九話 日野咲子
職員室に入室し、ノア姉のデスクに近づく。
資料をホッチキス止めしていたコバちゃんが、ノア姉の手に軽く触れた。
「姉さんに用事みたいですよ」
ノア姉はノートパソコンから顔を上げ、あたしと吉村くんが胸から下げる名札を確認した。
「あ、さっきぃとヨッシーだ。どうしたの?」
あたしはちょっと緊張していた。
「実は、ノア姉に貸してもらいたいものがあるんです」
「貸してもらいたいもの?」
あたしは唾を飲み、それを告げる。
ノア姉はしばらく黙り込み、やがてふっと笑みを漏らす。それはとても穏やかな表情だった。
「うん、全然いいよ」
彼女はノートパソコンを畳んで立ち上がり、プリンターの前で作業するコバちゃんに声をかけた。
「コバちゃん。わたし、しばらく応接室で仕事するね」
「応接室? なんでですか。来週の教育委員会への説明会準備、今のうちに進めないとじゃないですか」
「ごめんだけど、コバちゃんの方で先に進めといてくれる? あ、集中したいから応接室には入ってこないでね。分からないことがあったらパソコンの方にメールしてくれればいいから」
「えー、何なんですか? このくそ忙しいときに……」
ぶつくさ文句を垂れる彼女を尻目に、ノア姉はノートパソコンを脇に持って職員室を出ていく。その後を追ってあたしたちも廊下に出る。そこでノア姉は、お願いしたそれをあたしに手渡してくれた。
「これから、ジュンちゃんとお話しするんだよね」
あたしと吉村くんは顔を見合わせる。やはり、彼女は何か察しているようだった。
「彼、今はアトリエにいるはずだから。お話が終わったら応接室にも来てくれるかな。それを返してもらうついでに、わたしも二人とお話ししたいな」
「すみません、お忙しいときに」
吉村くんが申し訳なさそうに言う。いいのよ、とノア姉は微笑み、大きなお腹に手を添えながら廊下の先を歩いていった。
アトリエの扉を叩くと、ジュン兄の声でどうぞーと返ってくる。ノア姉の言うとおり彼はそこにいるようだった。
扉を開けると、アトリエ内は廊下側とは明らかに異なる空気で満ちていた。乾燥したヒノキや杉の削り節と、木工用油の甘く重い香り。窓から差し込む午後の光の中に、細かな木粉がちらちらと舞っている。
アトリエ内は元教室ということもあってそれなりの広さはあるようだが、壁際の棚とそこに陳列された木工作品の数々、床に雑然と並べられた大小様々な木彫りの像たちで、非常に狭苦しい空間に感じた。
部屋の中央、使い込まれた松の作業台の前で、ジュン兄は丸椅子に座りノミと金槌を手にしていた。作業台の上には作りかけの木彫りの像が置かれている。木材から顔だけを出したような齧歯類の小動物らしき像だ。
「やあ、さっきぃとヨッシーか。こんなところに来るなんて珍しいじゃないの。まさか、木工に興味出てきた?」
自分の趣味に興味を持ってくれるのがよほど嬉しいのか、ジュン兄は道具を置いて立ち上がり、「とりあえず俺の作品見ていく? 最近の自信作はね……」と室内を巡っていこうとする。
「いえ、木工作品にも興味はあるのですが、今はジュン兄とお話ししたくてやってきたんです」
吉村くんは笑顔をキープし、はしゃぐジュン兄を引き止めた。
「あぁそうなの? でも俺、今は何も面白いネタ持ってないけど……あ、このあいだユカコ姉を爆笑させた話をしてあげようか。すべらない話。まぁ、とりあえず座ろっか」
ジュン兄は、これまた手作りらしい丸椅子を二脚出してくれる。見た目は小ぶりで頼りなさそうだけど、腰掛けてみると驚くほど安定している。ただ、子ども用なのだろうか、あたしたちには微妙に高さが足りない。
正面に座るあたしたちを嬉々として見回し、勝手にすべらない話をはじめるジュン兄に、あぁ、この人は本当に人が好きなんだな、と思った。子どもだけじゃなく、人と関わることが好きなのだなと。
