第1話 プロローグ【悪戯波と、釣り人の最期】(1)
海というものは、時々、とんでもない顔をする。
昨日まで穏やかだった海が、次の日には牙を剥く。小魚を追っていた青物が突然ナブラを作り、何もなかった海面に鳥が集まり、潮の色がわずかに変わる。
だから俺は、海が好きだった。
怖いからこそ、面白い。
そして今日も俺、藤原新作は、海の上に突き出したテトラポッドの上で、愛用のリール竿を握りしめていた。
「……頼むから、一匹くらい釣れてくれよ」
時刻は午前六時二十分。
空は薄い雲に覆われているが、雨が降る様子はない。
潮風は少し強いものの、釣りができないほどではなかった。
俺はルアーを遠投し、着水した位置を確認する。
着水──
俺は直ぐに糸ふけを取る。
リールをリズムよく巻きながら、ルアーに小魚の動きを演じさせる。
《コンッ》
「おっ?」
小さな当たり。
反射的に竿先を立てたが、魚の重みは伝わってこない。
「なんだよ、今の……。ショートバイトか?」
俺はルアーを回収して確認する。
傷はない。
針も曲がっていない。
ならば、次は巻き速度を変えてみるか。
釣りというのは、案外、人の人生に似ている。
同じことを繰り返しても、同じ結果が返ってくるとは限らない。
だから、少しずつ条件を変えて、答えを探していく。
俺は新しいルアーをケースから取り出した。
青銀のミノー。
光の反射で小魚の鱗を再現した、俺のお気に入りだ。
「よし! 次はお前で勝負だ!」
俺は今度こそ、シーバスをゲットするぞ! 竿を振る!
ルアーが空を切り、海へと飛んでいく。
その瞬間だった。
――妙だ。
着水したルアーが、いつまで経っても見えない。
いや、正確には、見えるはずのものが見えなかった。
普段なら、波の間に白い泡が浮かぶ。ルアーが沈んだ場所には、着水の名残が残る。
しかし、今の海面は違った。
不自然なほど、静かだった。
「……なんだ?」
風が止まっていた。
先ほどまで頬を撫でていた潮風が、ぴたりと消えている。
海鳥の声もない。
波の音さえ、遠ざかっていく。
俺は竿を持ったまま、沖を見た。
水平線の向こう側……。
そこに、黒い壁があった。
最初は雲だと思った。
だが、違う。
黒い壁は、空に向かって伸びているのではない。
海面そのものが、立ち上がっていた。
「……は?」
理解が追いつかなかった。
巨大な水の壁……。
その高さは、遠近感が狂ってしまうほどだった。
海が、こちらへ向かって迫ってくる。
津波!?
頭の中に、その言葉が浮かんだ瞬間──俺は竿を投げ捨てていた。




