3 忍び寄る影*
「お嬢様、そろそろ着きますよ!」
メイシーに肩を揺すられて、私はハッと我に返った。
「い、いやーね。寝てないわよ」
馬車の不規則な振動が気持ちよかったのは認めるけど。
はいはい、とメイシーはハンカチを取り出した。
「辛うじて鼾はかいてなかったですが、涎たれてますよ」
おおう、私のなんちゃってお嬢様のプライドが……。
メイシーに口元を拭ってもらい、チャチャっと化粧を直す頃にはもうローズウェイ公爵家の敷地に入っていた。
馭者も馴れたもので、玄関脇の車寄せにスッと馬車を停める。
すぐに連絡がいったのか、ローズウェイ公爵夫人とレイズ侯爵夫人が姿を現した。
「マリー様、本日はお招きありがとうございます。リーリア様もご無沙汰致しております」
マリー様はローズウェイ公爵夫人、リーリア様はレイズ侯爵夫人──つまりユリアス様のお母様だ。
あれから練習しまくった得意のカーテシーでご挨拶すると、庭の方へ招かれた。今日は庭でお茶するのかな?
メイシーは馬車と一緒に帰ってもらうことにした。夕方は馬車だけ迎えに来てくれたらいいから、数時間だけでものんびりして貰おう。
広大な庭園の一角にある薔薇園にはお茶の準備がされている。もう席は埋まっていてどうやら私が最後だ。
「メアリー様、キャロライン様。お待たせ致しまして申し訳ありません」
メアリー様はマリー様の娘で、噂のアッシュグレイ様の下の妹君にあたる。先日ナハト公爵家にお嫁入りされたところだ。
キャロライン様は伯爵家のご出身で、近々マリー様のご実家であるサンジェルマン侯爵家に嫁がれる事が決まっている。
これがいわゆる、身内だけのお茶会のメンバー、ということだ。
公爵家の料理人が作ったお菓子をいただきながら、そういえばと王宮で流行りのお菓子の話題になり、最新のドレスの形からキャロライン様のお嫁入りの衣装の形へ、更に親しい人々の噂話と、とりとめもなく続く。
けれど、こういった集まりのときにはユリアス様の名は決してでない。
空気が重くなるのがわかっているからだ。
私たちの結婚の話が進まないのは、世間的にはユリアス様がお忙しいからだということになっている。
だけど本当のところは私のせいであり、アマンダとエミリアのせいだ、と私は思っているのだ。
私のことは私とユリアス様しか知らないから、お父様は何故侯爵家側から話が進まないのか、恐らくご存知ない。けれど、お父様の方から話を進めようにも、アマンダとエミリアの二人が横やりを入れてくるんである。お父様は昔からあの二人に甘いからね。
でも、侯爵夫人はそうは思っていらっしゃらない。私とユリアス様との間の経緯を知らない夫人は、全て自分の息子が不甲斐ないせいだと仰る。
ようするに、こんな私などが出席するのもおこがましいような席へ私を呼んでくださるのは、リーリア様とマリー様のご厚意に他ならないわけで──。
お身内だけが集まる席へ私を呼んでくださる事で、私の立場を、私が決して忘れ去られているわけではないことを、世間に知らしめて下さっているのだ。
あの時、偶然とはいえ私が手酷くユリアス様を傷つけてしまったあの日、私は初めこそ怯え早く謝らなくては、と必死だった。
けれどお父様にお願いして席を設けようとしても、どうしてもお会いする事ができなかった。ユリアス様はお忙しいのだ、とお父様は仰った。
まだ社交界デビューもしていなかった私には夜会に出席する術もない。
私とユリアス様の間にあるわだかまりを誰に相談することもできず、月日はどんどん流れ、私は社交界にデビューした。六年が過ぎていた。
