見限りと言われ、十二年の枯らし節を上げません。夏にお宅の出汁が香りません
六本。
若旦那の声は、上物の節なら六本ぶん遠くまで届く。あいにく、買い手のつかない六本だった。
「次の代からは、節はよそから買う。数も揃うし、値も話が早い」
梅雨の湿りを含んだ蔵の戸一枚を挟み、景右は仲買へ景気よく言い切った。本人へ告げるより先に、本人の背中へ聞かせる声量である。あの羽織は三十本、帯まで足せば四十本。着る物にこれだけ掛けて、声の値だけ暴落させるとは、若旦那も思い切った商いをなさる。
わたしは節の腹へ指を当てた。脂がわずかに戻る。梅雨入り二日目、これは上の棚では近すぎる。月を書いた札を一つずらし、刃口に残った薄い欠片を爪で払った。
「いまの仕込みも、ずいぶん手間を掛けているそうじゃないか」
「女ひとりの見立てですから、まあ、昔からの癖のようなもので」
仲買の笑い声が戸の向こうで転がった。癖で十二年も飯が食えるなら、世の職人はみな猫でよい。寝て、伸びて、ときどき魚を盗む。わたしもぜひ、そちらへ転職したい。
「都和」
ようやく名を呼ばれたので、節から手を離さず返事をした。
「はい、若旦那」
「来月から仕入れを変える。今ある分は、いつもどおりやれ」
未来は要らないが、今日の働きは要るらしい。たいそう倹約上手だ。人ひとりを半分だけ買える秤があるなら、ぜひ見せてもらいたい。
「承知しました」
戸が開き、景右が仲買を連れて入ってきた。二人とも新しい草履で、泥の跳ねまで威勢がよい。景右は、わたしが触れていた節を指先でつついた。
「これと、あれとは何が違う」
「腹側の厚みと脂です。こちらは今日、上げます。あちらはあと二日、風を見ます」
「二日の違いで値が変わるのか」
「二年先には」
景右は鼻で笑い、仲買へ向き直った。わたしには短い命令、客には大声。声を使い分ける知恵だけは、札に書かずとも身についたようだ。
「節は、干せば枯れます」
値切りの根拠としては、ずいぶん乾いている。
わたしは返事をせず、手元の一本へ新しい札を結んだ。十二年前より少し太くなった字で、月と番手と棚を記す。紐を締める指が一度止まり、それでも節は予定どおり上の棚へ置いた。
昼は蔵口で、朝の残りの握り飯を食べた。梅雨だろうが夏だろうが、冷えた飯は律儀に冷たい。せめて味噌汁一杯くらい、よそから買うと決めてくれればよかったのに。
* * *
「札など要らん。日数だけ書いておけ」
翌日、景右は棚から札を外し始めた。わたしの字で埋まった札が、月ごと、魚ごと、十二年ぶん。外した端から籠へ放り込み、柱には大きな紙を貼る。番手の横に日数、その隣にカビを払った回数を墨で記す升目つきだ。
「なるほど。十日目で一度払う、と」
「これなら俺にもできる」
若手衆が紙を指で追い、揃ってうなずいた。できる。まことに結構。貼り紙一枚で鼻まで生えるなら、わたしも昼飯を抜かずに済んだろう。十二年ぶんの握り飯を返してほしい。一日一個でも四千個を越す。米屋が一軒建つ。
「都和、去年の二番棚は何日で払った」
「節によります」
「だから、その節を見ずに済むよう書くんだ」
見ずに済ませるための見立て表。目を閉じて魚を買う商いとは、なかなか豪胆である。仲買の前では腹から声を出す景右も、わたしへ命じるときは書き付けをめくったままだった。顔を見ると何か余計なものまで見えるらしい。鼻より先に目を節約なさったか。
「承知しました」
札を拾い、紐をほどく。一枚ごとに月と番手を読み直したりはしない。今さら十二年を数えたところで、勘定書きを受け取る相手がいない。
景右は若手衆へ刷毛を渡した。
「この印の日に払え。数が多ければ二人でやれ」
「表どおりなら間違いなしだ」
「都和さんも、これから楽になりますね」
「ええ。たいそう」
何が、とは申し上げなかった。先々の朝がごっそり空く。握り飯を温める暇くらいはできそうだ。鍋まで買えば節十五本、味噌も要る。自由とは初手から出費が多い。
その日の棚は、最後までわたしが見た。指に戻る脂を確かめ、払うものだけを払う。刃口も研ぎ直し、注文の削りは一枚も崩さなかった。
