33.もっと深く
山に足を踏み入れた途端、俺たちは目を疑うほどの異変を目の当たりにした。
緑豊かだった木々は枯れ果て、清らかだった川は濁り、あちこちの大地が割れて地形が変化し、とどめとばかりに赤々とした溶岩の川が流れている。
正常な現世から、異様なあの世へと移り変わっていくかのような光景。
「これが死者の王の力ってことなのかよ」
ニックの推測は正解だった。仲間たちは生まれた時から馴染み深い地元の山が変貌したことで相当なショックを受けているようだ。
一方で、俺にはそこまでの驚きはない。
これはゲーム終盤で六王復活時に発生する変化と同じものだ。
序盤に訪れたダンジョンが、再度訪れた際に様相が一変するのはRPGあるあるらしい。敵の強化や構造の変化などの変化によって難易度が上昇するわけだが、俺はゲームをやっているので気を付けるべき点が既にわかっている。
「みんな、溶岩にだけは落っこちないようにな。めちゃめちゃダメージ受けるから。あとハウンド級魔獣だけじゃなくてベアー級も普通にそのへんうろついてるけど、これはボスじゃないからノックバックで溶岩に落とせば楽に勝てる。中腹の休憩ポイントにレベル神像が増えてるから、そこまで可能な限り経験値を稼いでおこう」
必要な情報共有だったので考え無しに喋ってしまったが、そのせいで周囲から不思議そうな目で見られてしまう。慌てて考えた言い訳はやや苦しいものだった。
「あ~、その、俺って前世が盗賊だろ? 古文書とか手に入れる機会があって、その~六王が復活するとこういうことが起きる、みたいなのを知ってたんだよ」
異世界とかの話をするとややこしくなるので説明は最小限にしておいた。
戻って来れたらニックたちにも詳しい話を打ち明けてみよう。今さらそのくらいで変化する関係性ではない。俺はごく自然に仲間たちを信じていた。
「なるほどねえ。ま、詳しい話は後できっちり聞かせてもらうからいいさ。ちなみに、お前とレナお嬢様が前世でも幼馴染だったってのはアネットからちょっとだけ教えてもらった。そん時は上手く行かなかったって話もな」
「え、いつの間に」
アネットを見るといつもの無表情だったが、心なしか得意げだ。
なんか異世界転生者の拙い言動を上手にフォローしてもらってる気分。
彼女のおかげもあるのだろう、仲間たちは総じて俺に対して好意的だった。
「それだけ知ってれば俺たちにとっては十分だ。今度こそ幸せになれよ、レイ」
仲間たちが俺を見るまなざしはどこか子供を見守る大人のように温かい。
誰もが転生するこの世界では、その記憶に関連した動機は尊重される傾向があるのかもしれなかった。あるいは、彼らにもあるのだろうか。果たせなかった未練が。
「みんな、ありがとう」
尽きせぬ感謝と共に、俺は先陣を切って死に覆われた世界へ挑む。
もう後戻りはできない。
彼らを守るためにも、この世界を必ず元に戻そう。
目指すは遺跡、その奥にある異変の元凶、『冥府の門』だ。
「それはそれとして、ちょっと寄り道。そんな時間ロスにはならないはず」
俺は仲間たちを引き連れて変化した山道を移動し、時には流れる溶岩を飛び越えたり、徘徊する熊をやり過ごしたり、または背中から溶岩溜まりに突き飛ばして経験値を稼いだりといったダンジョン攻略を進めていく。
俺は遺跡までの正しい道のりを知っていたが、途中であえて脇道に逸れた。
「お、ここってあれじゃねえか。俺らが特訓してた場所」
ニックが言う通り、俺たちがやってきたのは周囲とはやや雰囲気が異なる場所だった。大きな岩塊が多く、剥げた岩壁が意味ありげにそり立っている。
かつては緑と茶色だらけの森林山地エリアにぽつんと浮かび上がった奇妙な場所だったが、木々や草花が枯れて岩だらけの足元を溶岩が流れている現在ではむしろ情景とマッチしているようでもある。
だが、それでもやはり何かが違う。
一見して何もないのに、不気味なほどの静けさがそこに滞留しているようだった。
更にかつてとは明らかに違う点として、壁の前に天を力強く蹴り上げる少女の石像が増えている。ステータスをいじってキャラを強化できる施設、レベル神像だった。
