第1話 私だけじゃ、なかった
夜中の台所に、四つの顔が並んでいた。
女性専用シェアハウス『常夜灯』の住人――怜さん、まひるさん、ゆめちゃん、累さん。この家で住み込みの管理人をしている俺の前に、その四人が、それぞれの「秘密」を抱えて降りてきた、午前一時の話だ。
少し、時間を戻す。
***
その夜、最初に管理人室のドアを叩いたのは、怜さんだった。
「管理人さん。起きてます……?」
「はい。どうしました」
「あの。おでん、まだ……ありますか」
俺は笑って、土鍋を温め直した。
仕事で遅くなった夜、彼女は決まってこうして降りてくる。出汁の染みた大根と、卵と、ちくわ。それに、よく冷えた日本酒を、おちょこに一杯だけ。
「……生き返る」
カウンターに肘をついて、怜さんが目を細めた。
「これ、私だけの特権だと思ってるんですけど」
「特権ですか」
「そう。深夜のおでん。会社の誰にも教えたくない。私だけの秘密の、夜のごほうび」
俺は、はあ、と曖昧に頷いた。彼女は満足そうに、大根を箸で割っていた。じゅわ、と、琥珀色の出汁が染み出していく。
──秘密、ねえ。
そのとき、俺は、まだ気づいていなかった。
***
怜さんが二階へ戻って、しばらくして。今度は、まひるさんが、おずおずと顔を出した。
「あの、管理人さん……お腹、すいちゃって」
「オムライス、いきますか」
「……いいんですか?」
目が、ぱっと輝いた。
ふわとろの卵を、薄く焼いたチキンライスに被せて、スプーンの背で、すっと割る。半熟の卵が、とろりと流れ落ちる。じゅう、と、バターの匂いが立ちのぼった。
「……これ、夢みたい」
スプーンを握ったまま、まひるさんが、しみじみと言った。
「会社でいっぱい怒られた日でも、これ食べたら、生き返るんです。私、これがあるから、明日も会社行けるんだと思う」
頬を膨らませて、もぐもぐと噛んでいる。
「これって、私だけの……特別な、お夜食ですよね」
「特別、ですか」
「だって、こんなに優しくしてもらえるの、私だけだもん」
そう言って、まひるさんは、ほにゃりと笑った。俺は、また、はあ、と頷いた。
***
それから三十分。足音を忍ばせて、ゆめちゃんが下りてきた。
「……おじさん、起きてる?」
「起きてますよ。トースト、焼きます?」
「……うん」
スウェット姿で、眼鏡をかけたゆめちゃんは、まだどこか不機嫌そうな顔をしていた。けれど、その指先は、もう、はちみつの瓶に伸びている。
厚切りの食パンに、とろけるチーズをのせて、こんがりと焼く。仕上げに、はちみつを、つうっと垂らす。メイラード反応で、こんがりキツネ色に焼けたパンの香りと、温まったはちみつの甘い匂いが、ふわりと混ざる。
「……はぁ。これこれ」
トーストを両手で持って、ゆめちゃんが齧りついた。
「課題やってると、夜中にこれ食べたくなるんだよね。おじさんのトースト。これだけは、誰にも言ってないんだから」
「内緒、なんですか」
「当たり前でしょ。だって、私だけのやつだもん」
ふん、と、ゆめちゃんは鼻を鳴らした。頬が、ほんの少し、緩んでいた。
***
そして、午前一時。
「……腹、減った」
亡霊のような足取りで、累さんが下りてきた。締切前らしい。髪はぼさぼさで、ペンを耳に挿したまま、目の焦点が合っていない。
「メンチカツサンド、いけますか」
「神……」
両手を合わせて、累さんが拝んだ。
挽肉をしっかり練ると、脂と肉が乳化して、肉汁を抱え込む。それを、二度に分けて、からりと揚げる。一度目で休ませ、余熱を入れてから、もう一度。衣が、しゅわしゅわと、油のなかで踊った。
こんがり焼いた食パンに、挟む。齧ると、じゅわっと、熱い肉汁が溢れ出す。片手で食べられるから、もう片方の手で、ペンを握ったまま齧れる。
「……これがないと、私、死ぬ」
メンチカツサンドを齧りながら、累さんが呟いた。
「夜中にこれ食べられるの、私の特権だと思ってる。締切の戦友。誰にも渡さない、私だけの──」
そこまで言いかけて。累さんは、ぴたりと、止まった。
***
台所の入口に、人影が三つ、立っていた。
怜さん。まひるさん。ゆめちゃん。
三人とも、それぞれの夜食をもう一度ねだりに、こっそり降りてきたのだ。そして、ばったり、鉢合わせた。
しん、と、台所が静まり返った。四人の目が、ゆっくりと、互いを見渡す。そして、最後に、全員の視線が、エプロン姿の俺に集まった。
「……管理人さん」
口火を切ったのは、怜さんだった。
「あなた、いま、その子に、メンチカツサンド作ってましたよね」
「は、はい」
「私には、おでん」
「……ええ」
「私には、オムライス」と、まひるさん。
「私には、トースト」と、ゆめちゃん。
四人が、すうっと、目を細めた。
「……つまり」
怜さんが、低い声で言った。
「私だけじゃ、なかった」
***
俺は、まずいことになった、と思った。
何がまずいのかは、正直、よく分からなかった。みんな腹が減っていて、俺はみんなに飯を出した。それだけのことだ。けれど、四人の女性が、四人とも、なんだか妙に静かなのである。
「私、てっきり」
まひるさんが、ぽつりと言った。
「自分だけの、特別なお夜食だと、思ってました」
「私も」と、ゆめちゃん。
「私も」と、怜さん。
「……私も」と、累さん。
四人が、顔を見合わせた。そして、なぜか、じとっとした目で、俺を見た。
「私以外の子にも」
怜さんが、ため息まじりに言った。
「あんな優しい顔、するんだ」
「……えっ?」
俺は、きょとんとした。優しい顔も何も、夜中に腹を空かせた人がいたら、飯を作る。当たり前のことではないか。
「具合でも、悪いんですか。みなさん、顔色が」
「悪くないです!」
四人の声が、見事に、揃った。足元で、小麦が「くぅん」と、首をかしげた。
再び火にかけたおでんの鍋が、ことこと、と小さく鳴りはじめる。出汁の匂いが、四人のあいだを、そっと縫って流れていった。
その湯気の向こうで、四人が、ちらり、と目を見交わしたのを──このときの俺は、まだ気づかないでいた。
「深夜の夜食は私だけの特権」と思っていた四人が、午前一時の台所でばったり鉢合わせ。「私以外にも、あんな優しい顔するんだ」とじとっとした目――この可愛い火花にニヤッときたら、【笑える】か【にこにこ】を! 続きが気になったらブックマークを。




