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英雄譚―名も亡き墓標―  作者: アマネ・リィラ
欧州動乱編―選択―
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第二話 崩れゆく日常


 聖教イタリア宗主国の中心部にある、世界最大宗派『聖教』の総本山――ヴァチカン市国。

 世界最小の国と呼ばれるそこには、『聖教』のトップである『教皇』が座している。一応はイタリアとは別の国であるヴァチカン市国だが、実質的には教皇がイタリアの政治を操っているため、その線引きは曖昧だ。

 そもそも、イタリア最大戦力を謳われる《赤獅子》、朱里・アスリエルを教皇直属の親衛隊、それも総隊長に指名している時点で政教分離という概念が存在していないことがよくわかる。

 そして、そのヴァチカンから出た場所に一つの大きな病院がある。

 万一が起こった際、すぐさまヴァチカンから教皇や十二使徒を運び込めるようにと考えられ、建設されたその病院はイタリアにおいて最大の医療レベルと設備を整えている。

 そんな病院に、一人の青年の姿があった。

 燃えるように紅い紅蓮の長髪。風を肩で切る動作が全く嫌味にならない、堂々とした立ち振る舞い。圧倒的なまでの存在感と共に廊下を歩く彼の姿を、誰もが思わず凝視してしまう。

 その青年の名は――朱里・アスリエル。

 聖教イタリア宗主国最強の神将騎である〈ブラッディペイン〉と共に数多の戦場を駆け抜け、見方からは勝算と尊敬の念と共に、敵からは畏怖と恐怖を込めて《赤獅子》と呼ばれる人物だ。

 その彼が何故病院にいるのか。

 無論、負傷ではない。彼が負傷するほどの戦闘は、シベリアで起こった戦乱以来、一度もないのだから当然だ。

 そう、彼がここにいる理由は一つ。


「……咲夜」


 病室の扉をノックすると共に、朱里は中にいるはずの人物へと声をかけた。はい、という返事が聞こえ、朱里は中へと足を運ぶ。

 ――簡素な部屋だった。個室の奥にあるベッドと、申し訳程度の小さなロッカー。窓際にある花瓶が唯一の調度品だ。


「お早うございます、お兄様」


 この部屋で過ごすようになってから、もう何年経つのか。点滴のチューブを右腕に付けた黒髪の少女が、朱里の姿を見て微笑んだ。

 ――咲夜・アスリエル。

 幼き頃はまだ体も弱くはなかったのだが、成長するうちに内臓機能の低下が始まり、彼らの両親の事故死の時からずっと入院したままの少女だ。

 朱里にとっては唯一の家族であり、守るべき存在。不信感さえ抱くイタリア軍に所属し、戦い続けているのも彼女の存在が大きな理由だ。


「ああ、お早う。今日は調子が良さそうだな」


 咲夜の言葉に朱里は微笑みながら、鞄を近くの机の上に置く。咲夜の病気は一種類というわけではなく、いくつもの病気を抱えている状態と聞かされている。今日は調子が良いようだが、酷い時は一日中発作が続くことも珍しくない。

 咲夜ははい、と頷くと、どこか沈んだ表情を浮かべた。


「……すみません。お兄様には、迷惑ばかりを……」

「気にするな、といつも言っているだろう? そんなことを気にするくらいなら、もっと楽しいことを考えた方がいい。あの男も――……」


 言いかけて、朱里は反射的に口を噤んだ。あの男――朱里がそんな呼び方をする相手は一人しかいない。

 ――ソラ・ヤナギ。

 朱里が唯一、親友と認め……同時に、もう戻らぬ存在となってしまった男。


 ……いい加減、割り切りたいんだがな。


 内心でため息を吐く。本当に、ままならない。

 どうして――自分のような愚か者ではなく、あの男のような生きるべき者ばかりが死んでいく?