「ここだ。この剥げた岩壁は隠し扉になってる。本来は裏から回って仕掛けを操作するとここが近道になる仕組みなんだけど、実はこっちからも」
レベル神像の裏あたりに回って、壁面に手を当てる。
すると窪みがスイッチになっており、重々しい音と共に岩壁が左右にスライドしていった。中から一気に鳥肌が立つほどの冷気が溢れ出した。
冥府に満ちる大気はひどく冷たい。死の気配が生々しい恐怖を呼び起こす。
初回はダンジョンの奥深くから拠点に戻るための近道として使う通路なのだが、最初から知っていれば裏手から回り込むこともできる。
周回プレイを重ねたプレイヤーならいきなりこの近道から突入して、ボス戦を奇襲で開始することが可能なのだ。
『ドリボ』はこういう要素がわりと多く、『そういう遊び方をしてもいいですよ』と言わんばかりの仕掛けを配置する傾向があった。
「この近道はレナやカイも知ってるはずだ。このまま突っ込んでも奇襲にはならない。だから、もう一工夫が必要だ」
「俺たちはここで待機、でいいんだよな」
ニックの言葉に首肯して、俺は皆にもう一度だけ作戦内容を確認する。
「ああ。中からの合図は、そのへんにいる『岩肌狼・変異種』を観察していればわかるはずだ。すぐに様子がわかるように、一匹だけ仕留めずに生かしておいて欲しい」
敵は強力になっているが、このあたりの魔獣はとにかく遅いし、序盤のレベル上げでさんざん倒してきた敵の色違いモブでしかない。ニックたちなら余裕で対処できるだろう。俺の信頼に、仲間たちはしっかりと応えてくれる。
「わかった。任せとけ」
「気を付けて下さい、無事を祈ります」
「信じてるぜ、レイ、アネット!」
ニック、カマス、ムーダが力強く俺を送り出してくれる。
アネットも、弟分だと言っていたヨハンとハンスの頭に手を伸ばしてぽんぽんと叩いていた。確かに背の低い姉っぽい動きだ。ほほえましい。
作戦の要は俺とアネットが担うことになる。
目的地はこの先の山道を進んだ先にある遺跡だ。
少し様子を見たところ、徘徊しているのは狼や熊だけではない。
魔法を使う骸骨や首無しの騎士、それにカイが引き連れてきた精鋭たちまでそのあたりをうろついており、三つの勢力がそれぞれに激突を繰り返す修羅場だった。
危険だが、可能な限り戦闘を避けてこっそり駆け抜けるしかない。
アネットと手を繋いで『忍び足』を発動しようとしたその時だった。
「レイ。行く前にひとつだけ、いいか」
「どうした、ニック」
振り向く。山賊のような強面が、さらに強張っている。
何らかの覚悟を決めた直後のような緊張感が漂っていた。
「実はよ、村で戦った時に、これを拾ってたんだ」
「お前、それは」
ニックの手の中にあるものを見て、俺とアネットが息を呑む。
大男は少しだけ引き攣った笑みを作ってから、ふうと息を吐いた。
「なんか、手に入りやすくなるってジンクスがあるらしいな。運が良かったぜ。それでだな。他にも素材とかあってよ。俺も」
言いかけて、声が震えた。
ニックが、愛のために果敢に熊の前に立ちはだかった男が、恐れている。
それでも彼は言葉を続けた。
「最善を尽くさなかったせいで、レイとアネットが死んだりさ。レナお嬢様が世界を滅ぼしちまったら、俺はきっと死んでも悔やみ続けるんだろうな。来世でも後悔して、いや、もう来世なんて無いから死霊になって彷徨うのか。嫌だなあそれは」
深呼吸して己の心を落ち着かせようとするニックの巨体が、いつもより小さく見えた。頼もしく、善良で、信頼できる仲間。それでも、彼は俺と同年代の普通の男だ。
恐れも後悔も知っている、普通の人間だった。
「俺も、やる。アネット、頼む」
何を、とは言わなかった。
彼の目に浮かぶ不退転の覚悟を、俺は見たことがある。
死を厭わずに戦うことを決意した戦士の目。
いまのニックは、死闘の中で散っていった誇り高き老兵と同じ顔をしている。
「ニック、わかってるのか? きっと戻れなくなる。村での居場所がなくなるかもしれないんだぞ。特にあんなことがあった後だ。お前には大事な人が」
「いいさ。俺は彼女が幸せならそれでいい。自己犠牲ってわけじゃない。ただ、レイとアネットにだけ危ない橋は渡らせたくないだけだ」