自分の話をしながらあたしたちを見つめる彼の目には、そこはかとない興味と好奇心が現れている。しかもそれは、あたしたちを芯から知ろうとする観察の目とも取れる視線だった。
ジュン兄のすべらない話に、吉村くんは手を叩いて笑っている。植林か何かのために山の中に穴を掘ったのをすっかり忘れて、後日自分で穴にハマって動けなくなった、みたいな話だった気がするけど、あたしの頭には全然入ってこなかった。
「そんな大ドジなジュン兄にお聞きしたいことがあって」
吉村くんは大笑いしたあとの涙を拭いながら切り出した。
「いやいや、いつもこんなドジやってるわけじゃないよ? 月一くらいだから、月一」
「だいぶやってるじゃないですか」
吉村くんはスマホを操作する。
「実は、この前のジュン兄とのツーショット写真、連写で撮ってしまっていたようで、一枚しか消せていなかったんです。まだ何枚か保存されたままだったんですよ」
ジュン兄は笑顔のまま「そっか、仕方ないね」と言う。
「その写真を眺めていると、何か見覚えがあるなと思ったんです。実は僕、不可解な事件マニアでして、その関係で警察や民間が運営する行方不明者サイトなんかを見て回ったりするんです。その行方不明者リストの中に、ジュン兄とよく似た人物を見つけました」
ジュン兄は笑顔を崩さず、吉村くんを見つめている。
「ちなみに、梶原守っていう写真家をご存知ですか? 雑誌に顔を出していたり、たまにテレビなんかにも出ている方なんですけど」
「うん、知ってる。というか、会ったこともあるよ。かざみの里に一度取材に来てた。中々イケオジだよね」
さすがの吉村くんも意外そうな顔をする。話が逸れると思ったのか、「そうですか」とだけコメントする。
「梶原さんと僕、ひょんなことからお友達になったんですよ。それで梶原さんに、勝手ながらジュン兄の顔写真を加工していただきました」
吉村くんが見せたのは一枚のコピー用紙。梶原守から送られてきた加工写真を印刷したものである。
そこには、帽子と眼鏡と髭を取り払ったジュン兄のイメージ写真が写し出されていた。三十手前にしては若干老けている印象だった彼も、こうして眼鏡や髭を取り払えば年相応の若々しい印象だった。
コピー用紙の横に、スマホに表示しておいた画像を並べる。
その画像は、とある行方不明者の顔写真である。証明写真風の無機質な画ではあるが、むしろ目鼻立ちの特徴がよく分かる写真だった。
「後藤仁、という方ですね。およそ三年前、奥さんの芽愛さんと共に謎の失踪を遂げた人物です。どうでしょう、すごく似ていると思いませんか?」
「ああ、本当だ」
ジュン兄はあご髭を撫でながらコピー用紙とスマホの画像を見比べる。
「そっくりだね。というか瓜二つ。こんなことってあるんだ。ドッペルゲンガーかな?」
食えない反応だなぁと思う。吉村くんはにこりと頷き、スマホとコピー用紙を下げた。
「僕が不可解な事件好きというのはさっきも言いましたが、この後藤仁・芽愛さん失踪事件、僕はある記事の一言に目をつけました」
メディアは現場に残された芽愛さんと一致するDNA型の血痕について、彼女に一卵性双生児の妹がいることから、血痕の由来が必ずしも芽愛さんのものとは限らないことを報じた。また、週刊誌やネットでは双子の入れ替わり説を論じる声まである。
けど、吉村くんが着目したのはそこじゃない。
「ある週刊誌に書かれていた、失踪前の後藤仁さんの一言が気になったんです。『妻とそっくりな何者かが、妻のフリをしているかもしれない』と。これを額面通りに受け取れば、確かに週刊誌やネットが噂する双子の入れ替わりを匂わせるような発言です。だけど、こういう見方も出来るんじゃないでしょうか」