夕方、漁師町へ寄った。三軒の戸口で、次に上がる生節のことだけを伝える。
「玄八さんのところは、腹の厚い二本を先に。今朝のは脂が強うございました」
「明日の西風まで待ってください」
「小さいほうは煮売りへ」
店を離れる話はしなかった。魚に要るのは挨拶でなく、行き先である。三軒とも返事は短く、玄八さんだけがわたしの空の手を見た。
「姐さん。札はどうした」
「若旦那が紙一枚にしてくださいました」
「紙が魚を嗅ぐのか」
「鼻のある紙なら、ずいぶん高く売れますねえ」
玄八さんは笑わなかった。魚の目を見る顔で、わたしを一度見た。
* * *
翌朝も、注文ぶんはいつもどおり削った。
刃口へ節を当て、押して、引く。薄い一枚が反らずに伸びる。厚く割れたものは除き、煮売り屋へ納める袋には香りの揃ったものだけを入れた。ここで屑を混ぜれば景右の失点にはなるが、その前にわたしの手の失点になる。若旦那の羽織代を守る義理はなくとも、わたしの指の値までまける気はない。
「三斤、揃いました」
「置いておけ。昼に届けさせる」
景右は柱の紙へ丸をつけていた。若手衆がその後ろから覗き込み、丸の形まで覚えようとしている。鼻は生えなかったが、丸を書く弟子は増えたらしい。
昼前、新しい荒節が届いた。玄八さんの船から上がった、腹の厚い一本がいちばん上にある。指の腹を置けば、昨日伝えた脂だった。ここからカビをまとわせ、休ませ、また払う。夏を越し、冬を越し、もう一度夏を越す一本だ。
「都和、それも上へ運べ」
わたしは荒節を抱えたまま、蔵口に立った。
「今日のご注文は、すべて仕上がっております」
「見れば分かる。新しい分を上げろ」
「それは、次の代の品でございますね」
「だから何だ。今月いっぱいは働く話だろう」
今月ぶんの銭は、今日の注文へ払われる。二年先の香りまで同じ銭に詰め込めるなら、ずいぶん丈夫な銭だ。けれど、ここで値を言えば、景右は一枚二枚を上乗せして買った顔をする。
わたしは荒節を蔵口の台へ置いた。落とさず、隠さず、傷もつけない。刃を布で拭き、砥石の脇へ戻した。刷毛は毛先を揃え、紐は巻き、空の袋は大きさ順に畳む。十二年、朝の手が迷わぬよう決めた位置だった。
「何をしている」
棚から札が下がっている。
月も、番手も、わたしの字もない。きれいな棚だ。何一本ぶんか、何文ぶんか、腹の中の算盤が動かなかった。
「わたしはこの一本を、十二年、わたしの節だと思うて上げておりました」
景右が持っていた筆の先から、墨が一滴落ちた。
「急に何の話だ」
「今日のお品は終わりました。新しい一本は、若旦那の表でお願いいたします」
「待て。今月いっぱいと言った」
「削りのご注文は、今月いっぱい承っております」
「同じことだろう」
「いいえ」
刃は持たない。札も持たない。棚に残る節にも触れなかった。わたしが抱えて帰ってよいものは、空いた明日の朝だけだ。
「勝手をするなら、戻すぞ」
「何を、どこへでございましょう」
景右の口が開いたままになった。戻す場所を決めずに人を外すから、そうなる。
わたしは一礼し、蔵口の一本を残して外へ出た。梅雨の雨が上がりかけ、軒から落ちる雫が首へ入った。冷たい。腹は減った。握り飯は店の棚に置いたまま。
それだけは少々、惜しかった。
* * *
半年、何も変わらなかった。
旧店には二年枯らした節が積んであり、削れば同じ香りが立った。煮売り屋も講の女衆も、いつもの袋をいつもの数だけ買った。柱の紙には丸が増え、景右は客の前で「人に頼る商いは古い」と声を張ったそうだ。
景右は思った。節なんぞ、干せば枯れる。蔵に置いて日を数えれば、都和の節と同じになる、と。
わたしの朝は、漁師町で始まるようになった。玄八さんが魚を並べる横で、腹を押し、皮の艶を見る。仕入れの決定はしない。ただ「これは急がないほうがよい」「そちらは今日」と言うだけで、三軒が聞いた。
「姐さん、汁を飲め」
