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第1話:開門の夜、クズどもに告ぐ

「魔が差した」と

ほざくクズな愛人の枕元へ、

今、

無数のリトル・レクイエムが

音もなく滑り込む。

逃げ場などない。

「知らなかった」では

絶対に済まされない、

魂の底から絶望する

「完全ざまぁ」の夜が、

今、始まる。

「……ねえ、起きてよ。なんか寒くない?」


高級感のあるダブルベッドの上で、

高級な

ナイトウェアに身を包んだ女――蓮見(はすみ)

沙織は、

隣で寝息を立てる男の肩を揺すった。

男の名は、

黒川(くろかわ)拓海。あの凄惨な

事件で

「傷害致死」の容疑で逮捕されながらも、

国選弁護人の手回しと

「反省の態度」を盾に、驚くべき

スピードで

保釈を勝ち取り、いまこうして

隠れ家的な

マンションの一室で平然と眠りこけていた

男である。


拓海は

面倒くさそうに寝返りを打ち、

低く唸った。

「うるせぇな……。勝手にエアコンでも

下げろよ。

寝かせろ、頭がいてぇんだ」

「だって、

尋常じゃない寒さよ。それに、

ほら……窓の外、変じゃない?」


沙織が

震える指で指し示したリビングの

窓ガラス。

外は真夏の湿った夜のはずなのに、

ガラスの

向こう側は、まるで極寒の地のように

真っ白な

霜で凍りついていた。いや、

霜ではない。

それは無数の「息の痕」だった。

小さな、

小さな、人間のものではないほど

無数の

冷たい息が、内側に向かって

びっしりと

白い曇りを作っている。


「……なんだこれ」

拓海が

不機嫌そうに起き上がり、

ベッドから足を下ろした。

その足の裏が、

フローリングに触れた瞬間、

彼は思わず

「冷たっ!」と奇声をあげて飛び

上がった。

床が凍っている。部屋の空気が、

一瞬にして

冷蔵庫の冷凍室よりも低く落ち込んで

いた。


「気味が悪いな……おい、鍵はちゃんと

閉めたのか?」

「閉めたわよ! 誰が来るっていうのよ、

マスコミだって

お金払ってまわりにガードさせてるん

だから……!」

沙織の顔が恐怖で引きつる。彼女は

つい

数日前まで、カメラの前で

「私も騙されていた」

「あの子がそんな暴力を受けている

なんて、

夢にも知らなかったんです」と、

完璧な

被害者の涙を流してみせた女だった。

だが、

その瞳の奥にあったのは悲しみではなく、

「自分の恋愛や生活が邪魔されたことへの

苛立ち」と

「警察や世間の目をどう欺くか」という

計算づくの保釈逃れだけだ。


――カサリ。


天井裏から、音がした。

「……っ!」

拓海が身構え、腕のタトゥーを隠す

ように肩をいからせる。

「誰だ! 警察か? 週刊誌か? 出てこいよ、

訴えるぞ!」


ガサガサ、ピタッ。

天井のシミから、

ドス黒い粘液のようなものが、

タラリと垂れ落ちた。

それは床のフローリングに落ちると、

ジュッと

音を立てて小さな水たまりを作る。

いや、

水たまりではない。それは、小さな

「手の形」をした影だった。


「なんだこれ……おい、沙織、

 これ……血か?」

「やめて、やめてよ! なんなのこれ……!」


沙織がベッドのシーツにしがみつき、叫び声を

あげる。

その瞬間、部屋の照明が一斉に、

チカチカと不気味な明滅を始めた。


――パチン。


完全な暗闇。

しかし、真っ暗になったはずの部屋の

中が、

妙に青白く照り出されている。

原因は、部屋の隅だった。

そこにあったのは、一つではない。

ふたつ、

みっつ、いや、何十、何百という

「小さな影」だった。

ボロボロの服をまとい、頭部が

不自然に傾き、

小さな手足にあざや骨折の痕を残した

ままの――「子どもたち」だった。


「うっ……あ……」

拓海の喉から、

恐怖で声にならないうめき声が漏れた。

生前、

彼が「うるせぇんだよ、ボタリングが!」と

怒鳴りつけ、

泣き止まない頭を力任せに床に叩きつけた、

あの

小さな命たちが、いま、目の前に立っていた。


「おじちゃん」

そのうちの一人が、首をグギッと不自然な

角度に曲げたまま、

一歩、また一歩と近づいてきた。

「なっ……お前……死んだはず……!

俺は知らねぇよ!

勝手に転んだんだろ! 俺は悪くねぇ!」

拓海は

恐怖で腰を抜かし、ベッドの枠にしがみつき

ながら

後ずさった。人間の尊厳も、男としての

虚勢も、

その瞬間には跡形もなく消え去っていた。


「知らなかった、だって?」

別の

小さな亡霊が、冷たく、鈴を転がすような声で

笑った。

その目は、恐怖で見事にひっくり返り、

生前に受けた

暴力の痛みがそのまま固定化されたような

痛々しいものだった。

「母ちゃんも言ってた。『知らなかった』って。

僕たちの背中にできたあざも、

毎晩

怯(おび)えて泣いていた声も、

全部

目の前で見て見ぬふりをしておき

ながら、

いざ僕が冷たくなったら『被害者』の

顔をする。

すごいね、大人はずるいね」


「ち、違う……!

 あれは魔が差したんだ!

