繰り返される幻想譚 第一話
1870年頃、パリスの北部に実在していたと伝えられる、オロネーという山間の寒村で実際に起きた事件を紹介する。今となっては、この小さな村がどのような特徴を持っていたのか、その詳細を語れる人物は、ほとんどいない。あるいは、物語の中だけに存在する、想像上の集落であったのではないか、とさえ語られている。この事件が本当に現実で起きたのか、あるいは幻想であったのか、という問題については、この話の中でも特に重要な点である。その判断は読者に任せたい。
その晩、この村の辺りは季節外れの大雨に見舞われていた。十年に一度とさえ伝えられる激しい豪雨である。すでに太陽は沈んでおり、辺りは漆黒の闇。ろくに電灯もない時代。よって、一寸先も見通すことはできなかった。山道は相当にぬかるんでいて、坂の上側から坂下に向けて、まるで雨後の河川のように濁流が流れ落ちていた。噂によると、この付近にはいくつかの集落があるはずだが、人家の灯りはまったく見えなかった。黒と紺に支配された世界に生き物はただ放置されていた。すべてが朧であり、幻覚のようでもあった。
そのような嵐の中をひとりの旅人が懸命に山道を登っていた。このオロネー山地の中腹には、広大な墓地が存在するはずだった。彼が目指しているのは、おそらく、その高名な墓地であったろう。しかし、天空から無限に落ちてくる滝のような大雨に行く手を遮られる形になっていた。付近にある民家に助けを求めることは可能であろうが、自分の本来の目的のことを考えれば、なるべく、他の人間と接触することは避けたいと考えていた。しかし、山の奥地にまで踏み込んで、豪雨の中で道に迷えば、おそらくは命を落とすことになるだろう。自分に科せられた役目を終えるまでは、倒れるわけにはいかないとつよく思っていた。
山地に入り込んでから四時間ほどが経過した頃、この墓地の管理人の住処と思しき建物が前方に見えてきた。その家の窓からは灯りが漏れており、中では誰かが生活していることが分かった。彼は不本意ながらも、その建物に身を寄せ、しばしの休憩をとることにした。もし、この豪雨がなかったなら、この地で立ち止まることはなかっただろう。それから起こったことのすべては宿命的であった。
その家の中から現れたのは、この墓地の管理人でもあるところの牧師であった。優し気な風采をしたその人物は、このような状況の中での来客にひどく驚きつつも、旅人を建物の内部へと迎え入れてくれた。外の地獄のような荒天から救われてみると、その暖かい部屋の内部は天国のようにさえ思えた。旅人は深くお辞儀をして丁寧に礼を述べ、その上で、今夜この地を訪れたことは人に話せるような要件ではないから、どうか、自分と出会ったことは他言無用でお願いしたいと告げた。その牧師はおそらく人格者であったから、その身勝手な要望を快諾してくれた。
部屋の内部を見渡すと、大きな古風の暖炉とマホガニー材の大きなテーブル、それに複雑な紋様の彫ってある六脚の椅子、そして天井まで届くほどの黒檀の本棚が置かれていた。右方の壁には血液のような朱色で、ラテン語によって、一行の文章が記されていた。その一文はどのような意味かと彼は牧師に尋ねてみた。すると、『人間は死ぬ間際になって、神に裏切られる』という意味の文言だと教えられた。
「それは正当です。人の人生は、神などという曖昧なる存在にではなく、運命によって管理されている、という意味でしょうかね」
旅人は感心したように深くため息をつくと、そのように感想を述べた。
「その壁の文章は偉大なる運命神のお言葉です。人はすべての財産を投げ打ってまで自国の神に、来世での復活を願ってすがりますが、その死後にはやはり何も残らないのです」
牧師は自信ありげにそのような解説をした。
「ところで、この地の著名人であったソフラスという人物をご存知ですか?」
旅人は部屋の中央付近にある椅子に腰をかけると、唐突にそのような問いをかけた。
「もちろん、存じておりますよ。彼は非常に立派な体格をしていて、大変な資産家であり、絶対的な権力者でもありました……。そう、パリスの市議会議員を長く務めたこともありました」
「ええ、そして、多くの人から慕われていました……」
旅人はその話に相手を深く引き込もうと、そのような説明を付け加えたが、牧師はそれを聞いたとき、少し複雑な表情をした。
「仰るとおり、知名度の高い方でしたが、善人であるとまでは申し上げません。人身売買や麻薬の取り扱いなど、常に怪しげな噂が付きまとっていましたので……」
牧師はせっかくの来客に対して、少し言いにくそうにそう答えた。
「なに、著名人に悪評はつきものです。それに、悪い噂のすべてが真実とは限らないでしょう? 偉人とは常に大衆から妬まれるものです。その証左として、他人の陰口の標的にもならない程度の男には、ろくな人物がおりません」
旅人は自信ありげにそう述べると、目の前に出された紅茶を一気に飲み干した。彼は一度窓の外へと視線を向けた。外の豪雨によって半ば奪われていた体力が次第に戻りつつあった。
「あなたはソフラス氏の信奉者なのですか?」
牧師は声を震わせながらそのように尋ねた。
「その通りです。私はかつて彼の秘書として、その仕事の手伝いをしていたこともあります。彼の豪奢な邸宅に滞在していたこともあります。ソフラス様と一緒に生活をしていることで様々な恩恵を受けまして……、まあ、彼の狂信者といっても過言ではありません」
「なるほど、そうでしたか……。しかし、ご存知の通り、彼は数日前に不幸な死に方をなさいました。それはまったく突発的な出来事でした。目を背けたくなるような残忍な事件でした……」
「すると……、彼はやはり殺されたのですか?」
若者はテーブルの上に身を乗り出して、そう尋ねた。
「ええ、パリス市内での演説中に狙撃されたのです……。犯人はその場から逃亡しまして……、今も捕まっておりません」
「その事件は、どうやら、私の留守中に起こったようなのです。しかし、新聞には『急病により死去』と書かれていましたが……?」
旅人は真っ青な顔をしてそう返した。納得のいかない様子だった。
「余りにも不幸な出来事であったために、彼の遺族が死因を伏せたのでしょう……。あるいは、彼の名声を傷つけたくなかったのかもしれません。警察は密かに捜査中のようです……」
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。三話で完結します。よろしくお願いします。