夜会に参加するようになった私は、たまにユリアス様をお見かけすることもあった。
夜会に出席するなら本当はユリアス様にパートナーをお願いすべきなのだけれど、でもその頃の私は長年の空白で、もうユリアス様にお会いするのが怖くなってしまっていた。婚約を解消しよう、と 引導を渡されるのが怖かった。
パートナーは従兄にお願いし、私はユリアス様を避けて避けて、避けまくって気が付けばユリアス様は全く夜会に参加されなくなっていた。
学校を卒業されたあとは、魔法使いの専門機関として名高い『塔』に所属され、瞬く間に『筆頭』の称号を手に入れられたユリアス様。今は王太子殿下の命により王都を離れ、特別任務に携わっておられるという。
これらは全て噂で聞いた話だ。
今の私は婚約を解消されても仕方ないと思ってはいる。
身分差があり、うちから申し出る事はできないけど。
でもリーリア様の態度を見ている限り、ユリアス様の方からの婚約破棄は無いようにも思う。
ユリアス様は何を考えていらっしゃるのか。
どうすればいいのかわからないまま、ズルズルと月日だけが過ぎる。
お茶会は薔薇園の散策に変わっていた。
ローズウェイの名に相応しい、多種多様色とりどりの薔薇が咲き乱れている。
「今、品種改良を進めている薔薇があるのよ」
マリー様が仰った。
「咲けばきっと可憐で愛らしい花になると思うの。でもなかなか上手くいかないのよ」
眉尻を下げられるマリー様を、私たちは口々に励ました。
何事も根気が大切ですわ、完成したら是非見せてくださいませ、と。
完成する頃も、私は果たしてこのお屋敷に呼んでいただけているのだろうか。
見えない未来にため息が零れるばかりだった。
お茶会は、風が肌寒くなってきた辺りでお開きになった。
早めに着いていた迎えの馬車に乗り込み、十分な距離を離れてから、私は靴を脱ぎ捨て横向きになって両足を座面に乗せた。
メイシーの視線がつき刺さる。
「いやもう勘弁して──。お上品ぶりっこは3時間が限度だわ。だいたい何でメイシーがここにいるのよ?迎えに来なくていいっていったでしょ」
「こんなお嬢様を野放しにしておいたら、どんな失態をされるか怖くて目が離せません」
うーん、返す言葉もない。
行きに散々昼寝した私は眠くなるわけもなく、帰りの道中はお茶会で仕入れた話題を肴に女子トークで盛り上がった。
内容はおおかたアッシュグレイ様とか、今日食べたお菓子とかアッシュグレイ様とかだった。
いやいや、マリー様かっ飛ばしていらっしゃったから。
自慢の息子なのはよくわかっておりますデス。
そんな時だった、急にガタンと馬車が揺れたのは。
「何?どうしたの?」
次の瞬間、馬車の前方の壁がドンドンとすごい勢いで叩かれ、弾けるようにスピードを上げた。
「うわっ」
座面から転がり落ちた私を支えようと、メイシーも落ちた。
メイシーの悲鳴は私と違い、可愛らしかったことをお伝えしておきます。
ともあれ私とメイシーは床に這いつくばって、真っ青になっていた。
壁が二回叩かれるのは、緊急事態の合図だ。盗賊か狼の群れか、帰り道にそんな物騒な連中が出そうなルートはあっただろうか。
私とメイシーは手を取り合って、と言いたいけどそんな余裕はなかった。少しでも出っ張ったところを必死で掴んで身体を支えた。
ガギャギャギャと車輪が軋んだ音を立て、私たちの身体も前後左右に揺さぶられる。
馬のいななき。
何かざわめいた轟音が近づいてくる。
突然ガキッと金属音が混じった。
私はもう涙目だ。
どうする?どうしよう?
更に数回の金属音、恐らく剣を交える音が響き、ユルユルと馬車が止まった。
何がどうなった?外にいるのは敵?味方?
