目覚めれば異世界
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やめて!やめてやめて違うっ!!
私は────じゃない!
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正直何がなんだかわからない。此処が何処で、いったい何がどうして溺れる羽目になったのか。見覚えのない場所で、頭のてっぺんから足の先まで泥水にまみれ、ゲボゲボと臭い水を吐きだしながら、中村梨子は途方に暮れていた。
梨子の身体にまとわりつく濡れた服らしきもの、足首まであるネグリジェ?的な?
なんでこんなの着てるの?
そもそもネグリジェなんて、着たことも持っていたこともない。梨子はパジャマ派なのだ。いや、夏場とかはタンクトップにハーフパンツで寝ちゃったりもするので、別にパジャマに何かのポリシーがある訳でもないが。
眼の奥にチクチクと痛みが走り、うっかりこすったら視界が赤くなって涙が溢れた。ヤバイ、眼球傷ついた?
「ね、大丈夫?痛いところは?」
後ろから声をかけられて、梨子は座り込んだまま反射で振り返った。
本能がこの異常な状況を把握しようとするのか、本来なら我慢できないような痛みをこらえ薄らと目を開けると、そこには輪郭も朧げながら、はっきりわかる綺麗な人がおられた。正確に言えば、綺麗っぽい雰囲気の人、だ。
白っぽい髪。彫りの深い顔立ち。
そう、溺れた梨子を助けてくれた命の恩人は外人さんだったのである。
でも正直にいえば、それどころではなかった。
「あの、大丈夫です。助けて下さってありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみません。それであの…」
日本人の礼儀を忘れてはいけない。先ずはお礼と謝罪から。
梨子は、自分と同じく泥まみれでびしょ濡れの外人さんに頭を下げながら、今一番気になっている事を尋ねた。
「ここは何処ですか?なんで私は此処にいるんでしょう?なんか訳わかんない服着てるし、今日は何日ですか?てゆーか何月ってとこから?あなたはどなたで私の知り合い?」
一つどころではなかった。喋ってる間に、分からない事だらけな事に気付き、今まで分かっているつもりだった記憶までがどんどん曖昧になって、頭からザッと血の気が引くのがわかった。眼は今や刺すように痛み、瞼の上から押さえつけて誤魔化す。そしたら今度は息がうまく吸えなくなり、イケメンが慌ててさしのべてくれた腕にしがみついて。
梨子は意識を失ったのである。
目が覚めたのは、唐突だった。
急にポッカリと、意識する間もなく目が開き天井の木目が飛び込んでくる。
梨子はキョロキョロと視線を動かし、自分がどこかの布団に寝ている事がわかった。
それからやっと、ソロリと頭を動かし持ち上げてみた。八畳位の部屋だろうか。
梨子が寝ているのはどうやらベッドで、そのベッドが部屋の半分近くを占めている。やたら大きなそのベッドのせいか、やけに部屋が狭く感じられた。
窓らしきものが一つとドアが二つ。どちらかが、或いは両方が部屋の外に繋がっているのだろうか。窓は雨戸?を閉めてあるのか真っ暗で、室内には幾つもの謎の灯りがほわほわと漂っている。
布団の中で手足を動かしてみて、少しダルさはあるものの普通に動かせることに安心し、ゆっくりと上半身を起こす。眼の痛みもなく、視界も良好で心底ホッとした。
次いで足をベッドから下ろそうとして戸惑った。なんとなく、雰囲気的に履き物が必要な気がする。これは例えるなら学校の教室の床みたいな、裸足で歩いたらアウトなやつだ。
梨子はベッドの下まで覗き込んで履き物を探してみたが、それらしい物は見当たらなかった。
代わりに長い髪を見つけた。
ホラーではない。自分の髪だ。俯いたら落ちてきたのだ。
けれど梨子の髪は精々肩までの長さだった。
こんな背中の中程まで届くような長さでは、決してなかった。
肩から滑り落ちてきた黒髪を引っ張りながら、梨子は困り果てていた。
更に困惑することに、お腹が大きな音をたてた。
するとその途端、お腹がすいてたまらなくなった。何故急に?