吉村くんは瞳の温度をすっと下げる。
「芽愛さんやその妹さん側に異変が起きたのではない。仁さん本人に、何かしらの妄想性疾患があったのではないかと。つまり、芽愛さんは何者にも入れ替わっていない。仁さんの目にも彼女が芽愛さんにそっくりであると認めながら、仁さんの心が彼女を芽愛さん本人であると認められない。そういう可能性です。この症状によく似た疾患を僕は知っています」
ジュン兄はやはり笑みを崩さない。
「カプグラ症候群。統合失調症や頭部外傷などに伴って現れることのある、妄想性人物誤認の一種です。身近な人を見て、『その人とそっくりな偽物に入れ替わってしまった』と信じ込んでしまうのです。目の前にいる人物の見た目は本人であると認識できるのに、本人に抱いていたはずの情念や愛情が目の前の人物に結びつかない。しかしここで大事なのは、本人を見分けられないことと、その人への愛情が消えることは必ずしも同義ではないということです。もちろん、これは僕の勝手な憶測です。カプグラ症候群はまだ分かっていないことが多いので、確かなことは言えないのですが」
そして吉村くんはあたしの肩を叩く。
「そこで、ジュン兄のとある動きが気になると彼女が言うんです。僕は推理するのは得意なのですが、直接的に本人に繋がる手がかりを掴んでくるのって、いっつも咲子さんなんですよね」
彼は心底残念そうに言う。
あたしはポケットに入れていたものを取り出した。
あたしの手に乗っているのは、先ほどノア姉から借りたホイッスル。ジュン兄が彼女あてにプレゼントしたものだ。
「これ、さっきノア姉からお借りしてきました。以前プレゼントしたホイッスルをノア姉が失くしたから、またジュン兄が作り直してプレゼントしてあげた。そう話してましたね」
ホイッスルの筒には見事な意匠が込められていた。山風を思わせる曲線に乗せられて、風に舞う葉っぱが描かれている。そして、その風の線が交差する場所に二つの文字が紛れ込んでいた。『S』と『N』、に見える。
「あたし、左利きなんですよね」
かざみの里で作るホイッスルは少しでも特別感を出すため、右利きと左利きごとに親指をかける『指がかり』を掘り分ける。左利きの場合、正面の歌口から見て右側、持ち手側から見て左側に指がかりを掘ることになるのだ。
あたしはノア姉のホイッスルを握ってみせる。指がかりは、あたしが親指をかけようとした場所とは反対側に掘られていた。
「このホイッスル、右利き用に作られてますね」
リューくんとクロトくんのかけっこ対決の際、ノア姉は不思議そうに自分の左手とホイッスルを眺めていた。
「わたしは左利きなのに、ジュンちゃんはどうして右利き用のホイッスルをくれたんだろう。そうノア姉は思ったんでしょうね」
そこであたしは、芽愛さんのYouTubeチャンネル『meaのおうち』を思い出した。
芽愛さんの、鶏と野菜の黒酢あんかけの調理シーン。食材を押さえる手にプラチナの結婚指輪が光っていて、最初はそこにしか目がいかなかった。だけど、後で動画を見返して気づいた。
芽愛さんは結婚指輪を嵌めた『左手』で食材を押さえていた。つまり、包丁を握っているのは『右手』。そのあとの食事シーンでも、彼女は『右手』でスプーンを扱っている。
この期に及んであたしが言い淀んでいると、見かねた吉村くんが助け舟を出した。
「ミラーツイン。鏡像双生児とも言いますね。一方が左利きで一方が右利きというような、まるで鏡写しのような身体的特徴を持つ一卵性双生児がいる。そうだよね、咲子さん?」
あたしは頷く。
「ジュン兄が、ノア姉が左利きなのを知らなかったとは思えない。一体誰と勘違いして作ったんだろうって、あたしは思った。……それから、そういう疑問ってそれだけじゃなくて」