「お前」
カイのことを思い出す。前世で親友だった男。あいつになら信じて任せてもいいと思えた相手。そう思わなければ耐えられないほど、俺よりも優れた男だった。
なのにあいつはレナを最後には裏切ったのだという。
親友、なんてのはただの言葉だ。一番長く過ごしたというだけ。
その重みを俺はちゃんと理解しているわけではない。
だがこの瞬間、俺はニックとの間に揺るぎない絆を確かに感じていた。
この男の善意と覚悟に恥じぬように戦わなくてはならない。
強く、そう思った。
「わかった。こっちは任せたぞ、ニック」
「おう。行ってこい! 絶対に勝てよ!」
拳を突き合わせて、俺たちはそれぞれの道に踏み出した。
暗い空に、胎児のような月が浮かんでいる。
肌を刺すような寒気と、今すぐ走り出したくなるような背後からの圧迫感。
薄暗い闇はどこまでも広がっているようにも思えたが、よく目を凝らして見ればごつごつした暗色の岩が地面に広がっており、横に移動し続けると透明な仕切りのようなもので行く手を阻まれることに気付く。
地下なのに空と月があるのは、ここが異質な別世界である証拠だろう。
『どう?』
『まだ遭遇してない』
心の声に答えながら、下り坂のだだっ広い洞窟をたったひとりで進む。
復活しつつある六王の力によって、死の世界に浸食された遺跡は完全に異界の一部と化していた。強力な死者が徘徊し、隠し通路が増え、開かなかった扉の先に進めるようになっており、レアな武器が落ちていたりする終盤のダンジョンだ。
『アネット、拾ったやつ装備した?』
『だいじょうぶ。レイにいこそ、サブ装備忘れないでね』
六王が自力で復活している以上、封印装置はほとんど無用の長物と成り果てていた。俺はひたすら脅威を回避してこそこそと内部を進み、役立たずになった巨大な封印装置の背後に開いた巨大な穴を発見。
迷わずに奈落の底へと足を踏み入れ、いまは単独で移動中だった。
アネットは別行動だ。まだ遺跡に留まって、封印装置の近くで準備を進めているはず。『チャット機能』で繋がっているので、お互いの様子はいつでも確認できた。
『ん、レイにい。ぴりぴりする』
『わかってる。近くだ。いる』
盾を構えて警戒。ゆっくりと前へと進んでいく。
冥府を延々と下っていく最中は全く敵と遭遇しなかった。
レナがそうしているのか、それとも六王の力が完全に復活していないだけなのか。判断はつかなかったが、いずれにせよこちらにとっては都合がいい。
おかげでスムーズにこの場所までたどり着けた。
最深部手前。本来ならここで前座の中ボスと戦いになるはずだが、ここにはまだいないようだ。そのかわり、俺のよく知る気配が二つあった。
「来たな。待ってたぜ、レイ」
円形に開けた空間の中央に、カイはいた。
その背後に、それより大きな影が見える。
ずず、とシルエットが蠢くと、その足を這いまわる長い輪郭がざわざわとした音を立て、巨体の周囲から無数の羽音が響いた。
くぐもってはいるが、良く知る声が聞こえる。
「何で来るのぉ。見ないで。お願いだから、帰ってよぉ」
遠い闇の奥から声だけが聞こえて、微かに動く大きなシルエットが遠ざかろうとしているのが見えた。間違いなく、あれがレナだ。
ゲームの内容そのままの展開なら、いまのレナは六王として復活したことによってその姿が変わっているはず。
仲間キャラのサイズではなく、敵対するボスキャラのサイズに。
その姿は見上げるような巨体で、死者の陣営の王にふさわしい恐るべき容貌だ。
レナが気にするのも無理はないのかもしれない。
「悪いけど、帰らない。レナとちゃんと話すまでは絶対に帰れない」
「やだっ、来ないで!」
大きな体を縮こまらせるようにするレナ。
わかっていた、拒絶されるであろうことは。
だから、まずは近づくことなく想いを届ける。
必要なのはそのための手段だ。
「聞いてくれ。レナ。このために、教会に断りを入れて借りてきた」
腰の収納に手を突っ込み、明らかに空間が歪んでいる内側からおかしなサイズ感のオブジェクトを取り出し、ぐっと力をこめ、ずしんと音を立てて設置。
