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4 水絵という名

今回は、水絵の“家の事情”に少し触れます。


「あら、たくさんの草双紙。どうしたの?」


 家に戻るなり、包みから草双紙を取り出した水絵に、志津は屈託なくきいてきた。

 包みを解く手が震えていることに気づいていない様子に、水絵はほっと胸をなで下ろす。

 草双紙を前にして、水絵は長い時間思い悩んだ。母の目に触れさせないことは簡単だった。あのまま、寺子屋の蔵書に混ぜてしまえばいいのだから……。誠太郎にも、「寺子屋で預かる」と言ったのだし。

 だが、水絵は、母に秘密を持ちたくなかった。


 それに、この長屋には寺子がたくさんいる。寺子屋にたくさんの草双紙が寄贈されたこと、その草双紙に「此主 宇多川誠太郎」と記名されていることは、新吉や千代の口から母の耳に入るかもしれない。水絵が隠していたことを知れば、母はきっと傷つく。それなら、自分の口から言っておこう――そう決心して、草双紙を持ち帰ったのだが、誠太郎の名前を告げるのは、かなりの勇気が必要だった。


「この草双紙、寺子屋で預かってくれって頼まれたの……」


 と、草双紙の一冊を手に取り、奥付を開いてみせる。

 母は一瞬目を見開き、そして、得心したという風に頷いた。


「ずいぶんたくさん持っていらしたのね。よほど、草双紙がお好きなのね」


「……そうみたい」


「お目にかかったの、誠太郎さまに?」


 水絵は小さく頷いた。


「寺子屋で預かることになったのは、なぜ?」


「……母上さまが、草双紙がお嫌いなのだって」


 少しためらったあと言う。「ねえさま」と呼ばれ、頼られた……とはさすがに言えなかった。

 誠太郎が、水絵を「ねえさま」と呼ぶのは、父親を同じくする異母姉だからだ。


 ふたりの父、宇多川誠之進が同心になり、水絵の祖父である「袖切り冬三」が手先として仕えはじめたとき、誠之進はまだ独り身だった。

 誠之進と冬三は数々の事件を解決し、そんなふたりを陰で支えていたのが、冬三の一人娘、志津だった。ごく自然に、誠之進と志津は惹かれ合い、結ばれた。

 しかし、町人である志津が誠之進の妻になることは難しかった。それでも、誠之進は努力した。志津を、どこかの武家の養女にして、自分の妻に……と奔走したのだが、その時まだ生きていた誠之進の母が許さなかった。すでに、水絵が生まれていたにもかかわらず――。


 その時、何が話し合われたのか、母は決して語ろうとはしなかった。

 母が話してくれるのは、誠之進がいかに立派な同心であったか。そして、水絵をとてもかわいがっていたということだけだった。

 誠之進はやがて、母の勧める武家の娘と結婚する。そして、生まれたのが誠太郎だ。

 しかし、誠太郎が二歳になった頃、誠之進は職務中に命を落とした。跡取り息子に死なれ気落ちした誠之進の母が亡くなったのは、それから半年も経たないうちだった。


 以後、宇多川家を取り仕切っているのは、後家となった栄――。

『草双紙は町人の物。武士が読む物ではない』――誠太郎が草双紙を禁じられたわけを、水絵は母に言うことができなかった。町人であるが故に父の妻になれなかった母に、それを告げるのは、あまりに酷だ……。

 だが、ややしばらくして、母がぽつりと言った。


「あの方は、町人を嫌っていらっしゃるから……ね」


 水絵が言うまでもなく、母は理由を察していた。


「……ごめん」


 思わず口をついてでた謝りの言葉に、志津はくすっと笑った。


「水絵があやまることじゃないでしょう。それに……わたしから言ったのよ。誠之進さまの妻にはなれませんって」


「え?」


 驚く水絵に、母は、まるで小娘が自分の秘密を友だちに打ち明けるような口調で言った。


「だって、町育ちのわたしに、武家のご新造さまなんてつとまるとは思えなかったし。誠之進さまはお慕いしていたけれど、誠之進さまのお母上がねぇ……」


 とても厳しい人だったから、あんなお姑さんに仕えるのは絶対嫌だったのよ……と、誰も聞いていないのに囁き声で母は言った。


 母は嘘は言ってないだろう。だが、言葉のすべてが母の本音でもないはずだ。子どもまでなした相手の妻になることを、夢見ないはずはない。そのくらいは水絵にもわかる。けれども、水絵はそれに気づかないふりをしていった。


「そうか……そうだよね。長屋暮らしの方が気が楽だよね」


「水絵は? 御武家さまの暮らしにあこがれたりはしない?」


 軽い口調を装った、真顔の志津の問いに、水絵ははっきりと首を横に振った。


「草双紙も読めないような堅苦しい暮らしはまっぴらよ」


 奥付の名前を見つめる。父の一字をとった「誠太郎」という名前。うらやましいとは思わない。なぜなら……。


「わたしは、水絵って名前をもらっただけで充分」


 町人にはそぐわない「水絵」という名は、まだ母を妻にするつもりだった父が名付けたものだ。それが唯一の、そしてなによりの形見だと思っているから。


「そうね。生まれたばかりのあなたを抱いて、誠之進さまはおっしゃったのよ。この子の名前は『水絵』にするって……。あの頃は、毎日が夢のように幸せだったわ」


 志津が自分から父の話をするのは珍しいことだった。もしかして、泣いているのでは……と思い、母の顔をのぞき込んだが、涙はなく、穏やかな優しい微笑みだけが浮かんでいた。

 水絵はほっとして、わざと明るい口調で言った。


「さあて、この草双紙、今日中に全部読んじゃおう」


「今日中に? なんで? ゆっくり読めばいいじゃない」


 驚く母に、水絵は言った。


「だって、明日には寺子屋に持っていくのよ。寺子の誰かが、わたしより先に読むなんて、嫌だもの」


 草双紙を開き、すぐに夢中になってほかのことが目に入らなくなっている水絵を、志津はくすくす笑いながら幸せそうに眺めていた。


お読みいただきありがとうございました。

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次回もよろしくお願いいたします。

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