31.魔法の呪文を唱えるために必要なたったひとつの条件
混乱が去り、人々は先ほどの一幕を理解できずにただ慄いていた。
レナの父親であるセンシスは負傷と動揺のせいで臥せってしまい、今はレナの兄が代理となって死者や負傷者を教会に運んだり、損壊した家屋の復旧作業などの陣頭指揮をとっているようだ。
ニックをはじめとした自警団の仲間たちも負傷を癒すために教会へと向かう中、アネットが俺の袖を掴んで誰にも聞こえないように囁く。
「あのね、レイにい、ちょっと待って欲しい。いろいろと説明して」
確かに、その必要があると思っていた。
気絶したカマスを背負ったニックに一声かけてから、ひとまず村はずれにある俺の自宅へと移動していく。
「ローレンさんは大丈夫そうか?」
「うん。ハンスじいじの遺品とかを集めて教会の方に行くって。たぶん、お葬式はもう少ししてから共同でやることになると思う」
歩きながら、変わり果てた村の様子を見て唇を噛んだ。
行動の結果は変えられない。
これを『まだマシな方の結果』と喜ぶには、色々なことがあり過ぎた。
縁者の死にすすり泣く声。痛みに呻く声。瓦礫と化した家を前に嘆く声。
だが、このままレナを放置すれば更なる悲劇が世界を覆い尽くす。
「とりあえず、何から話すべきかな」
アネットをさして広くもない自宅の中に案内する。
お茶なんかを出せればいいのだが、生憎とそんな気の利いたものはない。
意味もなくそわそわして、そういえば自宅に女性を招くのはレナに続いてアネットで二人目だな、とか行儀のよくないことを考えてしまう。
今は余計な茶番を演じる気分でもないので、さっさと本題に入ってしまおう。
「えっとね、その、あのね」
ところが、アネットの様子がなにやらおかしい。
いつもより浮ついた感じがする。
「もしかしてレイにいって、わたしのこと」
上目遣いでこちらの機嫌を窺うようにじっと見つめてくる。
静かに見つめ返す。アネットの意図を探ろうとしたところで、急に相手がぶんぶんと頭を勢いよく振り始めた。いったい何事だ。
「ちがうよね。ぜんぜんまったくこれっぽっちも可能性なんてかけらもナシだねもちろん期待なんてしてないよ念のため確認してみただけ自意識過剰とかじゃないよ」
「アネット?」
「なんでもない! わたしがこじれた原因じゃなかった! あんしん!」
奇妙な過剰反応。レナの情緒不安定さが伝播したかのような様子のおかしさだ。
アネットは自分で自分の熱を冷まそうと深呼吸をしてから、軽く咳払いをする。
ふたたび俺を見る少女の目に、浮ついた感情は映っていなかった。
核心を射抜く狩人の問いかけが矢となって放たれる。
「えと、ならなんでレナおじょうさまに迷わず『好き』って伝えなかったの?」
傍から見られていたのなら、そこは指摘されて当然だと思っていた。
俺はとうとう、レナにはっきりとその言葉を伝えなかった。
伝えた上で失敗したのならまだ言い訳もできる。
だが俺は明言を避け、踏み込むことをためらってしまった。
「前から気になってた。なんでレイにいが最初から諦めてるのか」
無垢な視線。純粋な疑問。
俺とレナの間にある暗黙の了解。
それが理解しがたいものとして周囲に受け止められることは知っている。
追及されるたびに、俺たちはそれらしい言い訳や決まり文句でごまかしていた。
『家族のように育ったから』
『今さらそういう対象には思えない』
『全ての幼馴染が恋人になるわけじゃない』
『大切な親友だから』
こんな嘘を、俺はずっと事実にしようと足掻いてきた。
レナに対してさえ、俺はこの虚構を押し付けて真実に変えようとしていたのだ。
自分自身を騙し、レナの認識さえ誘導するために。
下らない自己暗示だ。けっきょく、俺は自分の心を騙せなかった。
それでも、赦されない結末だけは回避しなければならないと嘘を吐いた。
けれど、いまはもう無意味だったのかもしれないと思い始めている。
アネットになら、打ち明けててもいい気がした。
「流山令とレイにいは、ほんとに好きな気持ちだけは一緒だと思う。なのに、流山令はそこだけレイにいらしくない。レイにいだったら、勝ち目がなくても、無謀でも、死ぬかもしれなくても、身分の差があっても、ぜったい諦めない」
