも到着したって事ですかねー?」
『いえ、母上はまだです。私は父上と共に先行して参りました』
「ああ、そういえば木枯には中華帝国との連絡を任せていましたしねー。まあ、彼女ならすぐに終わらせてくるでしょうけど」
毛布を脱ぎ捨て、立ち上がる。その下から現れたのは、薄手の浴衣一枚という衣装だった。とても一国を統べ、更には他国からも畏れられる王の姿とは思えない。
しかし、この場にいる二人は帝のそんな格好になど慣れたものだ。故に、特にその衣装については何も言わず、詩音が首を傾げながら別のことについて疑問を告げる。
『寝ておられたのですか?』
「彼恋の膝枕でちょっとだけねー。気持ち良かったですよー?」
「えっ、あ、あ……ありがとう、ございます……」
「……私、そんなに怖いですか?」
「えっ、そ、そんなこと!」
よよよ、と泣き真似をして見せる帝と、その様子を見て本気で慌てる彼恋。詩音はそれを無言で見ているだけだ。まあ、彼女には声が出せないので仕方ないのかもしれないが。
「まあ、普段はアキちゃんにしてもらってるんですけどねー。今、アキちゃんこっちにいませんし」
「えっ、暁さんはいないんですか……?」
彼恋が首を傾げる。当然だろう。緊急招集――帝の号令によって集められるそれは、《七神将》を始めとした交換全員の招集である。帝に告ぐ権限を持ち、『御三家』の筆頭、藤堂家の当主でもある暁がいないというのはおかしいのだ。
だが帝は、肩を竦めて彼恋のそんな疑問を受け流す。
「今回の議題……というよりは問題でしょうか。それに対してアキちゃんは単独で動いていまして。まあ、もうすぐ帰ってくるとは思いますが。流石にいきなり皆殺しまではしないでしょうし」
『どういうことですか?』
詩音が疑問を浮かべるが、帝は微笑を浮かべるのみ。
「色々あるのですよ、物事には。その気になれば一手で終わらせることもできるような事象でも……段階を踏んでいかねばならないのです。まあ、アキちゃんの場合それだけじゃないでしょうけど」
軽く吐息を零す。出会った頃に比べれば随分と変わったが……彼の本質は、今もずっとあの頃のままだ。
たまに思う時がある。彼が笑えるようになり、《武神》と呼ばれるようになって。『最強』として、孤独に戦場に立つ姿を見ていると。
どうして、どうして誰も彼に勝てなかったのだろうかと。
彼は、『最強』であるからこそ……ああも歪んでしまったのに。
……自分が、言えたことではないのだが。
「さて、しーちゃん、今どれぐらい集まってるかは聞いてますか?」
『確か、蒼雅様がその辺りを管理していると聞いています』
「あー、例の彼ですか。……んー、彼を『七人目』にしてもいいですねー。ただそうすると、身軽に動ける駒が減っちゃいますし。人手不足人手不足」
あはは、と帝は笑う。他国からしてみれば《七神将》を始めとする優秀な人材が溢れる大日本帝国のトップである帝のこの発言は贅沢が過ぎるものだが……まあ、それについては今更だろう。
「じゃあ、ちょっと彼のところに行きましょうか。どうせ全員集まるまで三日くらいかかるでしょうし」
『やはり、それぐらいはかかるのですか?』
「『真選組』はフットワークが軽いですし、トラちゃんが有事の時に自分が動き易いようにしていますからねー。こういう時の招集は早いですが……他の――特に《七神将》はそうもいきません。彼恋だって、今回はタイミングよく事業に一段落が着いたから早かっただけですしね」
「は、はい。ダム建設はもう最終段階に入っていますので、私は、その……必要ないかな、と……」
「彼恋がいないというのは結構な重大事項ですし、工期に遅れが出るでしょうが……まあ仕方ありません。向こうには誰かを置いてきているのでしょう?」