条件反射ってやつ?でも実際、最後に食事をしたのがいつなのか、全くわからない。
空きっ腹を押さえて布団に突っ伏した梨子の耳に、ドアが開く音が聞こえた。
左側のドアから、記憶よりも輝きを増した外人さんが、食器らしきものをのせたお盆を持って入ってきた。長いプラチナブロンドには金粉が踊り、涼やかな瞳は左右の色が違っている。蒼と緑の虹彩異色症。
これはもはや『様』が必要な域だろう。
でも登場がタイムリー過ぎて、梨子はガックリするしかない。
(……泣いちゃってもいいかな?まさか私のお腹の音が聞こえた訳じゃないよね、ね)
寝台に身体を起こしている梨子を見た外人様は、一瞬目をみはり、ふわりと微笑った。食事を寝台の端に置き、膝をついて梨子の頭を抱き寄せる。
(ええっ、ちょっと待って!近い、近いよっ?
これ、外人距離ってやつなの──!?)
「目が覚めてよかった。まずはこれを食べて。もう2日近く、何も食べてないからね」
わたわたする梨子に、外人様がもってきたのは、かぼちゃっぽいポタージュとやわらかい白パン、ヨーグルトだった。
それを見た梨子はふと、お姉ちゃんの子供が食べてた離乳食を思い出す。名前は苺ちゃん。今流行りのキラキラネームってやつだ。
外人様は寝台で上半身を起こした梨子のわきにお盆を置いた。
「ちょっと狭いけど我慢して。この部屋テーブルがないから」
(うんうん、わかるよ。ここ、明らかに寝るためだけの部屋だよね。ベッド以外何にもないし)
梨子がさりげなく外人様の足元をチェックしてみると、やっぱりというかブーツを履いていたのだった。
何故か自らスプーンを手に取った外人様に、梨子は膝の上で両手を揃え、可能な限り深々と頭を下げた。
お腹はすいているけど、その前にやらねばならないことがある。
「助けていただいた上に、なんか色々お世話になってしまっているみたいですみません、ありがとうございます。私は中村梨子と申します。あなたの名前を教えていただいてもいいでしょうか?」
?
返事がない?
────と思ったら、外人様はスプーンをぎゅっと握りしめ、目を見開いて固まっていらっしゃった。
「あの……?」
戸惑う梨子に、外人様は深ーいため息をつく。
「……まさかの、そこから?」
ごめんなさい、全く意味がわかりません。
ベッドにちょこんと座り、小首を傾げているリコはどうやら、ここ2ヶ月程の記憶がないようだった。それならそれでも構わない。胸の痛みを隠し、ユリアスは決意する。
だったら、もう一度初めからやり直せばいい。
何も教えないまま、初めから。
──今度は絶対に間違えはしない。
そうしてわざわざ隣室から椅子を持ってきたユリアスにガン見されながら、梨子は居心地悪く食事を終えたのだった。
リコは朝起きたら、近くの川まで水を汲みに行く。木でできたバケツみたいなもの(桶?)に、たっぷり入れると重くて運べないので、何度もやってみて半分くらいならこぼさずに最後まで運べる事がわかった。桶に半分の水を二十往復で台所の大きな瓶に七分目。
これで1日分の飲み水や、料理、洗い物に使う水を賄う。
ご恩返しをしなくては、と張り切るリコが無理やりもぎ取った仕事だったが、あえなく3日目で馘になった。
両手で六つもマメができて、しかも潰れるとか、我ながらどんだけやわいんだ、とため息をつく。
結局ユリアスに回復魔法をかけてもらった上、包帯でぐるぐる巻きにされた。
ユリアスさん、ちょっと過保護気味だと思います。
洗濯は川でする。お風呂はなくて、川で水浴び。川が生活に生きてます。
王都に暮らすお貴族様たちはまた違うそうだけど、この辺りではそれが普通らしい。
そう言われれば、今は10月で秋なのに、水浴びでも問題ないくらい暖かい。気候が日本とは違うのかもしれない。
ユリアスはリコに、この国の事を色々教えてくれた。やけに段取りよく教えてくれると思ったら、なんと二回目だった。
フルネーム、特に漢字は絶対教えてはいけない。
魔法を使える人が半数を占めるこの国で、うかつに名前を教えると何に利用されるかわからない。因みにこの国の人たちは皆、親以外誰にも秘密の真名を持っている、らしい。
リコには真名が無く、漢字がそれに当たる可能性が高い。ゆえに漢字禁止。
念のため名字も名乗ってはいけない、のだそうだ。