あたしは、もう一つの気になっていた出来事を話す。
真由がほぼ独断でノア姉をうちらのコテージに呼び寄せ、お泊まり女子会をやろうと言い出した夜だ。
一通りお喋りを済ませてから寝る準備を済ませ、そろそろ寝ようかというとき。コテージの扉が突然叩かれた。
「こうして、コンコンコン、って」
あのときは確か、ノア姉が扉を開けたはずだ。そこには、自分でノックしたのに驚いた表情をしたジュン兄がいたのだ。
「あの特徴的な、扉を叩く三回のノック。それも、芽愛さんの動画に登場していました」
動画のラストシーンだ。芽愛さんは寝るために寝室の照明を落とし、室内を暗くした。そこで、玄関のドアを開けるような物音と、扉の下から覗く外側の灯り。『あ、旦那さん帰ってきた』というテロップ。
直後に聞こえてきたのは、寝室の扉を三回ノックする音。そこで表示されたテロップ文言は、『この音が幸せなの』、『おやすみなさい』。芽愛さんがノックに応答し、寝室の扉を開ける様子はなかった。
「多分あの三回ノックは、『おやすみなさい』の意味なんだと思いました。あのノックのやり方だけで夫婦間では意味が通じ、それだけで完結する。だから芽愛さんは、ノックに反応してわざわざベッドを立ち、扉を開ける必要もなかった。なんでこういう合図になるんだろうって、吉村くんと話し合ったんですよね」
あたしが横目に見ると、吉村くんは補足するよう語った。
「咲子さんの家は一軒家で、そういう間取りじゃないから分かりづらかったみたいですね。でも僕はマンション暮らしなので、同じくマンション住みの仁さんと芽愛さんがどうしてそういう合図をするようになったのか、なんとなく想像がつきます」
彼は身振りを交えて説明していく。
「量産型の3LDKのマンションにはありがちな間取りなのですが、玄関のそばって、寝室を想定した部屋があてがわれていることが多いんですよね。そして、今どきのマンションの玄関内には大抵、人感センサーが設置されている。芽愛さんの就寝時間と同タイミング頃に帰宅する仁さんは、芽愛さんにおやすみを言いたいけれど、人感センサーで灯ってしまった照明で、せっかく寝ようとしていた芽愛さんに眩しい思いをさせたくない。だったら、『おやすみ』なんかわざわざ言い合わず静かに寝させてあげればいいじゃないかって思うけど、そこは新婚夫婦なんでしょうね。眠りを妨げない程度の控えめな、かつ愛情のこもった合図を二人で考えたのでしょう」
ジュン兄はうんうんと頷きながら、何か噛みしめるようにその話を聞いていた。
あたしも深く頷き、口を開く。
「あの三回ノックがもし『おやすみなさい』の意味だったとしたら、ノア姉には伝わっていませんでした。ノア姉、普通にコテージの扉を開けて対応しようとしてましたからね。だってあのお泊まり女子会は、真由の思いつきのイレギュラーだった。ノア姉は普段、いつもジュン兄と一緒の部屋で寝ていたから、きっとあのノックの意味を知らなかったんです。ジュン兄だっていつもしている行動じゃないだろうし、普段は思い出しもしなかったのかもしれない。だけどあのイレギュラーのせいで……昔の癖がつい出ちゃったんじゃないか、って」
そうしてあたしは、ジュン兄の優しい笑みを見つめ返した。
「もしかしてジュン兄は、ノア姉に誰かを重ねて見ているのかなって、そう思ったんです」
ジュン兄はしばらくの沈黙のあと、やはり子どもに向けるような優しげな口調で「そっか」と呟いた。
続けて口を開いたのは吉村くん。
「ジュン兄が正規職員でないこと、ずっと引っかかっていました。だけど、まぁそういう働き方もあるかって、納得することもできたんです。特にこのかざみの里では、人それぞれの多様な生き方を推進する側面もありますし」