スリデートや質量攻撃でお馴染み、巨大パイプオルガンだ。
「あ? なんだそりゃ。言っとくが茶番に付き合う気はねえぞ」
カイが剣を引き抜いてこちらに接近してくるが、無視して俺は鍵盤に触れる。
楽器演奏モードが始まる。
鍵盤の上で煌びやかなビジョンが躍動し、リズムアイコンが跳ね回る。
ゲーム世界の中で展開されたもう一つの小さなミニゲーム。
それは別法則によって支配された異世界とも言えた。
周囲からは隔絶された空間と、異なる時間の流れ。
カイの斬撃が、何もない空中で跳ね飛ばされる。
「ちっ、そういうことかよ」
「悪いけど、少しだけ付き合ってもらう」
たどたどしい手つきで、小学生時代を思い出しながら鍵盤を叩く。
派手に音が響いた。音量設定は最大だ。暗く静かな冥府を音が揺るがし、地の底から地上にまで届くほどの勢いで大胆に騒ぎ立てる。どうせ下手なんだから勢いと思い切りが大事だと半ばやけくそになって手を動かした。
思い出を辿るように。レナと通ったピアノ教室の記憶を呼び起こすように。
そして、あのスリデートの話をするために。
「レナ! 最初にしたデートのことだけどさあ! あれって正直、『レナレイ』じゃなかったよな! お前はロールプレイとか言ってたけど!」
音が外れて、もはや音楽の体裁すら整わなくなっていた。
だが構わない。これは言葉を届かせるための合図のようなものだから。
闇の奥から答えは返らない。だが、構わずに続けた。
「ところどころ、ちゃんとゲームの再現をしようとした箇所はあったけど。実質的にはほぼいつもの俺たちだったろ。お前のめちゃくちゃさは増してたけど。でも、レナがやろうとしてた『レナレイ』ってさ、むしろ逆だったんじゃないか?」
闇が蠢き、大きな腕が振るわれた。
冷たい風が動く。鳴動する暗がりが拒絶の声を返してくる。
「やめて。いいよもう、そういうのいらないから!」
「ごめん。ずっとレナの方から歩み寄ってくれてたのに、冷たくした。レナのことを傷つけて本当にごめん」
「だからやめてよ! 悪いなんて思ってないくせに! わかるから、そういうの。レイくんは自分の方が正しいって思ってるじゃん!」
謝罪と拒絶が反発し合う。どれだけ感情を込めても、頑なな心は動かない。
確かにレナの言うことも正しい。
俺はレナを全肯定できるわけじゃない。
「正しいとか間違ってるって判断してるのは、それが罪かどうかだけだ。けど、レナの気持ちは否定したくない。それが結果として悪いことだったとしても。ネクロマンサーのレナだってそうだろ。俺けっこうダークヒーローとか好きなんだよ」
「何を言って」
「全部じゃなくていいよ。何もかも正しくなくてもいい。俺にとって許せないことでもいい。でも気持ちはちゃんと知りたい。レナが何を考えてるのか、教えて欲しい」
何かを言おうとしたレナが、言葉に詰まるように口を閉ざした。
届きかけている。俺は『ここしかない』と確信して身を乗り出す。
「俺の気持ちもちゃんと話す! 俺たち、ずっとお互いのことについてきちんと話してなかったと思う。だから聞いて欲しい。俺がレナのこと、どう思ってるのか」
「いやっ!」
予想以上の拒絶が冥府に激震をもたらした。
世界そのものが恐怖に震えるような地鳴り。
両耳を押さえて怯える巨躯が、俺から顔を背けるような素振りを見せた。
「やだ、やだっ! 聞きたくない、もう嫌! もうただの幼馴染でもいいから。だから、もうレイくんの口からそんな残酷なこと聞きたくないの。来ないで、帰って」
まるで、俺の内心を最初から決めてかかっているような言葉だった。
トラウマを抉られるような絶望の叫びは、ただの思い込みとは違う。
きっと、これは俺の前世の行いの結果だ。
レナが望み、忘却で蓋をした、忌むべき記憶。
説得の前に、俺はこの真実と向き合わなければならない。
その為の鍵はアネットから与えられた。
魂を接触させることによる精神感応。
一か八か、レナの心に直接潜り込んで過去の出来事を探るしかない。
あとはどうやってレナに近づくかだが、その作戦も立ててある。
「お前、なんか時間稼ぎしてねえか?」