 理不尽な世界。

 不条理な世界。

 どうして、こんなにも世界はままならないのだろうか。


「……いずれにせよ、永遠に続く病などない。暗いことばかり考えていても、病は治らん。病は気からというだろう? 退院して、また一緒に暮らせるようになってからのことを考えた方が建設的だ」

「……はい」


 儚げに、咲夜は微笑む。彼女とて理解しているのだ。永遠に続く病はない――その言葉の裏に隠された、残酷な真実を。

 完治か、死か。

 病の果ては、その二つしかなく。そして、咲夜は自身の病状についても理解している。そして、それ故に後者の結末を迎える可能性が高いことも。

 微妙に重い空気が部屋に満ちる。それを振り払うように、朱里は鞄から一通の手紙を取り出した。


「そういえば、リィラから手紙が来ていたぞ、お前宛だ」

「本当ですか?」

「ああ。封は開けていない」


 言いつつ、朱里は咲夜へと手紙を渡す。咲夜はそれを受け取ると、嬉しそうに封を開けた。シベリア戦役後に退役し、表向きは反逆者となってしまったソラ・ヤナギと最も近しい人間だったリィラ・夢路・ソレイユ。彼女は現在、イタリアの片田舎で子供たちと共に静かに過ごしている。咲夜とは文通をする仲で、こうして手紙のやり取りをしているようだ。

 ようだ、というのは朱里がそれに関わっていないからである。どうやら、リィラが一時的に入院していた際により一層仲良くなったようだが……。

 どこか嬉しそうに、リィラからの手紙を読む咲夜。その様子を微笑みながら見ていた朱里の耳に、不意にドアを叩く音が聞こえた。


「どうぞ」


 ドアに近付き、声をかける。するとドアがゆっくりと開き、現れたの一人の男性だった。朱里はその男に見覚えがある。この病院の医者で、咲夜の主治医だ。


「これは……先生。いつも世話になっています。検査ですか?」


 普段、その立場から軍内でさえ敬語を使うことがほとんどない朱里だが、世話になっている相手や目上の人物相手には敬語を使う。

 医者は朱里の姿を見ると、いえ、と首を左右に振った。


「朱里さんが来ておられると聞きましたので……すみませんが、少し時間はよろしいですか?」


 どこか申し訳なさそうに医者は言う。ちなみにこの医者を始め、病院内の人間は朱里のことを様付けで呼んでいたのだが、朱里がそれを何度も断るうちに様付けは止められた。朱里としては、生きていれば両親と変わらない年齢であろう医者に様付けで呼ばれるのは違和感しかなかったのでその方が遥かにいい。

 朱里はこの医者とは幾度となく咲夜の病状などについて言葉を交わしている。だが、今日はいつもと様子が違うように見えた。人の良いこの医者が、自分を見るなり不安げな表情をしたのだから当然かもしれないが。


「ええ、時間は大丈夫ですが……」

「そうですか。なら、ご同行をお願いしたいのですが……その……」


 チラリと、医者が咲夜を見る。その様子から何かを感じ取り、朱里はゆっくりと頷いた。


「わかりました。――咲夜、少し出てくる」


 頷き、部屋を出る前に咲夜へと声をかける。一心不乱に手紙を読んでいた咲夜は朱里のその言葉に反応し、はい、と頷く。


「行ってらっしゃいませ、お兄様」

「ああ。行ってくる」


 微笑みを浮かべて頷き、部屋を出る朱里。

 バタンという音とともに扉が閉じられ、病院内特有の消毒液の匂いが鼻をつく。その匂いを感じながら、朱里は目の前の医者へと声をかけた。


「……今日は、どういったお話ですか?」

「……ここは人目が多いですし、どこで誰が聞いているかもわかりません。中庭で話しましょう」


 その言葉を受け、朱里は頷く。その表情は、周囲の人間が思わず目を逸らすほどに硬いものとなっていた。



◇ ◇ ◇



 病院の中庭は、VIPが入院することも想定されているためか非常に整えられている。広さも申し分のないものであり、周囲では入院中の患者とその家族、あるいは見舞いの者たちが和気藹々と過ごしていた。

 その光景を目にしながら、二人の男――朱里と医者は、ベンチに並んで座っている。冬が終わり、春が近付く季節となってきた昨今。朱里が来ている軍服は日差しが当たる中では少々厚手に見えるが、本人は汗一つ掻いていない。

 ぼんやりと中庭で思い思いの時間を過ごす者たちを見つめる朱里。その朱里の隣で、同じようにその光景を見ていた医者が口を開いた。


「……医者というのは、因果な商売です。元気なお客さんなんていませんし、健康になったらここから出ていく。私たちはそれを喜ぶのですが……たまに、思うところもあります」