アネットはずっと『レイ』を見てきた。
だからその評価はきっと正しい。
差があるとすれば、それは不純物の存在ゆえだ。
俺とレイの、決定的な違い。
「その差がある理由がわからない。どうして? おしえて。ちゃんと知りたい」
肺の中にある息を全て吐き出す。
胸にある魂が抱えた感情と鬱屈、その全てを放り出そうとするように。
なんだか、ひどく疲れた。
俺は勢いよく寝台の上に身体を投げ出した。
横になって目を瞑り、両手で顔を覆う。
真正面を向けなかったのだ。
「前にちょっと言ったろ。前世で、子供の頃に親のセックス見ちゃったって」
軽く、俺の腰の近くが揺れる。
腕の隙間から覗くと、寝台をわずかに沈ませてアネットが腰かけていた。
軽い。レナと並んで座った時のことを思い出して、その差に喪失を見てしまう自分が嫌になった。
アネットの不思議そうな声が返ってくる。
「うん。気まずい。でも、それだけ? そこまで気にすること? 言っちゃ悪いけど、子持ちの親はみんなしてることだよ」
「そうだな。そりゃあ理屈で言えば親はやってるよ。俺たちが生まれる前から。そうじゃないと俺もレナも生まれてない」
あれは小学六年生の時だった。
その正しい意味をよく分かっていない時期と、理解し始めた時期の狭間。
衝撃と困惑と、それ以上の嫌悪感。
だが、それは俺にとっての問題だ。
あの出来事が最悪だったのは、それが俺とレナに同時に降りかかったこと。
そして、その意味が二人にとって違っていたことだ。
「よりにもよって旅行先でやるなよって話だよな。寝てると思って油断してたのかわかんないけどさ。でも、そのせいで俺とレナは一緒にそれを見ることになった」
俺はまだいい。
最悪で最低だった。
それでも心に深刻な傷を負うほどではなかった。
レナは違う。あれは幼いレナの世界を破壊するほどのトラウマだった。
「親同士が、つまり俺の父親とレナの母親が不倫してるところを」
アネットが息を呑む。
レナにとって不幸だったのは、彼女と母親の仲がこの上なく良好だったこと。
小学生くらいの女子が母親とべったりというパターンはわりと良くあるらしいが、レナのところもそういうタイプの親密さだった。
心からの信頼と愛情を相手に向けながら、同じだけの感情が自分にも向けられていることを確信しているのが良くわかる仲睦まじさ。
だからこそ、レナのショックは大きかった。
彼女は、自分の両親が『仲良しの幼馴染カップル』として結ばれたというストーリーをこの上なく愛していたから。それを己の理想像だと信じていたから。
「『仲良しの幼馴染ふたりが結ばれて幸せな結婚生活を送る』っていう幻想が、俺たちの中で完璧に壊れた。そういうのが信じられなくなって、俺はあいつの言葉を何度も否定するようになった。そんなのフィクションの中にしかないって」
「それで、そんなに頑固になっちゃったの? あのねレイにい、それはちょっとひどいと思う。レイにいが傷ついたのはわかるけど、そんなこと言われ続けたらレナおじょうさまだって傷ついちゃうよ」
「だよな。けどそれだけじゃなかった」
最初は俺だって幼い潔癖さから『幼馴染』という幻想を否定していた。
自分が見た忌まわしいものだけが世界の真実だと思い込んで、そうではない可能性があるなんてことに気付こうともせず、自分の傷ばかり見つめてレナを傷つけた。
けれどしばらくして、俺たちの中で理由が変化した。
「普通はさ、そういうのってあまり想像しないようにするだろ? だから最初に見てしまってからしばらくは気づかなかった。でも、ある時に気づいた」
思いついてすぐ、俺はその恐ろしい可能性に恐怖した。
だから『幼馴染』を否定して、レナを遠ざけようとしたのだ。
「学生時代、つまり今の俺たちくらいの時から仲が良かったっていう俺の父親とレナの母親。その関係は、いつからなんだろうって」
「あ」
アネットが短く声を出した。
その可能性に思い至ったのだろう。
見てしまったのは一回だけ。
だからといって、関係性がそれだけだったとは限らない。