必要ないという言葉をバッサリと否定しつつ、帝が彼恋に問いかける。彼恋は慌てて頷いた。
「は、はい。えっと、影くんを……」
「――八坂影。そういえば、木枯のところから彼恋のところへ出向しているんでしたね。まあ、彼なら大丈夫でしょう。私は会ったことがありませんが、あの木枯が目をかけているほどです。相当なんでしょうし」
言いつつ、帝が歩き出す。その隣を詩音が歩き、彼恋はそのすぐ後ろをついて行くという構図だ。
「いつもならこの手の仕事はアキちゃんがしてくれるんですが、今日はいませんし。たまには私も動きましょうということで」
あははっ、と笑う帝。そんな彼女に、詩音が少し遠慮勝ちにスケッチブックを掲げてみせた。
『陛下、一つ聞いてもいいですか?』
「んー? ええ、いいですよ?」
『暁様に対して、陛下は並々ならぬ信頼を寄せておられるようですので……。お二方は、どのようにして出会ったのですか?』
「んー、アキちゃんと私の出会いですか」
チラリと、後ろに控える彼恋へと視線を向ける。……彼恋も、興味津々のようだった。
吐息を一つ。そして、思いを馳せる。
「別に、面白い話じゃありませんよ?」
その前置きを一つ置き、帝は語り始める。
最強の武神と、大日本帝国の神。その二つが出会うに至った、奇跡とも呼べるその物語を。
「私が初めてアキちゃんに出会った……いや、見たのは、藤堂家の直轄地に赴いた時でした――」
◇◆◇◆◇
その日は、酷く暑い日だったのを覚えている。当時は大日本帝国も世界の時流に流されており、それに対応するのが手一杯だった。外より流れ込む異文化に民たちは飛びつき、経済が大きく動いていたのだ。
帝として、大日本帝国の最高位として……自分は国を傾けぬよう必死だった。
当時、帝国議会が自分の強権に対して口を出すようになってきており、より一層国の舵取りが難しくなっていた時期でもあった。その日も、事業案について信頼できる数少ない人間である玄十郎の下を訪れ、そして――出会ったのだ。
「待て!! この薄汚い盗人が!!」
どこかに腰を落ち着けて話をするのも時間の無駄と、玄十郎と共に藤堂家の屋敷内を事業案の話し合いをしていた時、彼を見た。
薄汚れた少年。最初に見た時の印象はそれだった。追われていたのは、僅かに齢四つといったところの少年。追っているのは、それこそ三十を超えているであろう年齢の男たち。
何故、と最初に思ったことを覚えている。あんな少年一人に、寄ってたかってと。
――だって。
少年が持っていたのは、それこそ薄汚れた木刀と大事そうに抱えるいくつかの食糧のみ。あれほど殺気立って追う必要などなかったはずなのだ。
「…………ッ!!」
その光景をぼんやりと眺めていると、少年がこちらへと走り込んできた。
――目が、合う。
その、世界の全てを憎悪するような瞳に。
見覚えが――あった。
「陛下ッ!!」
動かぬ自分を見てどう思ったのか。隣に立っていた玄十郎が割って入った。
鈍い音。
少年が叩き付けるようにして振り下ろした木刀が、玄十郎を思い切り叩いたのだ。木刀は折れ、少年はすぐさま走り出す。……その時でさえ、手に抱えた食糧を取り落とすことはなかった。
「ご当主様!!」
「玄十郎様!!」
「小僧貴様ァ!! 薄汚れた身の分際で!!」
逃げ出した少年を追おうと、その腰に差した刀まで抜いて追おうとする男たち。だが。
「――止めよ」
頭部より血を滴らせながら、玄十郎がそれを止めた。男たちが、しかし、と声を荒げる。
「ご当主様の慈悲で生かされている身であの小僧は……!!」
「止めよと、言っている。儂なら大丈夫じゃ。……仕事に戻れ」
有無を言わさぬ口調。男たちは互いに顔を見合わせると、刀を鞘に納めて立ち去っていった。それを見送り、玄十郎は手拭いを取り出すと、血を拭いながら苦笑を零す。