俺のでたらめな演奏を見守っていたカイが、剣で肩を叩くようにしながら疑念を向けてくる。おそらく演奏が終わったらすぐにでも襲い掛かってくるだろう。レナが拒絶の態度を示している以上、カイはこちらの排除を優先するはず。
だから、間に合うかどうかは賭けになる。
「いいや。これ自体が目的だよ」
俺はさらに鍵盤を叩く勢いを加速させていく。
重要なのは演奏の評価だ。
俺の下手くそな演奏はとてもじゃないが高評価を得られる代物じゃない。
よって、耳に心地よいということもなく、子守歌にも適さない。
人が聞けば耳を塞ぎ、動物が聞けば耳を伏せる。
眠っている子は飛び起きるような騒音だ。
案の定、演奏モードが終了すると同時に表示された評価は最低に近い。
「終わりか? 何だよ、まともに説得できてねえじゃねえか」
剣を構え直しながら訝しむカイに向き直り、俺もまた盾と槍を構えた。
カイに加えて覚醒しつつあるレナを相手に真っ向勝負で勝てるとは思っていない。
所詮、俺は低レアのモブキャラでしかないからだ。
数字に支配されたゲーム世界では、勝つために高レアの力が必要となる。
「狙いがよくわかんねえな。結局お前、中途半端じゃねえか。音楽だけでエモい雰囲気になるとか思ってたのか? そのクソみたいな演奏で?」
「ほっとしたよ。万が一、高得点が出てたら目覚めてくれなかっただろうし」
「あ?」
これはゲーム本編の話だが。
実は音楽を演奏するミニゲームは、この遺跡で実際に発生する要素だ。
封印装置にもなっている番犬の王ケルベロスには睡眠の状態異常が有効で、特に戦闘前に楽器を持ち込むことでケルベロスの三つある頭を眠らせることが可能なのだ。
通常の状態でもひとつの頭がデフォルトで眠っており、普通の評価なら頭が追加でひとつ眠り、高評価なら全ての頭が眠った状態になる。
そのまま奇襲もできるし素通りすることもできるというギミックなのだが、実は演奏を失敗すると全ての頭が起きてしまう。
「仲間に前世が料理人の奴がいてさ。餌付け用のパンも作ってくれた。準備は万端だ。あとは、アネットが使えるかどうか。賭けに近かったけど、ニックのおかげで可能だってわかった」
彼方から遠吠えが響いてくる。
呼応するように次々に響く遠吠え、遠吠え、遠吠え。
音楽を奏でるように。
勢いだけだった俺の演奏に合わせたのか、野性的に音が連なっていく。
地の底に広がる冥府の遥かな上方、暗い空から何かが近付いてきていた。
坂の上、遥かな洞窟を駆け抜けて。
胎児のように丸まった未熟な月を異界の扉に見立てるように。
ずしん、とそれがパイプオルガンのすぐそばに降り立った。
『おまたせ』
『ベストタイミングだ』
心でやり取りをしながら、俺は頼もしい巨体の前に立つ。
封印されていたはずの存在を前に、カイが絶句していた。
奥にいるレナにもひけを取らないサイズ。
見覚えのあるそれは、遺跡の最深部に放置されていた封印装置そのものだ。
大型魔獣。その別名はエレファント級。
俺が見たことのある中で最大級の動物、象ほどのサイズ感の三つ首犬が闇の中にあってなお存在感を主張する黒を纏って君臨する。
漆黒の毛並みは暗がりの中でも微かな月光に照らされて艶を放ち、ぴんと立った耳は周囲を油断なく探っている。
どんな犬種なのかは不明だが、ドーベルマンやジャーマンシェパードの中間くらいの鋭いシルエットは凛々しくも頼もしかった。
三つの頭がそれぞれ「わん」「わん」「わん」と吠え、一緒になって「がるる」と唸った。なるほど、こうして見ると確かにわかりやすい作戦名だ。
「ふふん。『わんわんわん! 一緒になってがるる作戦』、第一段階は成功だね」
「まあそうなんだけど、口に出されるとまあまあ恥ずかしいな」
その姿で間の抜けたことを言われるとずっこけそうになる。
できればもうちょい威厳を出してほしい。
とはいえ、姿が変わってしまっても『らしさ』がそのままなのは嬉しかった。
俺は背後のアネットに呼びかけた。
「それじゃ行くぞ、アネット!」
「ぅわぉーんっ!!」
三つある『星上げ』手段のひとつ、錬金鍋による『錬金合成』。
魔獣王ケルベロスになったアネットの咆哮を合図に、俺たちの決戦が始まった。