 育児ノイローゼで……!」

沙織が

ヒステリックに叫びながら、

這いつくばって

玄関のドアへ向かおうとする。

「助けて!

 誰か! 誰か警察を呼んで……!」


ガチャッ!

沙織の手が鍵に届き、必死にそれを

回そうとした。

しかし、鍵穴は凍りつき、びくとも

しない。

外の世界へと通じるはずのドアは、

まるで

分厚い鉄の壁のように完全に塞がれていた。


「無駄だよ」

暗闇の中から、もう一つの小さな影が

スルスルと這い出てきた。

それは、

つい先日、この街の別のマンションで、

同じように

「身勝手な大人の暴力」によって命を

奪われたばかりの、

まだ

名前す告げられていない少女の亡霊だった。

少女は

冷たい目で沙織を見下ろし、

その細い指を

ぴたりと沙織の足首に這わせた。


「キャアアアアッ!

 放して! 触らないで!

 気持ち悪いっ!」

沙織が狂ったように足をバタつかせ、

自分の足に

触れる冷たい感触を振り払おうとする。

その言葉に、

少女の瞳の奥で、どす黒い炎がメラッと

燃え上がった。


「気持ち悪い、だって?」

少女の声が、

何重にも重なり、部屋全体をビリビリと

震わせる。

「私たちを『邪魔者』扱いして、

愛人の

機嫌を取るために押入れに閉じ込めて、

ご飯も

くれなかったくせに。いざ私たちが

死んだら、

『世間体が悪い』『自分の人生が狂う』って

泣き叫ぶ。

あなたたちにとって、私たちの命って、

そんなにゴミクズ以下だったの?」


「ち、違うわよ……!

 私は……私は悪くない! あの男が

 勝手に

 やったことで、私は騙されて――」


「嘘をつくな!」


ドスッ!

重い低い音が響き渡り、沙織の目の前に、

生々しい

「あの日の光景」が幻影として投影された。

それは、

スマホの録画データではない。

隠し通したはずの、あの日の夜の真実。

母親である沙織が、

泣き叫ぶ我が子を鬱陶しそうにベッドに

投げつけ、

「お前さえいなければ、あの人とずっと

一緒にいられたのに」と

吐き捨て、隣室で男と酒を飲みながら笑い

合っていた

――そのすべての醜悪な本音が、

部屋の壁一面に鮮明に映し出されたのだ。


「あ……あ……あぁぁぁ……!」

沙織は

自分の耳をふさぎ、床に突っ伏して

号泣した。

言い訳の余地など、一ミリも残されて

いなかった。

「知らなかった」という免罪符は、

この

絶対的な亡霊たちの空間の前では、

ただの滑稽な嘘にすぎなかった。


拓海は震える手でポケットからスマホを

取り出し、

必死に警察に通報しようとした。

しかし、

画面には『圏外』の文字すらない。

画面

そのものがヒビ割れ、彼の手のひらに

真っ黒な

タールのような液体がべっとりと付着した。

「くそっ……!

なんなんだよこれ……警察!

誰か助けてくれ……!」


「助けて、欲しいの?」

拓海の足元に、

ユウタの小さな影がピタリと寄り添った。

その

小さな手が、拓海の足首をガシリと掴む。

信じられないほどの

怪力だった。大人の男の全体重をかけても

ビクともしない、

理不尽に奪われた未来の重圧が、

その

小さな手からダイレクトに流れ込んでくる。


「お前が僕の首を絞めたとき、僕は

『苦しいよ、母ちゃん、助けて』って

言ったんだよ。覚えているかい?」

「ひっ……! 離せ、化け物……!」

「化け物は、どっちかな」


ユウタがニッコリと笑った。

それは子どもらしくない、あまりにも

残酷で、

しかし絶対的な正義に満ちた冷徹な笑みだった。

「法廷では『反省している』って言えば

減刑されるかもしれないね。

世間の

同情を買えば、いつかまたシャバに

出てこられるかもしれない。でもね、

僕たちは許さない。

法律が君たちを守るなら、僕たちが直接、

君たちの

『魂』をすり潰してあげる」


「やめろ……! 来るな……!

 助けてくれ――っ!」


拓海の絶叫が、

部屋の冷気にかき消されていく。

沙織の悲鳴と、

拓海の情けない泣き声が混ざり合う中、

無数の

小さな影たちが、ゆっくりと、

しかし

確かな意思を持って、二人の身体に

這い上がっていった。


外の世界では、相変わらず夜が静かに

更けていく。

マスコミの車が停まり、何も知らない

警備員が

退屈そうにあくびをしている。

しかし、

そのビルのの一室だけは、現世の

いかなる法律も、

弁護士の詭弁も、警察の介入すらも

絶対に届かない、

完全なる「小さき魂たちの法廷」へと

変貌していた。


「――第1回、開門裁判を始めます」


少女の澄んだ声とともに、

部屋の

電気が完全にバツンと消え失せた。

暗闇の向こうで、

クズな大人たちの絶望の悲鳴が、

いつまでも、

いつまでも木霊し続けていた。


©2026[I・G・ε].All rights reserved.

東京・霞が関の巨大なビル群が、

朝の

湿った陽光に照らし出されていた。

その一角にある、

日本の司法の根幹を担う巨大な

庁舎。

司法記者クラブに所属する新聞

記者の

三木みきは、デスクのパソコン

画面を

見つめながら、深いため息を

ついていた。

画面に映し出されているのは、……。


明日、18:10 に、第2話を投稿します。

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