お風呂ができるらしい
ユリアスの家は不思議だった。
見た目は山小屋風の二階建て。
そして窓が一つもなかった。
正確には、窓枠はあるのだがガラスが一枚も入っていない。その代わりのように木の板が打ち付けられ、塞がれていた。家中の全ての窓が。
ガラスだけでなく、鏡もなかった。
ガラス製の食器まで。ほんの少しの取りこぼしもないように、執拗なまでに全てのガラスが取り除かれていた。
ユリアスは不思議の理由を教えてくれた。魔法の実験が失敗したのだと。リコにはよく分からなかったが、分散された魔力が家中に散らばり、反射する素材に吸収され破裂した、のだそうだ。
その頃のリコは目の包帯が取れたばかりだったらしい。
物珍しさに家の中を歩き回っていたリコは魔力の暴発に巻き込まれ、昏倒してしまった。
そして丸2日近く眠り続け、目覚めたときには記憶が無くなっていた、というわけだ。
ユリアスに、悲痛な表情で謝られて、かえってリコの方が恐縮してしまった。元々の記憶すら怪しいうえにここまで親身に世話してもらって、今更2ヶ月分の記憶がどうとか言えるわけがない。ましてや記憶喪失と魔力暴発の間に、因果関係があるのかもわからない。何か思うとすれば、ユリアスとのやり取りや何かを忘れてしまったのが少し勿体ないかも、とか思うくらいだ。
玄関を開けたら少し広めの空間があって、二階へ続く階段が見える。一階には台所、食堂と居間、物置、トイレ、食料貯蔵庫などがあり、二階にはユリアスの部屋と他に二部屋があった。その内の一つを、今はリコが使わせてもらっている。
なんだか日本の建て売り住宅の間取りと似ているようで、懐かしい気がした。
リコは小さい頃、チラシに載っている住宅の間取りの、所謂平面図を見るのが好きだった。
2つ年上の柚子香と、どれを自分の部屋にするかでケンカしたり、部屋のどこにベッドを置いて机を置いて、と空想したりしたものだ。
やがて両親は新築で家を建て、子供たちはそれぞれ『自分の部屋』をもらい、リコは中学から大学までその部屋から通った。少なくとも卒業するまでは、そこから通う筈だった。
姉の部屋は、姉がお嫁に行って空っぽになった。リコの部屋も──もう空っぽになってしまうんだろうか。
いやいや、今は考えちゃいけない。
リコは頭を振った。記憶がポロポロ抜け落ちているため、何を優先して考えるべきか、判断がつかない。考え始めたら、不安に押し潰されそうになる。
ユリアスはリコが今までどこで何をしていたのか、調べてくれるといった。だからそれまでは考えない事にするのだ。考えるのは目の前の事だけ。
リコはパシッと音を立てて自分の頬を叩き、気合いを入れた。
リコが最初目覚めた部屋は、実はユリアスの部屋だったらしい。それならあの大きな寝台も納得というものだ。
リコには記憶のない、あのとき。
あの湖で助けられたあと、リコは熱を出した。
鉱山の近くにあるあの湖には、どうやら鉱物に含まれる毒が流れ溶けているらしく、魚も棲まないし鳥も水を飲んだりしない。
溺れて水を飲んだうえに、眼窩に汚れた泥水が入り、それを擦ったために傷口からばい菌や毒素が入って熱が出たのだ。
やがて熱は下がり意識は戻ったが、眼は長い間──傷が治るまで開けることができなかった。
失明してもおかしくなかった、とユリアスは言った。
あの湖で目の前が赤く染まり激しく痛んだとき、確かにリコも駄目かもしれない、と思った気がする。だからユリアスのベッドで目覚めたとき、目が見えることにホッとした。
目が見えず、長い間──2ヶ月近くの日々の殆どを、リコはユリアスのベッドで過ごしたのだそうだ。
部屋が広い方が介護に都合がよかったから、と口にした瞬間ユリアスは『しまった』って顔をした。そして躊躇いながらも、『だから今回倒れた時も、咄嗟に自分の部屋のベッドに運んでしまったのだ』と教えてくれた。
大丈夫です、ユリアスさん。下心があったなんて思ってません。平凡な日本人顔でスッピンの今、街を歩いても声かけられる可能性はゼロです。化粧したくても、道具も鏡もないしね。
それよりもリコ的には、『介護』発言のほうが、気になった。
怖すぎて考えないようにしてきたが、ユリアスはこの家で一人暮らしなのだ。
人間、熱が出たら汗もかく。着替えとか、更には意識がない間の下の世話とか、どう考えてもこの家にはユリアスしかいない。
これはもう居たたまれなさにゴロゴロ転げまわるレベルだ。
詳しいことを追及する勇気のない私を赦してくださいユリアスさん、とリコは心の中で拝んだ。
さて、リコの今日のミッションは、お昼ご飯を作ることである。妙齢の女性としてあるまじきことに、普段の食事は全てユリアスにお任せ(哀しい事に料理のスキルがないのだ)してしまっているリコだが、お昼ご飯くらいなら作れるんじゃないか、とうっかり思ってしまった。
魔がさした、ともいう。
2時間前の自分、いったい何を考えていたんだ?
