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酒で世界は救えますか? ~飲み過ぎで死んだ酒豪、異世界では乾杯ひとつで争いを終わらせます~  作者: 春野ケイ


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第29話 火は友に

 広場は静まり返っていた。


 誰も言葉を発しない。


 聞こえるのは、夕暮れの風が草を揺らす音だけだった。


 ガンツは父の木杯を胸の前で静かに抱く。


 一樹も木杯を受け取り、その場へ立った。


 店主が大きな酒樽を抱えて歩いてくる。


「長老。」


「用意してきました。」


 樽の蓋を開けると、ふわりと香ばしい香りが広がった。


 火酒だった。


 昨日、一樹が初めて口にしたドワーフの酒。


「今日のために。」


「蔵で一番出来のいい樽を持ってきました。」


 店主はそう言って微笑む。


 ガンツも小さく頷いた。


「ありがとう。」


 店主はゆっくりと父の木杯へ酒を注ぐ。


 琥珀色の火酒が、静かに木杯を満たしていく。


 次にレオン。


 そして若い鍛冶師たち。


 年配の職人たち。


 一人、また一人と木杯へ酒が注がれていく。


 子どもたちには、山ぶどうを搾った果汁が配られた。


 小さな木杯を受け取り、嬉しそうに抱えている。


 一樹は思わず笑った。


「子どもたちも参加するんですね。」


 ガンツは穏やかに頷く。


「乾杯は。」


「酒だけのものではない。」


「共に杯を交わすことに意味がある。」


「だから。」


「子どもも、大人も関係ない。」


 一樹は静かに木杯を見つめた。


 その考え方が、とてもドワーフらしいと思った。


 やがて全員の手に木杯が行き渡る。


 広場には百を超える木杯が並んでいた。


 その光景を見つめながら、ガンツはゆっくりと一歩前へ出る。


 三百年前。


 この場所で父も立っていた。


 同じ木杯を手に。


 同じ夕暮れの空を見上げながら。


 ガンツは父の木杯を静かに掲げた。


 広場中の視線が集まる。


 言葉を待っていた。


 しかし。


 ガンツの口は開いたまま止まる。


 声が出ない。


 三百年間、一度も口にしなかった言葉。


 喉まで出かかっているのに、あと少しが届かない。


 手が小さく震える。


 誰も急かさなかった。


 誰も代わりに言おうとはしなかった。


 一樹も静かに木杯を掲げる。


 何も言わない。


 ただ、ガンツの隣で待っていた。


 店主も木杯を掲げる。


 レオンも。


 町の人々も。


 子どもたちも。


 皆が静かに、その時を待っていた。


ガンツは目を閉じた。


 三百年前の景色が、ゆっくりと脳裏によみがえる。


 父の笑顔。


 兄の笑顔。


 肩を組んで笑い合っていた人間の友。


 宴の広場を包む笑い声。


 そして、皆が一斉に木杯を掲げた、あの瞬間。


 ガンツはゆっくりと息を吸う。


 震えていた手が、少しだけ落ち着いていく。


 目を開くと、そこには町の人々がいた。


 恐れながらも木杯を掲げる若者。


 不安そうに見守る老人。


 未来を知らず、無邪気に木杯を持つ子どもたち。


 そして。


 自分を信じて隣に立つ、一人の旅人。


 ガンツは小さく笑った。


「……父上。」


「ようやく。」


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


 ガンツは木杯を少し高く掲げる。


 その姿に合わせるように、広場中の木杯が静かに持ち上がる。


 夕日に照らされ、無数の木杯が黄金色に輝いた。


 ガンツはゆっくりと口を開く。


「……火は友に。」


 静かだった。


 けれど、その一言は広場の隅々まで届いた。


 一樹は嬉しそうに微笑む。


 そして、迷うことなく木杯を掲げた。


「火は友に。」


 店主も続く。


「火は友に。」


 レオンも力強く声を上げる。


「火は友に!」


 次々と声が重なっていく。


「火は友に!」


「火は友に!」


「火は友に!」


 三百年間、誰も口にしなかった言葉が、再び町に響き渡る。


 やがて。


 無数の木杯が静かに触れ合った。


 カツン。


 カツン。


 カツン……。


 その優しい音が、宴の広場いっぱいに広がっていく。


 その瞬間だった。


 誰もが胸の奥に、温かな何かが灯るのを感じた。


 恐れも。


 後悔も。


 悲しみも。


 すべてが消えたわけではない。


 それでも今だけは、本当の気持ちを隠す必要がなかった。


 店主が目に涙を浮かべながら笑う。


「……本当は。」


「ずっと。」


「もう一度、この言葉を言いたかった。」


 レオンも笑う。


「俺もです。」


「ずっと、皆で飲んでみたかった。」


 年配のドワーフが照れくさそうに鼻をすすった。


「儂も……。」


「怖かっただけなんじゃ。」


 あちこちで笑い声と涙声が重なる。


 一樹は静かに火酒を口へ運んだ。


 香ばしい香りが鼻を抜ける。


 口いっぱいに広がる深いコク。


 昨日飲んだ時より、ずっと美味しく感じた。


 ガンツも火酒をひと口飲み、ゆっくりと空を見上げる。


「……旨い。」


 その一言に、広場中から笑い声があふれた。


 三百年ぶりの宴は、ようやく始まった。


宴はゆっくりと賑わいを取り戻していった。


 店主が樽から火酒を注ぎ足し、あちこちで笑い声が響き始める。


「これが本当の火酒だ!」


「やっぱり宴で飲む酒は違うな!」


 若い鍛冶師たちは顔を見合わせ、照れくさそうに笑い合った。


 年配の職人たちも、いつの間にか昔話に花を咲かせている。


「あの頃は毎年飲み比べをしておったな。」


「結局、毎回飲み過ぎるんじゃが。」


「ははは!」


 三百年間止まっていた時間を埋めるように、思い出話が次々とあふれ出す。


 一樹はその光景を眺めながら、静かに火酒を味わっていた。


「酒井。」


 ガンツが隣へ腰を下ろす。


「今日は、本当にありがとう。」


 一樹は首を横へ振った。


「俺は何もしてません。」


「皆さんが、自分たちで一歩踏み出したんです。」


 ガンツは小さく笑う。


「謙遜するものではない。」


「お主がおらねば。」


「儂はあの日を思い出そうともせんかった。」


 そう言って、広場を見渡す。


 走り回る子どもたち。


 酒を酌み交わす職人たち。


 笑顔で語り合う老人たち。


 その光景は、三百年前の宴と重なって見えた。


「ようやく……。」


 ガンツは目を細める。


「儂らは前へ進めそうじゃ。」


 一樹も広場を見渡し、穏やかに微笑んだ。


「また、この町へ来ます。」


「その時も。」


「皆さんと一杯飲みたいです。」


 ガンツは嬉しそうに頷く。


「ああ。」


「その時も。」


「火は友に。」


 一樹も木杯を軽く掲げた。


「火は友に。」


 木杯が静かに触れ合う。


 カツン。


 その音は、もう悲しい過去を思い出させる音ではなかった。


 新しい未来の始まりを告げる、優しい音へと変わっていた。


次回に続く。

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