「商売? 医者というのは、病気を治すという神聖な職業でしょう?」

「私たちが行使しているのはただの技術ですよ、朱里さん。確かに特殊な知識を必要としますが……『聖教』の神官様が行使される『奇跡』に比べれば、余程俗に塗れています。それで生活しているわけですし」

「……世の人間が聞けば卒倒しそうな台詞ですね」


 世間一般において、医者というのは総じて社会的地位が高い人種だ。彼らは教育者でもないのに『先生』と呼ばれ、その立場を社会的に認められている。

 病気を治す――今でこそ科学的な根拠が生まれているその行為だが、昔はそれこそ神官の『奇跡』でもなければどうにもできなかったことだ。社会的地位が高くなることもおかしくはない。


「それに先生、その言い回しだと『聖教』を侮っているようにも聞こえますよ」


 更に、朱里はそんな言葉を繋げる。言葉面だけを見れば特に問題はないのだが……朱里は医者の台詞の中にとげのようなものを感じたのだ。医者は苦笑を零し、首を振る。


「朱里さんなら、このことを異端審問官に申告したりはしないでしょう?」

「……都市伝説ですか」

「本当にそうですか?」

「…………」


 鋭い切り返しに、朱里は目を閉じて沈黙を返した。異端審問官――数百年前、『魔女狩り』などという『聖教』史上最悪の行為の一つであるそれが行われていた頃、公然と損斬していた役職。それが異端審問官だ。

〝汝、隣人を愛せ〟――『聖教』における最も基本的な教えだが、これには隠れた大前提がある。

 ――異教徒は人間ではない。

 隣人、とは同じ『聖教』を信じる人間を指す。それ以外は人間ではないのだ。その考え方を根本的なものとして『聖教』が有していることは今までの歴史が証明している。

 そして。

 教皇親衛隊総隊長などという役職についている朱里が、『ソレ』の存在を知らないことはありえないのだ。


「……正直、俺は『聖教』については特に何とも思っていないので。コメントはできません」

「いいのですか? 他ならぬあなたがそんなことを言っても」

「昔は無邪気に神様とやらを信じていた時もありましたが。戦場を転々とするうちにいつの間にか、俺に神様とやらは見えなくなりました」


 戦場にあるのは、ただただ無残な現実だ。

 差別と、偏見と、どうしようもない負の感情と。

 血と、硝煙と、肉の焼ける臭い。

 人というあまりにも業深き存在の本性がごちゃ混ぜになったようなあの場所に――神などいない。


「汝、隣人を愛せ――ならば何故、俺はその『隣人』と呼ぶべき相手を殺してきた?」


 戦場で向かい合った相手と理解し合えることはなかった。肩を並べた相手とさえ、利害関係ばかりが先に立つ。

 本当に――どうしようもない世界だ。

 こんな世界で、どうやって神を信じろというのだ?


「……私のように何十年も医者をやっていると、神様ってのを信じたくなるんです」


 不意に、ポツリと医者が呟いた。朱里が首を傾げる。


「どういうことです?」

「医者なんてのはね、朱里さん。無力なもんです。私はこれまで、数多くの患者を見殺しにしてきました。不治の病……そんな言葉の前に、たったそれだけの言葉に、屈してきたんです」

「いきなり、何を」


 声が、掠れた。医者の言葉、言い回し……そこから、朱里は本能的に察した。

 この医者が、何を言おうとしているのかを。

 医者の男は、一度肩を震わせた。



「……咲夜さんは、私たちでは……どうにもできません」



 そして、その言葉を告げる。

 朱里が最も聞きたくなかった……最悪の台詞を。


「な、に……を……?」

「内臓機能の低下に加え、両手足に僅かながらも麻痺が始まっています。……おそらく、このままではいずれその麻痺が内臓機能に達し、自力の呼吸どころか心臓を動かすことさえできなくなると……」