「最初は気づかないふりをしてた。当時は確かめる手段も思い浮かばなかった。どの道、子供が簡単にできる方法でもなかったしな。でも、その可能性がある限りは軽率なことはできなかった。そうしているうちに、全部終わった」
どうすればよかったのか、なんてことを今さら考えても無意味だ。
子供でしかない俺たちは、ずっと無力だった。
「俺たちが知らないうちにレナの父、って言うかレナを育ててきた、レナの家庭の父親かな。『そっち』が確定させたらしい。で、レナの家庭が崩壊した」
詳しい経緯や背後で動いていた事柄まで詳細に理解していたわけではないが、結果だけ語ればそういうことだ。
たった一言。家庭崩壊。重みのない説明でレナの不幸は語ることができる。
その軽さが、俺には不完全に思えてならない。
けれど第三者に説明すると、レナの苦痛はありふれた不幸にしか見えなくなってしまう。相手がアネットだとしても、それは嫌だ。
「俺の家族との関係性もこじれて、けどたちの悪いことに外聞とか人間関係とかそれまでの全部を捨てることもできなくて、表向きは何もなかったことになった。少なくとも、俺とレナが家を出るまでは『そのまま』ってことになったらしい。裏でいろいろ協議してたみたいだけど」
「じゃあ、その。前世の流山令と三島礼奈は」
アネットが求めている答えは、決定的な事実だとわかった。
だからはっきりと告げる。俺にとって、最も忌まわしい現実を。
「俺たちは父親が同じ、腹違いの兄妹だ。何が幼馴染だよ。笑えるよな。血がつながってるのにさ」
ずっと俺の部屋に入り浸っているのも、仲がいいという理由よりも自分の家にいたくなかったという理由の方が大きかったように思う。
俺がいる場所が、レナにとっての逃げ場だった。
レナの両親がレナに対してどんな感情を抱いて接していたのかまではわからない。それでも、レナはそこから逃げ出そうとしてもがいていた。
『嘘なんていらない。偽物の愛情なんていらない』
レナはそう言っていた。
少なくとも、彼女はそう感じて苦しんでいたということだ。
何を考えていたのか、俺の父はレナが俺の部屋に逃げ込んでくることを積極的に認めていた。言いなりの母は歓迎せざるをえなかった。あちらの両親が俺のことをどう考えていたのかは、最後までわからずじまいだ。
張り付いたような笑顔の裏を、俺は想像したくなかった。
「俺たちは最初から付き合えないことが決まってた。だから俺は絶対にあいつを好きになっちゃいけないし、付き合うわけにはいかないんだ」
言ってしまえばそれだけのこと。
近親相姦は罪だ。
知らずに相手を好きになってしまったのなら、俺は諦めなければならない。
それがどれだけ苦しくても。
罪深い愛なんて、レナだけではなく周囲まで巻き込んで不幸にするだけだ。
だから耐えた。だから自分に言い聞かせた。だから嘘を吐き続けた。
それが正しいことだと信じて、ずっと。
深く、息を吐いた。
言ってしまった。全てぶちまけてしまった。
果たしてアネットは何て言うだろうか。
(俺の愚かさに呆れる? 情けないって叱る方がそれっぽいか?)
いずれにせよ、彼女はきっと俺に同意してくれるだろう。
彼女は俺と考え方が近い。
善良で、道徳的な正しさを重んじる。
(もしかすると、俺は期待していたのか?)
レナに拒絶されて揺らいだ自信。俺の言動が彼女を傷つけていたことを、肯定して慰めて欲しかったのかもしれない。可哀想に、つらかったね、それじゃあ今までの態度も仕方ないね、という風に。
ところが、アネットの反応は俺の予期せぬものだった。
「あのね、レイにい。いまからすっごく大事なことを言うから聞いてね」
無造作に、そして無表情にアネットが俺の両手を掴んだ。
隠していた顔を曝け出すように、俺の表情と感情を暴いていく。
じっとこちら見つめるそのまなざしは、心を貫くかのようだ。
アネットはすう、と息を吐いて、至近距離ではっきりと告げた。
ほとんど叫びに近い。耳と魂を震わせる咆哮。
「転生したら、ノーカウント!!」
「はい?」
聞き間違いだろうか。
どういう意味の言葉だ?
