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file1 東部戦線の英雄

 雨が、止まない。

 東部戦線は数日に渡り豪雨に晒されていた。赤土の大地は泥濘化が進み、滝の如く降る雨に視界は閉ざされ、敵影すらまともに捉えられない。前線は膠着し、互いに睨み合ったまま動けずにいる。

 宿営地は静けさに包まれていた。しかし、この静けさは安堵をもたらさない。むしろ、停滞がもたらす焦燥と、敵が見えないことによる張り詰めた緊張だけが長く続いている。

 ……この空気は好きじゃない。

 ランプによる灯りだけで照らされた将校用天幕の中で、俺は気を紛らわせるように書類仕事を片付けていた。

 机上には地図と報告書が広げられている。補給の再配分、負傷兵の振り分け、各部隊の再配置、新たな作戦の立案等、戦闘が行われない間にもやるべきことはいくらでもある。


「ケイン大尉殿、少しはお休みください」


 前方から、遠慮がちな声がかかる。俺についてくれている若い従卒が、淹れたてのコーヒーを持ってきてくれていた。

 礼を言ってコーヒーを受け取る。雨は防げるとはいえ、従卒と俺の二人しかいない天幕内はやや冷える。柔らかな白い湯気が立つコーヒーの温かさは何よりのご馳走と言えた。

 そうして、ほっと一息つき、再びペンを取る。


「大尉殿、もう8時間は休まれておりません。お仕事があるのは承知しておりますが、このままではいざ戦闘となった時に……」

「今は備える時だ」


 俺は顔あげ、従卒の顔を見る。俺を労る、不安そうな顔がそこにあった。


「部下の兵卒達にとっての休息が備えであるように、俺にとってはこれが備えだ」


 従卒は一瞬言葉を失い、やがて小さく息をついた。


「……ですが」


 言いかけて、諦めたように肩を落とす。


「こう雨ばかりだと。嫌になりますね」


 我慢強い彼のぽつりと零された本音に、俺も思わず笑ってしまった。


「ははっ、確かに気は滅入るな」


 少し手を止め、椅子にもたれかかる。視線はそのまま、天幕の外へ。

 叩きつけるような雨、視界はほとんど利かない。


「だが……」


 視線をゆっくりと、机上の地図へと落とす。


「この雨も、そう悪いことばかりじゃないかもしれん」


 従卒が首を傾げた。


「……何か、お考えで?」

「いや、まだ思いつきだ」


 そう言って、再び報告書と地図に向き直る。

 その時だった。


「失礼する。ケイン少尉の天幕はこちらか」


 天幕の外から、硬い声が響く。聞き覚えのない声だった。

 加えて、一つ間違いもある。少なくとも、同部隊の兵士ではないだろう。

 従卒もそれを察してか、俺の方をチラリと見て頷くと、腰の剣の柄に手をかけた。


「――そうだ。貴殿はどこの者だ?」

「中央所属第1師団連絡将校ゲオルグ少尉である。危急の要件につき、ケイン少尉にお会いしたい」


 中央の将校が何故こんな最前線に?

 色々と疑問は残るが、門前払いするほどの怪しさではない。

 要件を推察してみるが、中央から一介の将校への連絡である。只事ではないことは確かだろう。


「入れ」


 短く告げる。

 天幕内に入ってきたのは、確かに王国の将校用制服に少尉の階級章をつけた一人の中年だった。泥にまみれた外套に疲労の濃い顔、それでも背筋だけは不自然なほどに伸びている。