「何を!!」


 凄まじい怒声が響いた。朱里の叫びに反応し、中庭にいた者たちが一斉に彼を見る。しかし、朱里にそんなことを気にする余裕はない。


「何を……何を言ってるんだ!! ここは――ここは!! 最高の医療機関なんじゃないのか!?」

「……イタリアでは最高の医療機関だと自負しております。ですが――」

「だったら……だったら!! 何故だ!? 何故、咲夜を救えない!?」


 思わず医者の胸倉を掴み、朱里は怒鳴る。その様子に気付いて、近くにいた医者や看護師たちが朱里を止めようと駆け寄ってくる。

 制止の声と共に、朱里は医者から引き離される。朱里は医者から手を離すと、必死の形相で叫んだ。


「どうして!! どうしてだ!! 何故俺が生きていて――何故、アイツも!! 咲夜も!! こんな目に遭わなければならない!?」


 戦場で最も敵を殺した者を、英雄と呼ぶ。そしてそれは、自分だ。

 鬼よ外道よヒト非人よと蔑まれたこともある。だから、自分は何処かの戦場で野垂れ死ぬことがお似合いだろうと思っていたし、それこそ親でも恋人でも自分に殺された『誰か』に敵討ちでもされれば上等だ。

 しかし――咲夜は違う。

 彼女に、一体何の咎があるという?

 優しい子だ。本当に、それだけだ。人一倍、他人のことばかりを気に掛ける……そんな少女だ。

 それが、何故。

 何故――病などに殺されようとしている!?


「この世界に……神がいるというのなら……!!」


 血が滲むほどに歯を食い縛り。

 朱里は、叫ぶ。


「何故俺を殺さない!? 何故、罪のない人間ばかりに不幸を見舞う!?」


 神とは、救いであるはずだ。

 それが、何故。

 どうして――理不尽ばかりを課すのだろうか。


「神とは――何なんだ!?」


 男の慟哭が。

 あまりにも悲痛な叫びが――天へと、響く。

 そこに座すのであろう神とやらは、応えない。

 応じることは、ない。



◇ ◇ ◇



 あの後、朱里は医者からまた後日来て欲しいと言葉を受け、その場を後にした。お互いの精神状態からして、冷静な会話ができないという判断からだ。

 ただわかったのは、たった一つの現実。


 ――遠くない未来、咲夜は死ぬ。


 たったそれだけの、覆しようのない真実。


「……くそっ……」


 やるせない。本当に、自分はこんなことばかりだ。

 友を見送った時も――こうして、一人で俯くことしかできなかった。


「……これが……罰なのか?」


 人を殺す術において、自分は間違いなくトップクラスの技能を有している。だが、その逆――人を救う術も、導く術も持っていない。

 これは、その罰なのだろうか?

 殺し続けてきた、罰なのだろうか……。


「…………?」


 咲夜の病室に入ろうとした時、朱里は眉をひそめた。室内から声が聞こえる。この時間は検査もなかったはずなので、誰かがいるということはありえないのだが……。

 病院内でできた咲夜の知り合いだろうか――そんなことを考え、ノックと共に部屋に入った瞬間。


「お帰りなさい、お兄様」


 いつも通りの笑顔と共に迎えてくれた咲夜。そちらは良い。そちらは良いのだが。


「あら、お邪魔しております」


 妖艶な笑みと共にそんなことをのたまう来訪者――神道絶の姿を見て、朱里は文字通り停止した。


「な……っ……!?」


 声が出ない。流石の朱里も、目の前の光景に言葉を失った。

 楽しげにこちらを見ている女性――思わず誰もが目を逸らしてしまうような氷の美貌を持つ女性の名は、神道絶。巷では《殺人鬼》とも呼ばれ、現在は一時的に朱里と手を組み、今は大人しく朱里の住むボロアパートにいあるはずの女性だ。

 どこから調達したのか、ファーストコンタクトの時やアパート内にいる時のような和服や浴衣ではない、イタリアでは一般的な洋服を着た絶は、どこか楽しげに言葉を紡ぐ。


「お伝えしたいことがあってここへ足を運んだんですが……可愛らしい妹さんですね、朱里さん」

「え、あ、可愛らしいなんて……」

「いえいえ、十二分に可愛らしいと思いますよ?」


 絶が微笑む。何だその口調と言葉遣いはと思うが、それは口に出さない。一瞬、これは別人かとも考えたが……それは有り得ない。絶のような容姿をした人間が、そう数多くいるはずがない。