番犬狩人の少女はふん、と鼻から息を出してすんすんと説明を加える。
「レイにい。わたしの前世は番犬。知ってるよね」
「うん。まあ」
「この世界では獣姦は最も重い罪のひとつ。むかし、輪廻の神さまが犬好きの邪神と大喧嘩してからというもの、病気とかで大変だから絶対ダメってなった。けどね、わたしは人間の恋人を作っても大丈夫! なぜならば、転生しているから!!」
ごちん、と上から頭突きが降ってきた。
暴力的な説得。言葉にはパワーがあった。
確かにそれはそうだ。
俺は前世のレナとの関係に感覚を引っ張られていたが、この世界の常識は異なる。
だって転生が当たり前の世界だ。
『そんなこと』を来世まで引きずってタブーにしていたら社会が成り立たない。
だから前世が犬だった少女は、力強く俺に保証してくれた。
「きんしんそーかんも、おんなじ! タブーは転生でチャラ! だから、レイにいは前世のいろんなことに縛られる必要なんてないんだよ!」
「でも、だからってすぐに割り切れない。俺はずっと」
ずっと、呪いのように心を縛っていたルールは簡単には消えない。
そうやって自分を納得させなければ耐えられなかった。
近くにいるのに、どうやっても触れられない。
責め苦のような距離から、それでも遠ざかれないままだった。
氷漬けにされていた感情を、それでもアネットは丁寧に溶かそうとしてくれる。
「レイにい。そういう言い訳はいらない。自分の気持ちに素直になって。わたしも、そうする。自分の気持ちに嘘を吐くのは『正しくない』から」
まっすぐな視線が、何度でも俺を射抜く。
嘘のない、純真な心がすぐ近くにあった。
緊張が伝わる。恐れを感じる。期待と予感、諦めと痛みへの備え、そうした感情の全てを抱えて前に踏み出そうとする勇気。
仔犬のようにじゃれついて、俺を押し倒すような姿勢のまま、アネットはその言葉を口にした。きっと、幼い頃に憧れた『優しいお兄さん』のために。
「レイにい。ずっと前から好きでした。わたしと付き合ってください」
魔法のように、真っ白な感情が届いた。
見えたのは、何も記されていない剥き出しの心。
アネットという少女の淡い恋心。
番犬がご主人様に向けるひたむきな好意。
そして、名前の付いていない空白の暖かさ。
俺の魂にそれが触れた瞬間にわかった。
大切なもの。奇跡のような気持ち。とても簡単な魔法の呪文。
それを、『 』は剥き出しの心だけで伝えてくれた。
嘘のない感情を受け止めた瞬間、はっきりとわかった。
俺の気持ち。そして『レイ』の気持ち。
異質な心と心が重なるのを感じる。
それは俺たちが最初に『同じ』だと信じた瞬間のシンパシーと同じもの。
そうして、俺と/俺はもういちど明確に心をひとつにした。
「ごめん。気持ちは嬉しいけど、それはできない。俺には好きな人がいるから」
アネットは、安堵したように微笑む。
わかっている。彼女は『それ』が間違いではないのだと俺に教えるために、勇気を出してくれたのだ。
俺を縛る前世の規範を、忘れたわけではない。
罪の意識も、それが悪いことだという認識もまだある。
(それでも、アネットの感情が、この行動が間違いであるはずがないから)
俺は、その間違いを正しいと信じた。
その罪深さでレナを救いたいと思った。
だから俺は、アネットの目の端に光るものに気付かないふりをした。
俺のするべきことを気付かせてくれた、大事な年下の幼馴染のために。
「うん。それでいいよ。よかった、ちゃんとわたしが好きになったレイにいだね」
俺は/そして俺は、幼馴染のことが好きだ。
レナがいる場所に行こうと決めた。
そこが地獄や冥府であっても構うものか。
もう恐れも迷いもない。
死でさえも、俺たちを引き裂くことはできないのだから。




