暫しの別れ
「あの使用人、ルシア侯爵家の人間だったの」
翌日、母からそう告げられた。解雇した、という言葉と共に。
私が成人の式典に出席する約一年程前から、ギレット様が兄に接触を密に取り始め、何か役に立つかもしれないと、例の新人の使用人を寄越したらしい。当初、不要だと断っていたらしいのだけれど、本人も是非役に立って見せると言うので試しに、との経緯があったと言う。元々、権力や地位といったモノに左右されない様、我が家には使用人、用心棒を含め九割が平民で構成されている。浮浪人や孤児、他国で奴隷だった人間も居る。其々全員の生い立ちを、私は把握していないが、私以外の家族は全員知っている筈だ。そんな中で、権力の有る、地位の有る存在から、人を迎え入れるという事は、我が家では例外中の例外だったに違いない。それなのに、それを行ったという事は、それ相応の対価を期待された筈で、その結果が解雇である以上、役に立たず、不要と判断されたという事。若しくは、害があると判断されたか。どちらにしても、良い理由ではない。
「グノエに直接言ってくるくらいだからと期待をしたのだけれど…例外を作るものでは無いわね」
そう言った母の顔は、非常に厳しい物だった。使用人を纏めるのは、女主人の務め。つまりは母の役目となる。理由が有って例外を作り、それに見返りを求めるのは当然の事。それが得られないのならば、不要と判断するのは早いに越したことは無い。
「…母さん、私、当分この国から出ようと思うのだけれど」
使用人の件とは全く関係の無い、脈絡も無く言っている自覚は有る。だからこそ、目の前の母は目を見開き、先ほどの厳しい表情から一転、驚きに固まってしまった。
「……どうしたの、急に…」
「話題を急に変えてしまってごめんなさい。でもその事も少し関係が有るかもしれないと思って」
「どういう事?」
「最近、私の取り巻く環境が一気に変わったじゃない?今まで関わって来なかった人達と関わって、色んな人に迷惑を掛けたわ」
「それは、迷惑とは言わないわ」
「私も追いつかないの。整理が出来ないの。だから、屋敷から出ない様にしようかとも考えたわ。でも成人した人間がいつまでも家に籠っているなんておかしいし、商家の娘として何の益にもならない、無駄に時間を費やす事をする訳にはいかない。だったら、逆にルド兄さんの様にもっと外に出てみたら良いのではないかと思ったの」
下手に私を知る人が居る中で、私が動くから面倒事が起きるのではないのだろうか。だったら、私を知らぬ人間の中で、自分で、二の兄の様に自ら働き、体験し、我が家に貢献出来る人になれば良いのではないか。その方が色んな面倒事が少ないのではないだろうか。勿論、全てが上手くいくとは思っていない。文字通り何も出来ない小娘、まして人とも言えぬ存在を快く受け入れてくれるとも限らない。想像している中で、自分が甘い考えなのだという事は分かっている。お金だって何をするにも最初は援助が必要になる。自分で稼ぐ事もした事が無いのだ、二の兄と違って特技も無い。何処に行っても誰かに迷惑を掛けるだけだろう。正直、その場で野垂れ死ぬ事も、悪くはないと思っている。結果、家族を悲しませる事になるだろうが。でも、今の環境を変えるには、それしかないと思うのだ。
二の兄の手紙には、採掘現場で化石を掘っていると書かれてあった。若い研究員達に交じって、毎日楽しいと、充実していると、そう書かれてあった。新しい食材や料理を探しに行っているかと思ったのに、全く違う方で楽しんでいるのを読んで、こんな風になっても良いのだと思ったのだ。
「何がしたい、と言うのは具体的には無いのだけれど…」
「……マル」
「?」
「貴女がそうしたい、と言うなら、母さんは止めないわ。そうね、ルドの様に料理を極めても面白いかもしれないし、アティの様にデザイナーや職人になるのも面白いかもしれないわ。画家でも良い、研究者でもいい、パン屋や花屋でもいい。今からでも遅い事なんて何も無いのだもの、何にだって挑戦してみたらいいわ。例え成人したとしても、貴女は我が家の娘だもの、出来る限り応援するわ」