「……貴様が何故ここにいる」


 我を取り戻し、朱里は憮然とした調子で絶へと問いかける。絶は、ふふっ、と笑みを零した。……この笑い方、間違いない。本人である。


「いえいえ、丁度家を出られるようになったので、色々と調べ物を。……色々と、厄介なことになってるみたいよぉ?」


 立ち上がり、小声で最後に絶はそんな言葉を付け加える。何、と朱里が眉をひそめた瞬間。


「失礼します。朱里・アスリエル大佐はおられますか」


 病室のドアがノックされた。朱里は一瞬だけ絶に視線を送ると、ドアを開ける。そこに立っていたのは、息を切らして手に何やら資料を持っている――イタリア軍の軍人だった。


「……ここは病院だ。軍服を着てくるような場所じゃない」


 まだ若いのであろうその青年に、僅かに眉をひそめて朱里は言う。青年は慌てて敬礼の体勢を取ると、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。どうやら、軍に入ってからの経験は長くないらしい。

 朱里はため息を零すと、要件を言うように青年へと促した。しかし、青年は朱里の背後に見えている咲夜と絶の姿を確認し、躊躇いを見せる。


「構わん。言え」


 朱里はそんな青年にきっぱりと言い放った。こういうどこか硬く、同時に冷たい言い回しは彼の特性でもあるのだが……それが彼を人の輪から遠ざけていることに、彼自身気付いていない。

 まあ、朱里自身、他人に気を許すことが滅多にない人物だ。故に問題はないのかもしれないが。


「で、では報告します」


 敬礼し、青年軍人は告げる。

 あまりにも衝撃的な――その事実を。


「――ガリア連合が、EUに宣戦布告を行いました」



◇ ◇ ◇



 病院の中庭。もうすぐ正午を迎えようという時間になっているためか、太陽が空へと昇り切ろうとしている。いい天気だ。こういう日が来ると、冬は越えたのだと感じさせてくれる。


「日差しは大丈夫?」

「はい、絶さんに頂いたこの帽子のおかげで」

「それは良かった」


 絶から受け取った麦わら帽子を被り直しつつそう返事をくれる咲夜に、絶が微笑む。その笑みには彼女らしい妖艶さが漂っているが、そこに朱里に向けているような含むところはない。笑顔の質は彼女の気質によるものだろう。

 彼女は今、咲夜が乗った車椅子を押して中庭を歩いている。本来ならば今日は朱里の出勤は午後からで、毎朝行っているという咲夜の散歩に久し振りについてくる予定だったのだが、想定外の緊急事態のために彼は軍部へと向かっていった。

 咲夜は残念そうにしていたが、聡い少女である。報告に来た青年軍人の言葉から事情の深刻さを察し、朱里を送り出した。絶はそのまま周辺の散策に出ようとしていたのだが、朱里に咲夜の護衛を頼まれて今に至る。

 まあ、住む場所と食べる物を貰っている身だ。恩もある以上、逆らえはしない。やることもないのだから当然だが。


 ――それにしても、ガリア連合が宣戦布告するとは少し予想外……『真選組』の目を欺くために一度入国したけど、さっさと出てきて正解だったようね。


 海外に出てからは一度も人殺しをしていないというのに、しつこく追いかけてくる『真選組』の追撃部隊。流石に局長自らEUに出向いて来た時は分が悪いので焦ったが、いい加減諦めて欲しいものだ。

 しかし、それにしてもガリア連合が出てくるとは絶も少々予想外だった。世界中に影響力を持っている大日本帝国が、ほとんど唯一ゴリ押しができない地域でもある彼らが、何故ここで動いたのか。

 動機はわかるし、大義もわかる。歴史的に見てアフリカ大陸はEU諸国から度々侵略を受け、奴隷として多くの人間が人以下の扱いを受けてきた歴史がある。しかも、シベリア戦役の間に発覚したEU貴族の奴隷所持は、彼らが立ち上がるに十分過ぎる大義名分だ。

 だが、それを聞いても絶には違和感しか発生しない。


 ……大戦から僅か二年。敗戦の記憶はまだ消えていないでしょうに。


 二年前の大戦において、ガリア連合とEUの戦争は無期限の休戦、痛み分けという形に落ち着いている。だが、その実態は大きく違う。ガリア連合を裏から牛耳っていた存在を、絶さえも知らなかった――かつて彼女自身が手傷を負わされた〝天才〟を中心とした《七神将》が打ち破り、彼らは退かざるを得なくなったのだ。