「見苦しいところをお見せしましたな」
「……いえ」
首を振り、応じる。ただ、その時の自分の脳裏には。
少年の瞳が、ずっと張り付いたように浮かんでいた――
◇ ◇ ◇
「はい、王手」
「何で飛車角金銀将抜きの相手に俺は負けてんだよ!?」
廊下を歩いていると、中庭からそんな叫び声が聞こえてきた。帝は一度話を切り上げ、詩音と彼恋の二人とともに声のした方へと視線を向ける。すると、そこでは見覚えのある二人が将棋盤を挟んで向かい合っていた。周囲にはそのギャラリーらしき者たちまでいる。
その中心で、話から察するにたった今《七神将》第五位、本郷正好をハンデ付きの将棋で沈めたのであろう青年が、掛け金の入った袋の口を締める。その横では、真選組局長である神道虎徹が呆れた目で正好を見ていた。
「というわけで、掛け金は俺と局長の総取り~♪」
「いやオメェ、冗談で負けに賭けたのに本気で負けてんじゃねぇよ正好よ……」
「ッ、う、うっせぇ!」
「おいおい、マジかよ。マサやん弱っ」
「仕方ねぇよ。マサやんだし」
「まあ、マサやんだしな」
「テメェら表出ろコラァ!!」
正好が爆発し、周囲で観戦していた真選組の局員や自身の部下たちと大乱闘を始める。虎徹は面白がって参戦し、件の青年は流石というべきかきっちり避難している。
中庭で暴れ出す正好たち。帝の後ろでは彼恋があわあわと挙動不審なことになっているが、正直あの連中が暴れるのはいつものことだ。帝は微笑と共にその騒ぎを一瞥すると、あの虎徹が見出し、天音さえもが評価するという青年に歩み寄る。
「水無月ソラ……いえ、ソラ・ヤナギでしたね?」
「これはこれは陛下。自分のような者にお声かけ頂けるとは光栄です」
声をかけると、青年――ソラは恭しく首を垂れた。まただ、と思う。この男は本当に……壊れている。
憎いはずだ。
殺したいはずだ。
大日本帝国の介入。それが、彼の世界を壊したのだ。ならばその頂点に立つ自分は、この男にとって決して許せぬ敵のはず。
――なのに。
この男は、そんな様子は微塵も見せない。
……面白いですねー、人間。
化かし合い、腹の探り合いならこちらも得意だ。精々足掻いて欲しいと思う。こちらを欺こうとしている間は、この男は間違いなく大日本帝国にとって利益になるのだから。
「詩音に、水尭様もお久し振りです」
『私は毎日会っていますが』
「あ、あの……か、彼恋で……いい、ですよ……?」
二者二様の回答に、流石のソラも苦笑を零す。そのままソラは正好たちの方へと視線を向け、立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ止めてきます」
「あはは、大変ですねー」
『父上は思い切り殴ってくださって結構です』
「し、詩音? それは流石に……」
詩音の書き言葉に対してのものであろう苦笑を零し、ソラが立ち去っていく。その姿を見送り、帝は微笑を零した。
「……賑やかですねー」
『すみません。馬鹿な父で』
「……し、詩音がキツくなってる気が……」
「詩音のそれは、彼の影響でしょう。まあ、いいことです」
言いつつ、帝は思う。昔はこの、自身の住処でもある『御所』でこんな風に馬鹿騒ぎをする者など皆無だった。ここは策謀の溢れる戦場で、気を抜けばいつ殺されてもおかしくない場所だったのだ。
それを壊したのは、誰だったのか。
――嗚呼、そっか……そうでしたねー……。
藤堂暁。本来ならば祝福され、光の道を歩むべきであった天才。しかし彼は、この国において最も深い闇から自らの手で這い上がり、そして、光を手にした。
そんな彼だからこそ――ここに光を持ち込めたのだ。