何の心配も要らない。そう私を見る目は言っている様に見えた。
「…ありがとう、母さん」
だから、私はその日から、具体的に何をしようか考える事にした。期待してくれる、我儘を許してくれる家族の為に。
◇
「大きな船…」
目の前に広がる大海原に、大きな船が停まっている。私はそれに乗り、此処から離れた国へ行く。見送りには、家族や商会の人達、ジニーとリオンがご両親を連れて来てくれた。何となく大事になってしまった気がするが、初めての別れをする人間には、これくらいするのが普通だと言われたので、その通りなのだと思う。
あの後、父や兄からも反対されることも無く、今日を迎える事が出来た。準備期間というか、遣りたい事や何処へ行こうか等、色んな人からアドバイスを貰ったわけだが、結局、花屋で見た、珍しい花木を育てている国に行く事にした。もし上手くいけば、我が家足しになるかもしれないからだ。その花以外にも、花木は未だ市場に出回る機会が少ない。それに、聞けば国によって花や葉を食材や薬剤の様なものにする事も有るという。花そのもの、葉そのものを食材として扱うのは、この国にはない。薬剤も多い訳ではない。まだまだこれから発展がみられる分野でもある、と祖父母も含め、我が家全員から太鼓判を貰った。基、そんな事を気にせず、好きな様にやっておいでと言われてもいるが。
「達者でやりなさい」
「落ち着いたら必ず手紙を頂戴ね?絶対よ」
父が優しく私を抱き締める。母も次に声を震わせつつ、抱き締めてくれた。
「こっちの事は何も気にしなくていい。でも、いつでも戻って来て良いからね」
兄も、そう言って私の額にキスを落とす。
「姉さんの結婚式に戻って来るもの、直ぐまた会えるわ」
三人には其々、頬にキスを返す。行ってきます、我儘を許してくれてありがとうを込めて。
「ジニー、リオンも来てくれてありがとう」
「手紙、待ってるわ。押し花付きで頂戴ね」
「俺も欲しいな、どんな色でも、どなに小さくても良いからさ」
「分かったわ、必ず入れるようにする」
二人には、元気でね、友達として沢山のありがとうを込めて抱擁をする。
他にも、家族をお願いしますや、身体に気を付けてという思いを込めて、握手やキス、抱擁をした。こんなに沢山の人とこんな風にした事なんて、今迄に一度だって無い。でも、今なら感じることが出来る。此処に居る人達は、私の未来を応援してくれているのだと。勿論此処に居ない祖父母や姉、二の兄達だって同じように私の事を想ってくれているのだと。だからその想いに応えなければ。折角あの式典の日から今日までの間、それ以前の過去と比べて、一番人に近付いた時期に違いないのだから。そしてこれからの未来、それが更に増せば良い。
「じゃあ、行ってきます」
そう言って一歩を踏み出す。今日嗅いだこの潮の香を、私はきっと忘れはしないだろう。
ティーニ家長女、リコット・ティーニと隣国の貿易商頭であるハータ・アレサーダの結婚式は、それはそれは盛大に行われた。王家のとまでは行かないにしても、多くの貴族や様々な国の重鎮達も訪れたと言う。花嫁が身に付けるジュエリーは全て、アティ・バーラが手掛け、手にしていたブーケや花冠には、彼女の妹であるマルガ・ティーニが手塩に掛けて育てていると言われる花々が使われた。その花々の一部が彼女の血縁者の家に植わっており、見事に見ごろを迎え、美しく咲いているそうだ。
長男で嗣子であるグノエ・ティーニは、マルガ・ティーニが現在居るとされる国で研究を行っていた者を婚約者として迎え、より一層父のウォアップ・ティーニと共にザザ商会を盛り上げている。婚約者はティーニ家の嫁と成るべく、様々な事を彼の母であるドマ・ティーニに熱心に学んでいるそうだ。元々薬よりも手頃に手に出来る様な、身体そのものの改善を図れる様な物を作ろうとしていた彼女は、その成果を義妹となるマルガ・ティーニに教えていたと言う。その縁が有って、今回の運びとなったのである。