 その際、大戦で猛威を振るった神将騎も破壊されたので、多くの戦力をガリア連合は遺していないはずだが――


「……まあ、考えても仕方ないわね」


 どうせ自分は部外者だ。今のところは傍観しているべきだろう。必要となれば、どうせ後々巻き込まれる。


「どうされました?」


 そんな風に呟いた自分の言葉に反応してか、咲夜が首を傾げてこちらを見ていた。絶は、何でもないわよ、と微笑を零す。


「あなたのお兄さんも大変ねぇ、って思っただけ」


 絶としては特に考えもなく呟いた言葉だったのだが、それを聞いた咲夜は表情を一気に曇らせてしまう。


「そう……ですよね。私、やっぱりお兄様の迷惑に……」

「迷惑になってない、ってことはないわね」


 沈み切った声と言葉。それに対し、絶はあっさりと答える。咲夜がビクリと体を震わせたが、その前に絶は更に言葉を重ねた。


「けれど、そんなこといちいち気にしてたら身が持たないわよ? 大体、人は生きてるだけで何かしら他人に迷惑かけちゃうような生物。そんなどうしようもない生物が、迷惑かけずに生きようって思う方がどうかしてるのよ」


 絶は肩を竦める。その仕草と言葉を受け取り、咲夜はでも、と言葉を繋いだ。


「私は、こんな身体ですし……やはり、お兄様に迷惑を……」


 暗い言葉。絶はため息を吐いた。物事を悲観的にばかり考え、後ろ向きなことしか口にしない姿勢……もういない、『あの子』もそうだった。

 だからだろう。普段なら軽く流してしまう咲夜の言葉に、彼女らしくもなく反論をしてしまったのは。


「あたしがこんなこと言うのも、正直どうかと思うけれど。……朱里がさ、あなたに対して一度でも『重い』だとか『迷惑』だとか口にしたのかしら?」

「お、お兄様はそんなことを仰りません!」


 焦ったように咲夜が口にした反論は、非常に力強いものだった。絶は、そうよね、と頷く。


「だったらそれが真実よ。あなたがどう思おうと、彼はあなたを守ると決めたからそうしてるの。それを何? 暗いことばっかり考えて、自分が要らない子みたいなことを口にして……それ、彼に対する大きな裏切りよ?」


 口調がいつもの調子に戻りそうになるのを堪えながら、絶は続ける。


「彼は、あなたのために戦ってる。それを、他ならぬあなたが否定してしまったら……彼には何も残らない。違うかしら?」

「そ、それは……」

「別に、無力を嘆くことはイケナイことじゃないわ。むしろそれは必要なこと。けれど……それで、何もしないのは敗者の逃避。無力だと思うなら、少しでも変われるように努力したら? その方がずっと建設的よ」


 肩を竦める。らしくない――そんなことを思う。今更、自分は何を偉そうなことを語っているのか。

 結局、あの子を救えなかったくせに――……


「…………」


 咲夜は俯き、何事かを考え込んでいる。この手の人間は下手に時間がある分、深みに嵌ることが多い。しかも、咲夜は少し話しただけでもわかるほどに根が真面目だ。そういう人間は、得てして思考のド壺に嵌り込むと抜け出せなくなってしまう。


 ――まあ、丁度いい機会ね。彼にとっても、この子にとっても。


 この兄妹の事情など絶は知らないし、知ろうとも思わない。だがまあ、どうせなら面白く物事が動いてくれた方がありがたい。


「……まあ、悩むだけ悩みなさいな。あなたには時間が十分あるんだから」


 呟く言葉に、咲夜は僅かに頷くのみ。その反応を見やり、絶は空を見上げた。

 青々と広がる、空を。


「――さぁて、彼らはどう動くつもりかしらねぇ……?」


 誰かに対して呟いた言葉ではないそれに応じる者はなく。

 空気に溶けて、霧散した。



◇ ◇ ◇



 軍部に着いた朱里に届けられた情報は、思わず目を覆いたくなるようなものだった。

 西欧スペイン連合国の軍隊が駐留していたジブラルタル海峡付近に突如、ガリア連合の紋章が描かれた旗を掲げる集団が出現。宣戦布告と同時に進撃を開始した。

 そこからはガリア連合の電撃戦だ。アフリカ大陸各所にあった駐屯地は軒並み襲撃され、主だった拠点は破壊しつくされた。そこには無論、聖教イタリア宗主国の軍隊が駐留していた駐屯地も存在する。

