↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/40

第1話 私だけじゃ、なかった

夜中の台所に、四つの顔が並んでいた。


女性専用シェアハウス『常夜灯(じょうやとう)』の住人――怜さん、まひるさん、ゆめちゃん、累さん。この家で住み込みの管理人をしている俺の前に、その四人が、それぞれの「秘密」を抱えて降りてきた、午前一時の話だ。


少し、時間を戻す。


***


その夜、最初に管理人室のドアを叩いたのは、怜さんだった。


「管理人さん。起きてます……?」


「はい。どうしました」


「あの。おでん、まだ……ありますか」


俺は笑って、土鍋を温め直した。


仕事で遅くなった夜、彼女は決まってこうして降りてくる。出汁の染みた大根と、卵と、ちくわ。それに、よく冷えた日本酒を、おちょこに一杯だけ。


「……生き返る」


カウンターに肘をついて、怜さんが目を細めた。


「これ、私だけの特権だと思ってるんですけど」


「特権ですか」


「そう。深夜のおでん。会社の誰にも教えたくない。私だけの秘密の、夜のごほうび」


俺は、はあ、と曖昧に頷いた。彼女は満足そうに、大根を箸で割っていた。じゅわ、と、琥珀色の出汁が染み出していく。


──秘密、ねえ。


そのとき、俺は、まだ気づいていなかった。


***


怜さんが二階へ戻って、しばらくして。今度は、まひるさんが、おずおずと顔を出した。


「あの、管理人さん……お腹、すいちゃって」


「オムライス、いきますか」


「……いいんですか?」


目が、ぱっと輝いた。


ふわとろの卵を、薄く焼いたチキンライスに被せて、スプーンの背で、すっと割る。半熟の卵が、とろりと流れ落ちる。じゅう、と、バターの匂いが立ちのぼった。


「……これ、夢みたい」


スプーンを握ったまま、まひるさんが、しみじみと言った。


「会社でいっぱい怒られた日でも、これ食べたら、生き返るんです。私、これがあるから、明日も会社行けるんだと思う」


頬を膨らませて、もぐもぐと噛んでいる。


「これって、私だけの……特別な、お夜食ですよね」


「特別、ですか」


「だって、こんなに優しくしてもらえるの、私だけだもん」


そう言って、まひるさんは、ほにゃりと笑った。俺は、また、はあ、と頷いた。


***


それから三十分。足音を忍ばせて、ゆめちゃんが下りてきた。


「……おじさん、起きてる?」


「起きてますよ。トースト、焼きます?」


「……うん」


スウェット姿で、眼鏡をかけたゆめちゃんは、まだどこか不機嫌そうな顔をしていた。けれど、その指先は、もう、はちみつの瓶に伸びている。


厚切りの食パンに、とろけるチーズをのせて、こんがりと焼く。仕上げに、はちみつを、つうっと垂らす。メイラード反応で、こんがりキツネ色に焼けたパンの香りと、温まったはちみつの甘い匂いが、ふわりと混ざる。


「……はぁ。これこれ」


トーストを両手で持って、ゆめちゃんが齧りついた。


「課題やってると、夜中にこれ食べたくなるんだよね。おじさんのトースト。これだけは、誰にも言ってないんだから」


「内緒、なんですか」


「当たり前でしょ。だって、私だけのやつだもん」


ふん、と、ゆめちゃんは鼻を鳴らした。頬が、ほんの少し、緩んでいた。


***


そして、午前一時。


「……腹、減った」


亡霊のような足取りで、累さんが下りてきた。締切前らしい。髪はぼさぼさで、ペンを耳に挿したまま、目の焦点が合っていない。


「メンチカツサンド、いけますか」


「神……」


両手を合わせて、累さんが拝んだ。


挽肉をしっかり練ると、脂と肉が乳化して、肉汁を抱え込む。それを、二度に分けて、からりと揚げる。一度目で休ませ、余熱を入れてから、もう一度。衣が、しゅわしゅわと、油のなかで踊った。


こんがり焼いた食パンに、挟む。齧ると、じゅわっと、熱い肉汁が溢れ出す。片手で食べられるから、もう片方の手で、ペンを握ったまま齧れる。


「……これがないと、私、死ぬ」


メンチカツサンドを齧りながら、累さんが呟いた。


「夜中にこれ食べられるの、私の特権だと思ってる。締切の戦友。誰にも渡さない、私だけの──」


そこまで言いかけて。累さんは、ぴたりと、止まった。


***


台所の入口に、人影が三つ、立っていた。


怜さん。まひるさん。ゆめちゃん。


三人とも、それぞれの夜食をもう一度ねだりに、こっそり降りてきたのだ。そして、ばったり、鉢合わせた。


しん、と、台所が静まり返った。四人の目が、ゆっくりと、互いを見渡す。そして、最後に、全員の視線が、エプロン姿の俺に集まった。


「……管理人さん」


口火を切ったのは、怜さんだった。


「あなた、いま、その子に、メンチカツサンド作ってましたよね」


「は、はい」


「私には、おでん」


「……ええ」


「私には、オムライス」と、まひるさん。


「私には、トースト」と、ゆめちゃん。


四人が、すうっと、目を細めた。


「……つまり」


怜さんが、低い声で言った。


「私だけじゃ、なかった」


***


俺は、まずいことになった、と思った。


何がまずいのかは、正直、よく分からなかった。みんな腹が減っていて、俺はみんなに飯を出した。それだけのことだ。けれど、四人の女性が、四人とも、なんだか妙に静かなのである。


「私、てっきり」


まひるさんが、ぽつりと言った。


「自分だけの、特別なお夜食だと、思ってました」


「私も」と、ゆめちゃん。


「私も」と、怜さん。


「……私も」と、累さん。


四人が、顔を見合わせた。そして、なぜか、じとっとした目で、俺を見た。


「私以外の子にも」


怜さんが、ため息まじりに言った。


「あんな優しい顔、するんだ」


「……えっ?」


俺は、きょとんとした。優しい顔も何も、夜中に腹を空かせた人がいたら、飯を作る。当たり前のことではないか。


「具合でも、悪いんですか。みなさん、顔色が」


「悪くないです!」


四人の声が、見事に、揃った。足元で、小麦が「くぅん」と、首をかしげた。


再び火にかけたおでんの鍋が、ことこと、と小さく鳴りはじめる。出汁の匂いが、四人のあいだを、そっと縫って流れていった。


その湯気の向こうで、四人が、ちらり、と目を見交わしたのを──このときの俺は、まだ気づかないでいた。


「深夜の夜食は私だけの特権」と思っていた四人が、午前一時の台所でばったり鉢合わせ。「私以外にも、あんな優しい顔するんだ」とじとっとした目――この可愛い火花にニヤッときたら、【笑える】か【にこにこ】を! 続きが気になったらブックマークを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
キタキタキターw
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。