微笑を零す。それと共に、謡うように帝は物語の続きを口にし始めた。
「……アキちゃんに出会ったのは、あの時が初めてです。といっても、お互いの名前も立場も全く知らなかったのですが」
本当に、奇跡だと思う。彼が今現在、大日本帝国のために戦ってくれているのは。
たった一つ……そう、たった一つ歯車がズレただけで、彼はこの国に牙剥く最強の敵になっていたかもしれないのだから。
「私がアキちゃんの立場を知ったのは、その日の夜。……酷く寒い、月の綺麗な夜だったことを覚えています」
◇◆◇◆◇
夜。流石に書類仕事も飽きて部屋から抜け出し、屋根に昇って月を眺めていると、一つの人影が見えた。
――藤堂玄十郎。
藤堂家の当主たる彼が、供の一人も連れずに屋敷を出て行こうとしている。その様子を見て、ふむ、と帝は顎に手を当てて思考を巡らせた。
「……少々、面白そうといえば面白そうですね」
決断すると、判断は早い。距離を取り、玄十郎の後をつける。流石に達人、容易ではないが……こちらも伊達にあの魔窟で生きてきたわけではない。尾行ぐらいは完遂させる。
玄十郎が移動に要した時間は、決して長くはなかった。精々が一時間といったところだろう。彼が辿り着いたのは、本家より離れた場所にある寺だった。
……随分とまあ、寂れた場所ですねー。
しかし、そこは寺と呼ぶにはあまりにもボロボロな場所だった。使われなくなって何十年も経っているのだろう。風化し、建物の屋根には穴まで空いている。
玄十郎はその中へ、何の迷いもなく入っていく。帝もまた、それを追い……そして、中を見た。
そこに、いたのは。
「……すまんの。こんなことしか、わしにはできぬ」
「…………」
昼間、玄十郎へと木刀を叩き付けた少年だった。玄十郎は懐からいくつかの食糧を取り出し、少年へと手渡す。少年はそれを奪い取るようにして受け取ると、一心不乱に口にし始めた。
痩せこけた頬。血走った目。痩せた体。
まともな生活をしていないことは、容易に理解できる風貌だった。
「……すまん」
そこで、不意に玄十郎が少年を抱き締めた。その瞳には、涙さえ浮かんでいる。少年は、何も言わない。
すまん、という声が何度も響いた。藤堂玄十郎――《剣聖》とまで呼ばれている男が、たった一人の小汚い少年に謝り続けているという現実。
帝はその場に座り込み、ぼんやりと考える。
「…………どうも、キナ臭い匂いがしますねー……」
呟いた言葉は、誰にも届かず宙に溶けて霧散した。
◇ ◇ ◇
「結論から言うと、アキちゃんは藤堂家にとって不義の子供だったのです。……玄十郎の息子と、娘。藤堂家直系の兄妹の間に生まれた――産まれてしまった、不義の子供。近親相姦は我が国では罪ですからねー。それも藤堂家の人間が禁を犯したとなれば、色々と問題も多い。アキちゃんは、誰にも望まれなかった子供なんですよ」
藤堂家の直系、それも実の兄妹の間に産まれた望まれぬ子供。藤堂家の直系ともなれば、その生まれは祝福を受けて然るべきだというのに……それさえ、なかった。
それどころか藤堂暁という少年は、生きることさえも否定されようとしていたのだ。
「物心つくころには、『藤堂』という名を名乗ることを禁じられ、一族を放逐されたらしいです。普通ならそれで野垂れ死ぬところでしたが……アキちゃんは皆が知っての通り、その才能において他の追随を許しません。文字通り泥を啜り、土を食み……生き延びていたのです」
「……玄十郎様は……」
不意に、彼恋が口を開いた。帝が首を傾げると、彼恋は言葉を選ぶようにしながらも言葉を紡ぐ。
「玄十郎様は……その……暁さんを……」
「当時の玄十郎は藤堂家当主。可愛い孫とはいえ、そのために自身の立場を捨てることはできなかったのですよ。当時はこの国も結構不安定でしたし、彼は《七神将》の長でもあったわけですから」
