第33話:死の片道切符
ガタン、ゴトン……という地面を噛む音が、唐突に変わった。
ゴオオオオオオオッ!!
それは、空洞の上を走る音。
鉄の車輪が、宙に浮いた鉄骨を叩く、虚ろで巨大な轟音。
私たちはついに、大地を離れたのだ。
足元にはもう、固い土はない。あるのは、遥か百メートル下に口を開けた「竜の顎」の激流と、それを跨ぐ頼りない鉄の骨組みだけ。
「入ったぞ! 橋の上だ!」
クロードが叫ぶ。
スリット窓から見える景色が一変した。
左右に広がっていた土手や木々は消え去り、視界の全てが青白い空と、霧に煙る峡谷に支配される。
怖い。
本能が警鐘を鳴らす。
こんな巨大な鉄の塊が、こんな細い線路の上を走っていいはずがない。まるで針金の上を綱渡りする象のような、圧倒的な不安定感。
車体が左右に大きく揺れるたび、胃が浮き上がるような感覚に襲われる。
「……前だけを見ろ、エリザベート! 下を見るな!」
「わ、わかってるわよ!」
私は震える手でスコップを握りしめ、釜に向き直った。
恐怖を振り払うには、体を動かすしかない。
石炭をくべる。炎が爆ぜる。熱気が顔を焼く。
これが私の仕事。この鉄の心臓を止めないことだけが、私が生き残る唯一の道。
その時だった。
ヒュルルルルル……!
風切り音。
鳥の鳴き声ではない。もっと質量の大きな、死神の口笛。
ズドオオオオオン!!
機関車の右前方、わずか数メートルの空中で、何かが炸裂した。
衝撃波が車体を殴りつける。
耳がつんざかれるような爆音。
「砲撃だ!」
クロードがハンドルを握りしめながら叫んだ。
「左岸の帝国軍砲兵隊だ! 奴ら、本気で橋ごと吹き飛ばす気だぞ!」
続いて、左側からも爆音が響く。
バシャアアアン!
谷底の川面から、巨大な水柱が立ち上がるのが見えた。
今度は対岸のリベール軍だ。
挟み撃ち。
前からも後ろからも、殺意の塊が降り注ぐ。
ここは逃げ場のない一本道。私たちは、まな板の上の鯉ならぬ、橋の上の標的だ。
カン! キン! ガギィン!
装甲板を叩く音が激しくなる。
機関銃の掃射だ。
雨あられと降り注ぐ鉛の弾丸が、クロードが徹夜で溶接した鉄板に弾かれ、火花を散らす。
「くそっ、うるせえな!」
クロードが悪態をつく。
運転席の中は、鐘の中に閉じ込められてハンマーで叩かれているような騒音だ。
会話などできない。怒号で意思を通わせるしかない。
「ボス! 大丈夫ですか!」
背後の炭水車から、ハンズの声が聞こえた。
鉄板の隙間から後ろを覗くと、彼らは石炭の山にへばりつくようにして身を隠していた。
頭上を砲弾が飛び交う中、彼らはまだ生きていた。
「平気よ! 貴方たちこそ振り落とされないで!」
「へへっ、生きてる心地がしねえ……でも悪くねえ!」
強がりを言う声が震えている。
当たり前だ。生身で砲撃の中にいるのだから。
それでも、彼らは逃げ出さない。逃げ場がないからではない。私たちを信じているからだ。
ドォォン!!
至近弾。
橋脚の一部に砲弾が直撃した。
機関車が大きく跳ね上がり、脱線しそうになる。
「きゃあっ!」
私はバランスを崩し、熱いパイプに肩をぶつけた。
ジュッ、と皮が焼ける音がしたが、痛みを感じる余裕すらない。
「チッ、照準が合ってきやがった!」
クロードが舌打ちをする。
今はまだ威嚇射撃に近いが、敵も本気で修正してきている。直撃を受けるのは時間の問題だ。
そして、橋そのものが持たないかもしれない。
未完成の橋に、機関車の重量と砲撃の衝撃。限界は近い。
「……戻る?」
ふと、そんな弱気が頭をよぎる。
今なら、バックして格納庫へ戻れるかもしれない。
でも、戻ったところで何がある?
処刑台と、絶望だけだ。
ここには「進む」という選択肢しかない。
たとえその先が、断崖絶壁だとしても。
これは、死への片道切符なのだ。
「エリザベート! 圧力を確認しろ!」
「……140パーセント! 危険域に入ってるわ!」
「構わねえ! 安全弁を閉鎖しろ!」
クロードの目は血走っていた。
狂気ではない。極限まで研ぎ澄まされた、技術者の覚悟の目だ。
「これじゃ遅い! 的になるだけだ!
ボイラーが破裂する寸前まで圧力を上げろ!
音速で駆け抜けるくらいのつもりじゃなきゃ、あの『断絶』は越えられねえぞ!」
断絶。
橋の中央にある、3メートルの死の穴。
それを飛び越えるためには、今の速度では足りないのだ。
「……わかったわ! 壊れても知らないからね!」
私は工具箱からレンチを取り出し、プシューッと蒸気を吹いている安全弁を無理やり締め上げた。
逃げ場を失った蒸気が、ボイラーの中で暴れ回る。
車体の振動が変わった。
ブルブルという震えから、ジジジジ……という、何かが引き絞られるような高周波の振動へ。
「いい子だ、夜明け号。……まだ死ぬには早いぞ」
クロードが計器盤を愛おしそうに撫で、そして加速レバー(スロットル)を叩き込むように全開にした。
ズドォォォォン!!
背中を巨人に蹴飛ばされたような衝撃。
機関車が吠えた。
車輪が空転し、そして猛烈なグリップでレールを噛む。
景色が流れる。
鉄骨の影が、ストロボのように明滅し、後ろへ飛び去っていく。
速い。
風が装甲の隙間から吹き込み、私の髪を滅茶苦茶にかき乱す。
「速すぎるわ! カーブで曲がりきれない!」
「曲がる必要はねえ! まっすぐ突っ切るだけだ!」
クロードはハンドルにしがみつき、前方を睨み据えている。
その顔には、笑みが浮かんでいた。
恐怖を楽しんでいるような、不敵な笑み。
「見ろよ、エリザベート!
砲弾が追いつけねえ! 俺たちの勝ちだ!」
彼の言う通りだった。
速度が上がったことで、敵の砲撃が追いつかなくなっている。
着弾の水柱が、はるか後方で上がっているのが見えた。
爽快感。
死と隣り合わせの状況で、不謹慎にも私は笑い出しそうになった。
すごい。
私たちは今、鉄の雨の中を、風よりも速く駆け抜けている。
誰も止められない。将軍も、軍隊も、物理法則さえも。
「……最高ね」
私は煤だらけの手で汗を拭い、クロードの横顔を見た。
この男を選んでよかった。
こんな景色を見せてくれる男は、世界中探しても彼しかいない。
しかし。
その高揚感は、長くは続かなかった。
前方の霧が晴れていく。
橋の中央部が、はっきりと見え始めたのだ。
「……見えたぞ」
クロードの声が硬くなった。
私も目を凝らす。
レールの先に、不自然な空間があった。
線路が途切れている。
まるで巨人が爪で抉ったかのように、鉄骨がひしゃげ、レールが空を向いている。
あと数百メートル。
断絶が、大口を開けて私たちを待ち構えていた。