はにかむ笑顔で、楽しみにしてる、といってくださったユリアスさん。ごめんなさい、死にはしないと思います、多分。
だって材料は食べられるものばかりですから。
ユリアスは今日はとても忙しい。
それも言い出しっぺはリコだ。
現代日本人女性のリコにとって、川で身体を洗う、というのは思った以上にメンタルを削られることだった。それはもうガリガリと。
以前のリコはどうしていたのかというと、部屋にお湯を運んで身体を拭いていたらしい。誰が…って、自分でやっていたと信じたいです。
目が見えない状態で、川に一人で行かせる訳にも、自分がついていくわけにもいかなかった、とユリアスさんはおっしゃった。当然です。ナイス判断万歳。
そして元気になり、一人で川風呂を数回こなしたリコは心が折れかけていた。
温泉とまではいわない。熱いお湯に浸かりたい。石鹸をブクブクと泡立てたい。
日本人の心の叫びだ。
日本にいた頃、リコはどちらかというとシャワー派だった。
でもそれは、浸かろうと思えばいつでも浸かれるという心の余裕だったらしい。
一度熱いお風呂に首まで浸かりたい、と思ったらもうダメだった。
ユリアスはリコの日本の話を、とても興味深く聞いてくれる。
前はそんな話はしなかったのかな?警戒していたのだろうか?
異世界トリップなんて、信じてもらえただけでもラッキーな気もする。
そんな流れで、日本とこちらの世界の違いを語り合ったりした。リコにとっては勉強でもある。
そして話題がお風呂に及んだとき、リコのお風呂に対する、ほとばしる愛情と溢れるパッションが炸裂した。あとから思い返せば、自分でもドン引きするほどに。
けれど驚いた事に、ユリアスは喰いついてくれたのだった。
そう、今ユリアスはリコのためにお風呂を作っているのである。
浴槽は王都から取り寄せる事にした。少し日数がかかったが、自分で作るよりも王都の小洒落たデザインの物の方がリコが喜ぶ、とユリアスは思った。
場所は、普段いらない物を突っ込んでいるだけの物置を使えばいい。
物置の中身を、食料貯蔵庫の隅に移し、剥き出しの板張りだった壁や天井に可愛いイメージの内装を施した。床には森の奥の山裾から切り出してきた石を平たく加工して敷き詰める。リコのいうお風呂は浴槽の外で体を洗うタイプらしいので、床の石材に排水用の細いあなを開けた。
防水の処理をしないと、蒸気で床が腐ったり壁に黴が生えたりするのだとリコは言ったが、正直この世界にリコのいうような、優れた防水の技術は存在しない。水気を蒸発させる魔法陣を刻んで、使用するたびに発動するように条件をつけた。
面倒な作業だったが、お風呂を作る、といったときの嬉しそうなリコの顔を思い出すと、俄然やる気が湧いてくる。
ふと記憶を失う前のリコを思いだし、彼女もお風呂に入りたかったのだろうかと思うと、少し胸が痛んだ。
同じ人物のはずなのに不思議な気持ちだ。
物置改め浴室に浴槽を据え付けると、ユリアスは穴の空いた長い筒状のものを大量に用意して繋げ始めた。
お風呂を作るに当たって、一番ユリアスを悩ませたのは水だった。
貴族の邸では、主人たちが使う風呂の湯は厨房、或いはそれ専用のかまどで沸かし、使用人達が運んでくる。冷めてしまうと意味がないので、熱湯を運び、風呂に入る時に水で丁度いい温度にするのが普通だ。使用人達は汗だくになる。