藤堂家の当主として、《七神将》の長として。自身の孫を救うことさえできなかった『最強』は、全ての事情を話した後に帝へこんな言葉を吐いていた。
〝孫一人救えず最強などと……わしはどうしようもない、愚か者です〟
人の弱さ。そして、強さ。
多くの者を見てきたが、やはり肉親というのは特別だ。そして、強者であればあるほど、『絆』というものを大切にする。
あの暁でさえ、自分や玄十郎、《七神将》との絆を大切にしている節がある。彼にとって、人や世界は全て敵だったというのに。
「まあ、その時にアキちゃんのことは知ったんですが……正直、しばらくはそれどころじゃなかったんです。けれど、ある雨の日――私は、再び出会った」
視界を覆い尽くすような雨の中。
世界の全てに否定された少年に、手を差し出した。
「今考えれば、妙なことですけどねー。彼は私を憎んでいたはずですし。彼が否定されたのも、否定されるような国を作ったのも全て私。……けれど、彼は――アキちゃんは、私にその刃を捧げてくれた。ならば、私のすることは一つだけ」
彼と共に戦い、その果てに――もしも、自分が間違えたならば、彼と共にこの命を散らす。
それが誓いであり……約束。
「どうです、面白い話ではないでしょう?」
問いかけると、詩音と彼恋は互いに目を見合わせた。それに微笑を送り、視線を空へと向ける。
今、ここではない戦場で戦う彼のことを……想う。
……負けるとは、思っていませんが。
彼は、自分が知る中では間違いなく『最強』の存在。敗北は有り得ない。
――けれど、まあ。
帰ってきたら、いつもしてくれている膝枕を、たまには自分が……してあげようと、そう思う。
おかえりと、そんな言葉を紡ぎながら。
空は、雲一つない晴天だった。
◇◆◇◆◇
燃え盛る屋敷。『御三家』が筆頭、藤堂家の本家。大日本帝国でも随一の強者たちが集うその屋敷が、燃えていた。
燃える。
燃える。
燃え、堕ちる。
とある少年の怒りを体現するように。まるで血のように紅い炎が、夕闇の空を染め上げる。
「――満足ですか?」
燃え盛る炎の中、静かに問いかけた。その視線の先には、炎の色よりもなお紅き少年が佇んでいる。
身の丈に合わぬほどの長刀、藤堂家の宝刀にして神剣たる〝天叢雲剣〟を血で染め上げ。
その全身を、彼を否定したありとあらゆる命の血で染め上げ。
炎の中でも一際昏く、朱に輝く姿がある。
「……やっと、終わった」
酷く、掠れた声だった。少年の周囲、あるいは炎の中にある『それ』は、死体。
彼を否定した、あらゆる全ての死。
「満足ですか?」
再び、問いかけた。少年は、首を振る。
「まだ、何も終わっちゃいない」
その瞳を――殺意だけが宿った瞳をこちらへ向け、少年は言い。
少女は、ならば、と頷いた。
「私を殺して満足できるというのなら、どうぞ私を殺してください。――その代わり」
私を殺す代わりにと、少女は言った。
「世界を――救ってください」
自分という存在を終わらせる代わりに。
自分が背負った全てを背負えと。
少女は――手を差し出し、そう告げる。
「それができるのであれば、私を殺してくださっても結構です。できないというのであれば」
一転、浴衣の裾から扇子を取り出し、少女は言う。
「ここで殺されるわけには、参りませんので」
少年は応じない。ただ無言でこちらを見ている。
バキンと、周囲で音がした。
何かが、崩れる音がした。
周囲が、炎に囲まれた。
◇ ◇ ◇
「……色々ありましたが、まあ、彼がいるなら大丈夫でしょう」
背伸びと共に、そんなことを呟く。色々あった。けれど、その代わりに多くを得た。