彼は淀みなく話していく。
「ジュン兄の生活は、いかにも人里を離れた牧歌的な暮らしのように見えます。役所や銀行、教育委員会や保護者への対応も、外部へのやりとりは全て施設長のノア姉が行っているのでしょう。ジュン兄はそういうのが苦手だからと。だけど見方を変えればジュン兄は、社会から身を隠して暮らしているように見えなくもない。つまり僕は、やっぱりジュン兄。あなたを──」
「ところでヨッシーさ」
ジュン兄は遮るように、しかしいつもの人懐っこそうな軽い調子で、作りかけの木彫りの像を指した。
「まだまだ作りかけなんだけどね、この木彫りの像、以前スクールのみんなで飼ってた子なんだよ。でもこの春に亡くなっちゃってさ。みんなまだ悲しんでるから、せめて忘れないようにって、その子を掘ってるんだ。どう思う?」
吉村くんは一度首を傾げてから答える。
「可愛いハムスターですね」
その返答に、ジュン兄は豪快に笑い出した。
「いや、デグーだよ! チンチラならまだしも、ハムスターって」
「あ、すみません」
吉村くんは目に見えて慌てていた。あたしは吉村くんを突っつく。いや、あたしもハムスターだと思ったけど。
ジュン兄はくっくっくっと肩を震わせている。一通り笑い尽くしたあと、少し寂しげな目で作りかけの木彫りを見やった。
「やっぱりダメなんだよな、俺じゃ」
あたしは彼の顔が見られなくて、逃げるように手もとのホイッスルへと目を落とす。そこに刻まれた『S』の字を、じっと睨んだ。
「やっぱりあなたは、仁さんなんですね」
吉村くんの問いに、ジュン兄は頷く。
「このジュン兄っていうの、昔のニックネームなんだけどさ、これ、実は俺の憧れの人の名前なんだよな。もともと、その憧れの人の考え方を目標に作ったスクールだからさ。だから俺もこの名前を名乗ってるんだ。昔、俺は仁くんのことを、ジュン兄って──」
「違いますよね、ジュン兄」
吉村くんは珍しく強い語調で言う。
「あなたは奏さんじゃない」
仁はため息をつき、噛みしめるように頷く。
そう。吉村くんの言うとおりジュン兄は、山岳遭難で失踪した『朝田奏』さんではない。芽愛さんへの愛情を心に宿し、それを乃愛さんへと重ねながら生きてきた『後藤仁』さんだ。
その可能性を確信しているからこそ、あたしたちはこうしてジュン兄と対話しに来ている。
「そうだよな。俺は昔、あいつに……奏に、兄貴として慕われていた。『ジン兄』って。でもあの頃のあいつ、歯列矯正中で滑舌が悪かったから、『ジュン兄』って言ってるように聞こえたんだ。だから、俺のニックネームは『ジュン兄』。木下純希って名前は、それに合わせた思いつきだね」
ジュン兄は自嘲する。
「一番自分らしくなかったのは、俺なんだよな」
だからこそ腑に落ちないと、あたしは思う。
ノア姉がジュン兄を受け入れて生活していたという事実だ。夫婦が二人きりのとき、ノア姉はジュン兄のことを『ソウちゃん』と呼んでいた。
奏ちゃん。
「自分らしくなかった、とジュン兄はおっしゃいますが……」
と、吉村くんもあたし同様に解せない様子だ。
「それってつまり、あなたは自分が仁さんであることを捨て、奏さんに成りすまして暮らしていたということですか? そんなことが……」
相貌失認のあるノア姉の特性を利用し、自分は奏であると偽って暮らしていた。
言うのは簡単だけど、相貌失認は人の顔を認識できない代わりに、他の様々な情報を参考に個人を特定しようとする。例えば仁さんと奏さんがいくら体格や声や匂いが似通っていたとしても、彼女をいつまでも騙しおおせるものだろうか。
ジュン兄は窓の外を見ていた。その横顔からは感情が読み取れない。
彼が次の言葉を口にしかけた、そのとき。
窓の外から女の子の呼びかける声がした。