 前線には似つかわしくない、中央の匂いを纏った男だった。

 少尉は俺の首元あたりに視線を落とすと、やや目を見開いて深々と頭を下げた。


「これは失礼いたしました。どうやら情報に誤りがあったようです。ケイン大尉殿、先程のご無礼をお許しください」

「階級のことなら気にしないでくれ。一時の運と、連隊長殿のご厚意で戦時昇進しただけの若輩者だ」

「いえ、東部戦線の英雄の活躍は、中央でも聞き及んでおります。お会いできて光栄です」


 ゲオルグと名乗った少尉は改めてその場で敬礼する。

 そして、顔つきが変わった。


「東部戦線所属、ケイン大尉殿に通達があります」

「聞こう」


 少尉の緊張が伝わってくる。

 俺は椅子に座ったまま、おそらく飛び出してくる衝撃の情報に備えた。

 少尉の喉がわずかに動く。


「……国王陛下が、崩御なさいました」


 天幕の中の空気が、一瞬だけ止まる。従卒が息を呑む音がやけに大きく聞こえた。

 少尉は俺の反応を待っている。


「続けてくれ」

「はっ、これに伴い、貴官には直ちに東部戦線を離れ、王都へ帰還するように命令が出ております。なお、貴官の任は私が引き継ぐことになっております」

「なっ⁉︎」


 声をあげたのは従卒だった。俺は彼を手で制す。小隊とはいえ、指揮官たるもの部下の前で動揺を露わにしてはいけない。

 こんな状況下で脳裏に浮かんだのは、士官学校でお世話になった教官の言葉だった。

 だからこそ、俺はあくまで冷静に少尉の双眸を見据えた。


「……部下を置いて行けというのか」


 いかんな。顔の前で組んだ両手に自然と力が入る。


「い、いえ……その……」


 少尉が言葉に詰まる。

 いや、俺とてわかっている。この怒りを少尉に向けるのは間違っていることくらい。

 しかし、だからと言ってはいそうですかと、簡単に受け入れるわけにもいかないのだ。


「指揮官としてのご判断は当然と存じます。しかし、これは……上からの命令です」


 流石だ。少尉は言葉に詰まりながらも、自分の職務を全うした。

 少尉とて、この命令には納得しかねているのであろう。しかし残念ながら、我々軍人にとって、命令は絶対だ。

 従卒が不安げに俺の方を見てくる。俺の小隊員で、特に俺を慕ってくれている彼にとっては、俺の人事は気になるところだろう。言葉にせずとも「自分達を置いていきませんよね?」と顔に書いてある。

 さて、どうするか。

 そもそも、この通達には違和感がある。連隊長殿を通さず、一介の小隊長如きに直々に中央からの連絡が来るなど、本来はありえないことだ。

 俺宛に来るということは、あるいは……などと考えを巡らせていると、少尉がちらりと従卒へと視線を向けた。

 それだけで十分だった。


「すまないが、席を外してくれ」

「……はっ、承知しました」


 一拍の間は、思うところがあったのだろう。しかし、従卒の彼はすぐに頭を下げ、天幕を出て行った。

 外の雨音が、わずかに強く聞こえる。

 しばらくして、誰の足音も、気配も感じられなくなった。

 少尉は一歩近づき、声を潜めて告げる。


「……王家より、直々のご命令です」


 そう言って、懐から封筒が取り出される。

 重厚な紙、そこに押された封蝋に記される、王家の印。

 ……流石に俺も驚いた。少尉もまた、無意識に姿勢を正している。

 確かに、これは別格だ。

 俺は封筒を受けとり、静かに封蝋を割った。

 中に入っていたのは、2通の書簡。

 1つは正式な通達、少尉が先刻言っていた俺の人事に関わること。

 そして、もう1つは簡素な手紙だった。

 視線を走らせる。文は短い。だが、俺が決断するには十分だった。


 −−余に力を貸して欲しい。

 皇太子 ルシアン=アウレリア。


 書簡を畳む。迷いは、既に無かった。


「ゲオルグ少尉」

「は、はっ!」

「帰還の件、了承する」


 あまりにもあっさりとした俺の言葉に、少尉が目を見開く。

 だがすぐに、我に返った。


「しかし! 私とて、上からの命令でこの場におりますが、今この状況で貴官が抜ければ、戦線が揺らぎます。敵に隙を見せることにも−−」

「なら、安心させればいい」


 俺は少尉の言葉を遮り、立ち上がる。

 少尉の横を通り過ぎ、天幕の出入り口へと歩く。外は、相変わらずの豪雨だった。


「視界が悪いのは、向こうも同じだ」


 これは、一介の小隊長としては出過ぎた考えだ。傲慢で、改めなければいけない。

 しかし、俺に求められているのは、そんなものではない。

 成り行きとはいえ、身に余る偶像となってしまった以上、最後まで演じ切るのが務めだろう。


「雨は止まん。だが、敵は止める」


 東部戦線の英雄として。


「今夜、潰す」


 少尉は言葉を失っていた。

 しかし、理解を待つこの寸刻すら惜しい。俺は連隊長を説得する論理を考えていた。

 幸い、計画はここ数日で固まっている。

 軍指定の灰色の外套を掴み、羽織る。俺達を体現する色は、今日ばかりはそぐわない。

 躊躇う間もなく、濡れた空気の中へ、一歩踏み出した。

 雨が容赦なく叩きつける。それでも、足は止まらない。

 −−呼ばれたのなら、応えます。でも、その前に、背中を預けた仲間達が、安心して戦える形を残す。

 俺は、連隊長殿の天幕へと走った。


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