次男のルド・ティーニは、マルガ・ティーニより齎される、そのまま食べられる花を使い、新しい菓子や料理を作り、第一弾として姉の結婚式にお披露目を行った。多くの人の目を楽しませる物として、今では様々な国で流行りつつある。そして高い身分の人間から是非にと声が掛かったそうだが、縛られるのを嫌う彼はその全てを断り、あちこちを飛び回りながら、気が向いた土地に小さな店を出している。其処には必ず、マルガ・ティーニから祝いの花が届けられると言う。
ジニック・カゼミとリオン・ラコニカは、其々婚約者となる相手を見付け、互いに充実した日々を送っている。友人関係は続いており、互いが結婚してもそれは無くなることは無いと、二人は言う。そんな二人の元に届けられる、彼女達のもう一人の友人であるマルガ・ティーニの手紙には、必ず一種類の花が栞にされ同封されている。それを見た二人の姿は、貴族とは思えない、とても優しい、穏やかな顔になると言う。
マルガ・ティーニは、生涯を20歳で閉じた。彼女の家族の誰よりも短かったその人生の最後は、友人の結婚式に参加した帰りの海難事故であった。友人は自分のせいだと落ち込み、家族も深い悲しみに暮れた。しかしその翌日、その全ての人達に、生前の彼女から荷物が届く。
【私の幸せは、皆が幸せになる事よ】
たった一言そう書かれたカードと、彼女が主に育てていた紫色の花が咲く花木の株だった。まるで今の状況を見ているかのような言葉とタイミングに、思わず泣き崩れた人も居た。しかし、その日から彼女を愛していた彼等は、悲しむのを止めた。その場に留まるのは、彼女が望まぬ事だと。前を向き、幸せになる事が彼女の望みであり、幸せなのだと。そう、心を切り替えたのだ。未だ思い出して悲しみ、涙が出る事も有るが、引きずる事は止めようと。彼女は遠い国で、この紫色の花を育てているのだ。自分達の幸せを願いながら。自分達もこの花木を育てよう。そして、彼女を忘れないでいよう。幸せな姿を見ていてもらおう。そう心に決め、彼等は自分の屋敷の庭にその株を植え、彼女の命日にはその紫色の花木を飾る事にした。
ザザ商会は、商会のシンボルとしてこの花を用いる事にした。何年も待つ程のデザイナーも、好んでデザインに用いる様になった。その理由を誰が訪ねても、商会の人間も、勿論デザイナーも、誰も教えはしなかったと言う。知るのは彼女を愛し、彼女に愛された人だけであった。
◇
「上手く、行った…?」
「ええ!!やったじゃない!!」
初めてたっだ。上手く出来た。その実感が、身体を巡る。隣りでは、今お世話になっている家の娘である彼女が、私以上に喜んでくれている。彼女はこの家の一人娘で、年下の私を妹が出来たと可愛がってくれる、とても良い人だ。彼女の両親も、彼女の様に明るく、朗らかで、出会った時もう一人娘が出来たと喜んでいた。そんな人達の元、私は花木や他にも様々な花を育て始めた。この国は植物を主産業にしており、農家は各々とても優れた技術や知識を持っている。この家は研究者も出入りする花農家だった。そして厄介になりながら、様々な技術や知識を学んでいたが、今は株分けの遣り方を学んでいた。そして、初めて上手く遣れた。これで、あの花木を増やすことが出来る。
「結婚式に間に合って良かったわね!」
「ええ。出来るなら持って行きたいけれど、ちょっと難しいわよね」
「そうね、あとアレだけやるのでしょう?大荷物だわ。丁度一週間後に出る貨物便があるもの、到着は少し遅れるけど、それに合わせれば良いわ」
「ええ、そうする。ありがとう」
「貴女は明日発つのでしょう?準備は出来ているの?」
「その準備は大丈夫。こっちをカード付きで包めれば…」
「包むのは手伝うわ。カードは?」
「もう書いてあるわ、ありがとう」
「どういたしまして!喜んでもらえると良いわね!」
その彼女の言葉に、私は口の両端を上げて頷いた。
「さあ、残りもやってしまいましょ!」
「ええ」
喜んでもらえると良い。その彼女の言葉は、私の想いそのものだった。