藤堂家が滅び、残るは暁と玄十郎だけになって。
帝国議会を潰し、代わりに天音が味方となり。
そして、また……戦争が始まる。
「約束は、忘れていませんよ?」
呟く言葉が届かぬことは、知っている。
――けれど。
それでもいいと、そう思った。
――――――――
〝約束してくれ〟
〝何をですか?〟
〝俺がお前の刃になる代わりに、必ず世界を平和にすると。もう二度と、俺のような存在を生み出さない、平等な世界にすると〟
〝……許せるのですか、この世界を?〟
〝許せはしない。だが、祖父より聞いた。俺は両親から、生きろと。生きて欲しいと……願われたと〟
〝…………〟
〝俺の命が生まれた意味が、俺にはわからなかった。今でもそれはわからない。だが、俺は望まれない命ではなかった。たった二人……いや、三人でも、俺の命を望んでくれた人がいた。ならば俺は、まだ死ねない〟
〝四人、ですね〟
〝何?〟
〝そこへ、もう一人だけ追加しておいてください。……私に刃を届かせた人間なんて、何年振りでしょうか。あなたに死なれると、私も困ります〟
〝……成程〟
〝契約関係とは、世界で二番目に強い絆です。もう一度言いますよ? あなたに死なれると、私が困ります〟
〝それはお互い様だ。刃が使い手を失えば、どうすればいいかわからなくなる〟
〝なら、互いが互いを守り合うとしましょう。それが一番です〟
〝ああ。確かにそうかもしれない。……一つ、聞いてもいいか?〟
〝はい、何ですか?〟
〝契約関係が世界で二番目に強い絆なら……一番強い絆とは、何なんだ?〟
〝――愛ですよ。答えなど簡単です〟
随分、懐かしいことを思い出した。
言葉を交わし、想いを知り……そして、刃となると決めた日の記憶。
あれから多くのことがあり、多くの〝大切〟が生まれた。
――けれど。
一番大切なモノは、今も昔も変わらない。
「待ってろ、みなも」
眼前、そこに佇むは……〝世界〟。
こちらが握るは、神を写せし神代の刃。
「すぐに、終わらせる」
彼女が、今の自分にとって大切なモノ。
それだけで、刃を握る理由になる。
交わした約束と、誓いはまだ果たせていない。
けれど、もう少し。
もう少しで……約束の場所へと、辿り着ける。
だから。
だから――
「来い、〈ワールド・エンド〉。何度来ようと、何度蘇ろうと。貴様如きでは俺を殺せない」
自分のためだけに、世界を否定するためだけに振るってきたこの刃は。
今はもう、自分だけのものではない。
〝お前が導く先で生まれる犠牲は、全て俺が一緒に背負う。約束だ。俺は、最期までみなもと一緒にいる〟
〝本当ですか? なら、もしも私が死ぬのなら……あなたは、一緒に死んでくれるのですか?〟
〝その時は、俺がお前に殺されてやる。何度でも、俺を殺せばいい。――だが、その代わり〟
一人ぼっちの世界。
全てが閉ざされた世界で、出会った少女に。
〝――最期は、一緒に死んでくれ〟
世界で一番、優しい約束をした。
だから、それでいい。
藤堂暁は、それだけで戦えるから。
轟音が、戦場を支配し。
豪雨が、まるで世界を覆い隠すかのように激しさを……増した。
というわけで、大日本帝国の中心である二人の物語。この作品におけるテーマの一つ、『約束』を交わすのは決して護やアリスだけではないのです。探してみれば、色んな人の色んな『約束』が見つかるはず。
まあ、『誓い』と置き換えれば尚更わかり易いでしょうか?
そんなこんなで、ちょっとしたインターバルです。私のモットーは『常に劇場的』です。停滞する物語などつまらないですからね。
次回から大日本帝国やガリア、EUの戦争はより一層激しさを増していきます。
第二部はあまり長くならない予定なので、お付き合いいただけると幸いです。
ありがとうございました!!