ある朝、玄八さんが欠けた椀を押してきた。湯気の下に大根と葱が沈み、煮干しの匂いがした。鰹節屋に十二年いて、よその出汁へ浮気するとは。だが温かい。罪は温度でだいたい軽くなる。
「銭は」
「魚一尾の腹を当てたら、今朝のぶんはただだ」
「外したら」
「三日来るな」
わたしは椀を両手で持ち、ひと口すすった。熱くて舌を引っ込める。冷えた握り飯なら起きない事故だ。事故なのに、もうひと口いった。
「こいつはどっちだ」
「煮るなら今日。枯らすなら、脂を落としてからです」
「当たりだ」
「では、もう一杯」
「そこまで込みとは言ってねえ」
空いた朝は、少しずつ埋まった。煮売り屋が魚の選び方を聞き、講の女衆が祭りの汁に向く節を尋ねる。わたしは答え、そのたびに銭を取ったり、野菜を受け取ったりした。大根一本を節へ換算すると安い。温かい汁へ換算すると、急に高い。相場とは腹次第である。
蔵を持てとは、まだ誰も言わなかった。わたしも言わない。節を二年寝かせる場所は、椀一つよりはるかに高い。鼻だけで屋根は建たないし、信用だけで壁は塗れない。
それでも玄八さんは、生節の行き先を決める前にわたしへ見せるようになった。見せたあと、魚の行き先が変わることもあった。
* * *
季節が巡り、また夏が来た。
旧店の二年物が尽きる朝、わたしは向かいの煮売り屋で葱を刻んでいた。手伝い賃は昼の汁と銭少々。汁を選んだのは、わたしではなく胃袋である。胃袋はいつも正しい。
道の向こうで、旧店の戸が大きく開いた。景右が削り台の前に立ち、柱の紙を若手衆へ示している。表どおりに育てた最初の節を、客の前で削るらしい。
「十日で一度、きっちり払った」
「番手も間違いありません」
「色もついてますよ、若旦那」
節が刃口へ当たった。ざり、と重い音が道まで届く。若手が力を掛け、短い削りが台へ溜まった。景右はそれをつまみ、用意した湯へ落とした。
皆が椀の上を見た。
湯気だけが立った。
誰かが鼻を近づける。若手がもうひとつかみ落とす。湯の色は濃くなったが、梅雨明けの道を渡ってくるはずの香りは来ない。葱を刻むわたしの手元には、青い匂いしかなかった。
煮売り屋の衆が道を渡った。旧店で一袋を買い、その場でひとつまみ湯へ入れた。待つ。首を傾ける。もう一度、袋へ鼻を寄せる。
袋は、口を開けたまま景右の前へ返された。
「いつものを」
「これが、いつものだ」
煮売り屋の衆は首を振った。怒鳴らない。値切らない。袋を指で押し戻し、店へ帰ってきた。
「葱、太いぞ」
「見ていたら曲がりました」
「葱は貼り紙どおりには切れねえか」
「鼻のある貼り紙なら切れるかもしれません」
わたしは曲がったぶんを自分の椀へ入れた。景右は道の向こうで、湯へ顔を近づけたままだった。
翌月、旧店から煮売り屋への袋は来なかった。注文する声も、道を渡らなかった。
* * *
「四十年の付き合いだぞ」
船着き場で、景右の声が網の上を滑った。上物なら八本ぶん。前より二本増えた。値の下がった品ほど、量で押してくる。
玄八さんは魚の腹へ手を当てたまま、顔を上げなかった。
「今朝のは、そっちの蔵に向かねえ」
「魚が店を選ぶものか」
「魚は選ばねえ。おれが選ぶ」
「値なら上げる」
「そういう腹じゃねえ」
景右がわたしを見た。旧店では書き付けから上げなかった顔を、今ごろ惜しげもなく向けてくる。玄八さんには声を張ったのに、わたしへは半分になった。
「都和、おまえからも言え」
「今朝のは脂が強うございます」
「それを何とかするのが蔵だろう」
「はい。する人のいる蔵なら」
景右の声が、さらに一本ぶん縮んだ。
その日の昼、香澄さんが返された袋を抱えて煮売り屋へ来た。袋の口は一度ほどけていた。香澄さんは紐を抜き、皺を伸ばし、もう一度きっちり結び直した。
「うちが売った品です。わたしが参りました」
景右が悪い、とは言わなかった。煮売り屋の衆へ頭を下げ、講の寄り合いへ行き、注文の絶えた先を一軒ずつ回った。袋は最後まで自分で持っていた。
夕方、わたしが旧店の前を通ると、戸が開いていた。香澄さんが勘定場に立ち、景右は店の印を握っている。
「叔母上、今さら俺を外せば戻らない」