 これを受け、EU諸国はガリア連合の宣戦布告が冗談でもなんでもないことを認識。宣戦布告から丸三日経ってようやくだというのだから、少々頭が痛くなる対応の遅さだが……所詮、利害の計算ばかりしている上層部の連中などこんなものだろう。

 その中でいち早く動いたのが、ジブラルタル海峡の管理をしているスペインだった。彼らはすぐさま周囲に散っていた駐留部隊を招集し、ジブラルタル海峡を最終防衛ラインとした三重の防衛線を構築した。そう、つまり――迎え撃つということだ。


 ――セオリーとしては、一度相手の主張を聞くのが道理だが……。


 戦争には大義名分が必要だ。一部、そんなことを気にしない国もあるが……それは特殊な例だ。国と国の間に怒ることである以上、他の国にも大義名分は通さなければならない。

 ガリア連合の大義名分は明確だ。シベリアにおいて統治軍が敗北するきっかけとなった、貴族たちの道楽として今も尚残っていた『奴隷』という制度。彼らにしてみれば、奴隷解放令によって解放されたはずの同志たちが未だに苦しんでいたというのだから尚更だろう。

 しかし、EUは――スペインは、相手の主張をまともに聞くこともなく戦争の意志を示した。民主化が進んだ国とはいえ、やはり彼の国にも後ろ暗いところはあったのだろう。


 ――いずれにせよ、また戦争か……。


 シベリア戦役から、まだそう時は経っていない。精々半年というところか。だというのに、この世界はその僅かな平穏さえも認めないらしい。

 いずれにせよ。


「……申し訳ない。今日の演習は中止とさせていただいてもよろしいだろうか?」


 応接室に入ると同時に、そこで待っていた二人へ朱里は軽く頭を下げた。合衆国アメリカより演習のために来ている、ダリウス・マックス大佐とその副官であるクロフォード・メイソンは、そんな朱里の様子を見ていやいや、と首を左右に振る。


「アンタが謝ることじゃねぇだろう、アスリエル大佐。あれもこれも、ガリアの連中が原因だ」

「この状況で演習を行えば、むしろ待ち伏せされて強襲される危険さえあります。アスリエル大佐の判断は正しいと思いますよ」

「困ったことに、それを納得させるのに随分時間がかかった。身内の恥を晒すようだがな」


 ふう、と朱里は息を吐く。今日行われる予定だった海上演習。それは地中海で行われる予定だったため、下手をすればガリア連合との接敵さえあり得るとして朱里は上層部に中止を申し出た。しかし、上層部は『ナメられる』などというふざけた論理でそれを一蹴。最終的にダンたち合衆国アメリカを巻き込んだ際、責任が取れるのかという朱里の一言で前言を撤回するに至る。

 朱里としては演習のための部隊をそのまま援軍としてジブラルタル海峡に送るのが道理だろうと思っていたので、正直上層部の対応には呆れを通り越してため息しか出てこない。しかも、結局命令は『待機』だ。状況を本当に理解しているのか不安になってくる。


「前回の大戦において、EUは一時地中海を全て制圧された。ガリア連合の武器は、あの凶悪な神将騎ではなくその圧倒的な数だ。……スペイン一国で、どうにかできる相手とは思えん」

「それに今回は、流石に連中も我慢の限界でしょう。奴隷……全く、EUも厄介なことを」

「返す言葉もないな」


 クロフォードの台詞に、朱里は真面目に頷いて応じる。その反応が予想外だったのか、クロフォードは慌てて首を左右に振った。


「い、いえ、これは大佐殿を責めたわけではなく……!」

「上の連中の悪行については今に始まったことじゃない。あなたがたまで巻き込んでしまい、本当に申し訳ない」


 もう一度、朱里は頭を下げる。それを受けて、まあ、とダンが口を開いた。


「大佐殿に非があるわけじゃねぇし、俺たちだって奴隷解放戦争なんてやらかしてんだから全くの無関係ってわけでもねぇ。そこでだ。乗りかかった船ってことで、俺たちも参戦する」