ユリアスは魔法で水を温める事ができるので熱湯を運ぶ必要はないが、実は水魔法が苦手だ。
できないことはないが調節が難しい。
浴槽にだけ溜めるつもりが、うっかり加減を間違って家が潰れるほどのどしゃ降りになるのは困る。
川から水を汲んでくればいいのだが、ユリアスがそれをするとリコは気を使ってお風呂に入らなくなるかもしれない。それでは意味がない。
かといってリコに運ばせるわけにはいかない。
朝の水汲みで、リコの手にできたマメをみて愕然とした。今更のように、リコの手の柔らかさに。
ユリアスが繋げている筒状のものは、貴族の邸などで使われている、厨房の煙を外へ出すためのもので、本来の用途とは違うがユリアスには問題ない。繋ぎ目を魔法で補強し、どんどん繋げていく。移動しながら繋げ、とうとう川にたどり着いた。魔法で土に埋め込み、圧力で壊れないよう更に魔法をかける。
魔力の大盤振る舞いである。
川の方には、水を吸い込む魔法陣を刻み、浴室側には蓋をつけて、必要な時だけ水を出せるようにした。
川の吸い込み口には忘れずに魔法で編んだ網をはり、虫や魚、ゴミ等が侵入しないようにする。
この面倒で楽しい作業が一段落して、ユリアスは漸く辺りを見回した。
リコはどうしたんだろう?
リコがお昼ご飯を作ってくれるというので、ユリアスは実はかなり楽しみにしていた。
料理が苦手だろうというのは普段の態度でバレバレだったので、余計に嬉しかった。
別に焦げてようが生だろうが、なんだっていいんだけど…。
何げに失礼な事を思いながら、今度はだんだんと不安が頭をもたげてくる。
作業に夢中になっているうちに、お昼を随分と過ぎてしまっていた。
「リコ?」
ユリアスが台所をそっと覗いてみると、調理台の上に大皿に積み上げた何かが、でーんと鎮座していた。
一応お昼ご飯は出来上がったらしい。
リコはというと、かまどの前で膝を抱えてうずくまっていた。
ユリアスは慌てて近づいた。
「リコ、大丈夫!?具合悪いの?なんですぐ呼ばないの」
跪いて、俯く顔を覗きこみ、背中と膝裏に手を差し込んで抱えあげようとした。
途端にリコが、うひょあー、と奇妙な声をあげ暴れる。
「リコ、大丈夫なの?」そっと床におろすと、一瞬で距離をとられた。
地味に傷ついた。
リコはというと、真っ赤な顔で視線を泳がせている。
「ダカラガイジンキョリヤバインダッテ…」
早口で何か呟いたが聞き取れなかった。ニホンゴってやつだろうか。
「リコ、ごめん、わからない。具合悪いならそう言って」
もう一度顔を覗き込もうとすると、
「いやいや、大丈夫です。ノープロブレムですよ、ユリアスさん」
リコが急いで立ち上がった。ノプレ?またよくわからない単語が混じっていたけど、リコが元気ならいい。
「なんというか、自分のあり得なさがショックで……その、お昼ご飯は一応できたんですけど、失敗したというか。食べれないことはないとおもうんですけど」
ため息まじりの上目遣いで見上げてくるリコ。
──何これ、僕をどうしたいの?
少し開いた唇から目が離せない。
でも、このリコはあのリコじゃない。やり直す、と決めたのは僕だ。
ユリアスは、リコの手を取り両手でそっと包み込んだ。
せめて、これくらいは許してほしい。
「リコ、早く食べよう。もうお腹ペコペコできっとリコが呆れるくらい食べると思うよ」
ユリアスが冗談めかしていうと、やっと彼女は笑ってくれたのだった。