「戻らないものを、あなたに持たせておく理由もありません」
「都和が勝手に辞めたんだ」
「任せきったのは、わたしです」
香澄さんは手を差し出した。景右は印を置かなかった。香澄さんも手を下ろさない。通りを一台の荷車が過ぎ、それでも二人の手は動かなかった。
やがて印が、香澄さんの掌へ落ちた。
香澄さんはわたしに気づいたが、呼び止めなかった。印を勘定場の引き出しへ納め、返った袋をその上へ置いた。
船着き場へ戻ると、玄八さんが三軒の漁師と待っていた。煮売り屋の衆もいる。講の女衆は筵に書き付けを広げ、わたしを見るなり注文の数を読み上げた。十袋、十二袋、祭り前は二十。人ひとりを捕まえる網としては、目が細かすぎる。
「姐さん。おれたちはあの店に売ってたんじゃない。あんたの鼻に売ってたんだ」
玄八さんが言った。
「場所はある。昔の網蔵だ」
「壁は講で直すよ」
「最初の注文は、ここにある」
女衆が書き付けを叩いた。乾いた音がした。わたしは書き付けより、皆の手を見た。魚の鱗が残る爪、針で硬くなった指、煮炊きで赤くなった甲。十二年、札を結んできたわたしの指と、たいして違わない。
「節は、二年待っていただきます」
「待つよ」
「その間、屋根代も壁代も掛かります」
「勘定はもうした」
「わたし、安くありませんよ」
「知ってるから呼んだんだ」
即答とは困る。値切られたときの文句を三つも用意していたのに、丸損である。
「蔵の名は」
講の女衆が筆を持ち上げた。
わたしは自分の名を言った。
* * *
二年後の夏、新しい蔵の戸を開けた。
朝の風は乾いている。棚から一本を下ろし、指の腹で脂の落ち着きを読む。札には、わたしの字で月と番手がある。誰に見せるためでもなく、わたしが二年後のわたしへ残した字だ。
削り台の刃口へ節を当てた。
押す。引く。薄い一枚が、途切れず、刃の向こうへ伸びていく。朝の光を透かし、ふわりと台へ落ちた。
「長いねえ」
講の女衆が戸口から首を出した。
「一本目を褒めても、おまけはつきませんよ」
「汁ならつけるよ」
「それは先に言ってください」
もう一度削る。今度も長い。香りが刃口から立ち、蔵の板へ触れ、開いた戸から夏の道へ出ていった。自分の名を掲げた蔵で、自分の字の札を結び、自分のために刃を引く。これはいけない。腹の算盤が、どこから数えてよいのか迷っている。
「都和」
背後から景右の声がした。
振り向くと、蔵の前に一人で立っていた。羽織は以前より地味で、声は節一本ぶんも飛ばない。仲買も若手衆もいない。
「戻ってくれ」
今度は、わたしより先に誰かへ話してはいなかったらしい。遅い順番だけは、ようやく直った。
「店の注文が戻らない。香澄さんも、仕入れだけではどうにもならないと言っている。蔵を見てくれ。おまえの言うとおりにする」
「こちらの蔵がございますので」
「二つ見ればいい。銭は払う」
「二年ぶんを、でございますか」
「必要なだけ払う。だから——」
景右は蔵の札を見た。わたしの名を見て、それから削り台の一枚へ目を落とした。
「頼む。戻ってくれ」
わたしは刃から手を離した。
「節は、干せば枯れます」
景右の口が閉じた。
よし。二年寝かせた返事としては、香りも悪くない。
景右は頭を下げたまましばらく動かず、やがて道を戻っていった。追わない。旧店の先を案じる算盤も弾かない。わたしの棚には、次の夏を待つ節がある。
講の女衆が蔵の前へ筵を敷き、椀を並べた。削りたてを落とした鍋から、白い湯気が上がっている。大根、葱、豆腐。具の数だけでも相当な豪勢だ。
「都和さん、最初の椀」
「大盛りで」
「節を余分に削ったら、そのぶん働いてもらうよ」
「自分の蔵です。働きますとも」
皆で車座になった。わたしは椀を両手で包み、立つ香りへ鼻を近づけた。
この椀だけは節何本ぶんとも数えまい。数えた途端、もう一杯を頼みにくくなる。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
またどこかでお目にかかれましたら。