私は今度こそメイシーと手を取り合い、沈黙を守る扉を見つめた。
「お嬢様、申し訳ありません!大丈夫ですか?」
ノックと共に聞こえたのは、馭者のヨハンの声だった。
「……ヨハン!?大丈夫なの?何があったの?」
ヨハンのホッとしたようなため息。
「お嬢様、ここを開けてよろしいですか?」
「ちょ、ちょっと待って頂戴」
私とメイシーは慌ててめくれあがったドレスの裾を直し、乱れた髪を撫で付けた。
「いいわよ、ヨハン」
声をかけると、扉がゆっくり開く。
扉を開けたのはヨハンではなかった。
銀の糸に金粉をまぶしたような、短めのプラチナブロンド。
端整な顔には僅かな憂いを浮かべている。
ああ、ついさっきもこんな色の髪を見たばっかりだわ。リーリア様とユリアス様、そしてローズウェイ公爵様とアッシュグレイ様は皆、とてもよく似た髪色をされているのだ。
「失礼、お嬢さん方。お怪我はありませんでしたか?」
そう、そこにいたのはアッシュグレイ様だった。
私とメイシーは慌てて馬車を降りた。
しまった……、裸足だったわ──。
私の足元を見たメイシーの唇が、ほらいわんこっちゃない、とばかりに歪む。
幸いアッシュグレイ様はそんな些事には言及されなかった。
私たちが怪我はないことを伝え感謝の言葉を述べると、アッシュグレイ様は『それはよかった』と輝くような笑顔を浮かべられた。
ああ、眩しい。汚れない笑顔ってこんなの?なんか自分が卑少でどうしようもない人間のような気がするよ。
顔立ちはユリアス様とそっくりだけど、でもユリアス様はきっとこんな屈託ない笑い方はしない。
ユリアス様ならもっとこう、しっとり微笑む感じの?
うっかりユリアス様の事を考えていたら、口元がニンマリしていた。
笑わば笑え。初めてお会いしたあの7歳の時から、後悔しかないあの時を経て後の今までも、私はずっとユリアス様に焦がれているのだ。
私がぼんやりしてたら、いつの間にか話が進んでいたようだった。
「ランバートン男爵家の?ではフェリシア姫?」
姫はやーめーてー!
「母から、蜂蜜を溶かしたような見事な金髪と伺っていますよ。なるほど、噂以上ですな」
いやー、今クチャクチャだからお恥ずかしいデス。
「そういえば、今日は茶会だといっていたな。もしやうちからの帰りにこのような目に?なんと申し訳ない」
いえいえ、マリー様のせいではないし、ましてやアッシュグレイ様のせいとか全くないですから!
「物盗りだとは思うのだが、それにしては何故このような場所で襲ってきたのか」
ですよねー。この辺そんなに治安悪くないですもんねー。
「四~五人に手傷を負わせた自信はあるのですが、あいにくこちらが単身でしたので追うこともままならず、取り逃がしてしまい申し訳ない」
飛んでもない!命を救って頂いただけで熱烈感謝感激雨霰ですわよ。
ニコニコと頷いていた私に、アッシュグレイ様は感じいったように、フェリシア姫はとても奥ゆかしい方なのですね、と微笑んだ。
横でブフンと変な音がした。
後で覚えていらっしゃい、メイシー。
アッシュグレイ様が送って下さると仰る。
申し訳ないとお断りしたのだけど、このままお帰ししたのでは母に怒られてしまうし自分も気になる、と言われればそれもそうかとお言葉に甘える事にした。
そんな訳で、今馬車の中には私とメイシー。
アッシュグレイ様は馬で外を並走して下さっている。
「さあ、メイシーちゃん」
「お嬢様怖いです」
「外に、あの、アッシュグレイ様がいらっしゃるわよ」
「ソウデスネ……」
「ほら、さっきまで楽しく噂話をしてたじゃない」
「吹き出したのは不可抗力ですぅ、もう赦してくださーい」
「人聞きが悪いわね、私が何か怒ってるみたいじゃない。私はただせっかく御本人がいらっしゃるんだからメイシーちゃんの熱い胸のうちを打ち明けて握手の一つもしていただければ一生の記念になるんじゃないかと……」
「一息で言いやがりましたね」
……メイシーの目が据わってきたので、そろそろ赦してあげようと思う。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
【馬車の中で女子トーク……の一部】
「それマジですか?ホントですか?嘘だったら怒りますよ?」
「マジマジ。母親のマリー様が言ってたんだもん」
「何それ、可愛い?可愛いですよね?嫌──っ!」
「メイシーちゃん、メイシーちゃん落ち着いて。ちっちゃい頃の話だよ?そして『可愛い』の定義見失ってる?」
「いやでもこんなレアな話、私誰にも言わず墓まで持っていきます!」
「……きっとマリー様はもう色んな人に話してると思うの」
メイシーちゃんは隠れ「アッシュ」ファン