 ソファーに座り直しながら、ダンは笑みを浮かべて言い放った。朱里は目を見開く。


「それは、しかし。個人的にはありがたいが、そちらはそれで良いのか?」

「どうだクロフォード?」

「現在、ホワイトハウスに確認を取っております。とりあえず下された命は、別名あるまで待機と」

「とのことだ。そこで大佐殿、悪ぃんだがウチの連中の寝床を確保してくれねぇか? こっちに待機って言われてんだが、流石にずっとここの宿舎を借り続けるわけにもいかねぇだろう?」


 頭を掻きながら言うダン。彼らは今日の演習を終えた後、一週間後には祖国へ戻る予定だった。しかし、この状況ではその滞在期間が更に伸びることとなることは間違いない。現在は軍の宿舎を利用している彼らだが、長期滞在となれば流石に色々と問題が発生すると考えたのだろう。


「成程、それはこちらで上層部に申請してみよう。おそらく問題ないだろうが……それで無理なら、こちらで責任を以て宿は用意する」

「それはありがたい。……だがまあ、もしかしたら意外と早く終わるかもしれねぇがな」


 不意にそんなことを言い出すダン。朱里は首を傾げた。


「どういうことだ?」

「いや、スペインの連中は流石にケツに火がついてるからな。動きが早ぇ」

「今朝方、私たちのところへ本国から情報が届きました。――《火軍》が動いた、と」

「……《火軍》」


 その物騒な通り名に、朱里は思わず眉をひそめる。炎纏いし孤軍……故に、《火軍》。

 西欧スペイン連合国最強の神将騎を操る奏者に与えられた称号だ。

 朱里個人としては、正直苦手な相手なのだが……実力は確かな人物である。成程、あの男がいきなり最前線に投入されるなら、意外と早く状況は変化するかもしれない。


「まあ、一応これはオフレコで頼むぜ、大佐殿?」

「それは承知している。……それでは、宿舎のことについては追って連絡する。何かわからないことなどがあれば、遠慮なく呼びつけてくれ」

「ああ、了解だ」

「ありがとうございます」


 敬礼と共に、それぞれの言葉をこちらへ向けてくる。朱里も敬礼を返すと、部屋を出た。


「…………」


 ふう、と息を吐く。ダンたちの言葉を疑うつもりはない。しかし、《火軍》……自分と同じ、大戦の英雄がこんなにも早く戦場に出てくるとは。

 ――妙に、心がざわめく。

 何か、見落としていることがあるような……そんな感覚だ。


「……考えても仕方がない」


 絶によると、彼女が抜け出せたのは朱里のアパートを見張っていた者たちがおそらくこの件のせいで一時的にせよ現場を離れたからとのこと。朱里の監視を外すほど、この状況は突然のものだったのだ。そう考えると、この後のことも酷く憂鬱になってくる。


 ――教皇猊下からの呼び出しか……。


 親衛隊の総隊長である朱里が呼び出されるのは、至極当然のことではある。しかし、状況が状況である以上、どうにも気分が憂鬱になってくる。

 ふう、と朱里はため息を吐く。

 悩んでいても仕方がない。行動を開始しなければ。

 歩き出す。頭の中には、様々なことが駆け巡っていく。

 咲夜のこと。

 絶のこと。

 ガリアのこと。

 ソラやリィラのこと。

 どうにもならないことばかり、考えてしまう。


「…………」


 また――ため息。

 ため息を吐く度、幸せが逃げる――そんなことを言ったのは、誰だったか。


 ――おふくろ、だったか……。


 ならば自分は、どれだけの幸福を逃がしてきたのだろう?

 ふと、朱里は内心でそんなことを呟いた。


というわけで、朱里さんを取り巻く環境です。本当に彼は色々と背負ってます。背負い過ぎな気もしますが……それは彼の気質でしょうということでここはひとつ。

現実的に考えて、困難って一つずつ丁寧に来るようなものではないんですよね。今回の朱里何かその典型。彼の前に積み上げられた問題は、一日の内に積み上がるようなものではないという。


さてさて、ここまで未だにまともな戦闘やら何やらがない新章ですが、ここからは一気に戦争モード。次回は色んな神将騎が大暴れします。


ではでは、感想ご意見お待ちしております。


ありがとうございました!!

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