リコは大学生だった。
週三回のコンビニのバイトでお小遣いを稼ぐ。
実家から大学に通うので、自炊もしたことがない。作れるのは袋ラーメンとカレーくらいで、ここではどうしようもない。
お母さんごめんなさい、とリコは心の中で謝った。ちゃんと習っておけばよかったよ。お母さんの春巻とブリ大根が食べたいです。不肖の娘は材料すらわかりません、ホント申し訳ない。
姉の名前は柚子香。続いて梨子。
一生食べるものに困らないように、と両親が願いを込めてつけた。おかげでこんな異世界でも、美味しい食事を満喫しております。
三番目が女の子なら『苺』とつけられた筈だった。が、しかし男の子だったためあえなくお蔵入り。それを、さっさと嫁にいってさっさと女の子を産んだ姉が流用したわけだ。
あ、弟の名前は普通です。父から一文字取って修一です。弟は名乗るときいつも「美味しそうな名前でなくて残念…」から始めるらしい。これで合コンのツカミはOKなのだとか。
そんなこんなで、チート何それ美味しいの?なリコだったが、不思議なことに言葉には全く不自由しなかった。
そのせいで初めはここが異世界とは気づかなかったくらいだ。
リコがユリアスに、日本語上手ですね的な事をいうと、「今喋ってるのはニホンゴじゃないからね」と念を押された。一度目も同じ流れだったそうだ。
その時のユリアスは、リコが何を主張しているのかさっぱりわからず、お互い「日本語だ」、「違う!」、と争いは過熱し、勉強会は混迷を極めた……と教わった。
改めてリコが意識して喋ってみると、本当に日本語じゃなかった。
訳がわからない。
驚いたことに読み書きにも問題なかった。
アルファベットに近い角張った文字だが、リコには翻訳しているという感覚もなくスラスラと読めるし書ける。果たしてこれがチートなのか?
──と思ったら、逆に日本語が怪しくなっている。
平仮名ならともかく、少し考えないと漢字が出てこなくて愕然とした。
そして、あの日リコが溺れた湖はユリアスの所領なのだった。
ラナリス王国の西の辺境に位置するカーサ村の更に外れ。森の入り口からほど近い処にユリアスは一人で住んでいる。
但し、森には魔法がかけられていて、道を知らない人はユリアスの家まで近づく事もできない。
ここから村を越えて、そのまた向こうにその湖があるのだが、危険な場所なのに、村のワルガキ共は平気で探検に行ったり家出先に選んだりするらしい。放置する訳にもいかず困った村長から相談を受けたユリアスがどうしたかというと、湖全体を薄い結界で覆い侵入者をチェックできるようにした。
そこに引っ掛かったのがリコだった。
きっとワルガキだと思い、軽くお仕置きしてやろうと、あらかじめ固定してある魔法陣で湖に向かったユリアスに、溺れていたリコは助けられた、という訳だ。
ただラッキーとばかりは言っていられない。ユリアスの話では、結界に触れたのは三人らしいのだ。思考している人間だけがカウントされる仕組みなので、(だから動物や鳥、虫などはノーカウント)この時溺れているリコを見棄てて他の人達は逃げてしまった事になる。
リコは犯罪に巻き込まれたのではないかと、ユリアスは考えているらしい。
あの時ユリアスはリコを助けるのに必死で、逃げた人が結界から何人脱出したのかわからなくなっていた。つまり侵入したとき、リコに意識があったのかどうか……。
気を失ったリコを三人で運んできて、湖に放り込んで逃げたのか、或いは自分の足で歩いてきたリコを湖に突き飛ばし、二人で逃げたのか?
どっちにしてもろくでもない。そして困った事に、リコには湖で助けられる直前の記憶がない。
自分の名前はわかる。日本で住んでいた場所や生活、知識。
なのに湖で溺れる前、リコがどこで何をしていたのかがさっぱりわからない。
見知らぬ服を着ていたこと。そしていつの間にか髪が30cm以上も伸びていたこと。
私は異世界で生活していたのだろうか?
言葉や文字を覚えるほど長く?
そもそも、いつ異世界に来たのかすらわからない。
更に、ユリアスに助けられた後、またもや2ヶ月にわたる記憶をなくしている、らしい。
知らない間にアラサーになってました、とかだったらどうしよう、と思うとリコはポンコツすぎる脳みそに泣きそうになった。