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夢の続き  作者: 中島 遼
27/55

写真5

 家に帰って無理に昼食を流し込むと、詩織が不安そうな顔でこちらを見ていた。

「ごちそうさま」

 箸を置いた手を彼女はじっと見る。

「涼ちゃん、どうかしたの?」

「別に」

 立ち上がり、彼は一人で桐原の書斎に籠もった。

 思い出したように以前詩織に勧められた立原道造の詩集をぱらぱらとめくった後、結局読み進めていた全集のうちの一冊を再び手にとって頁を追うが、頭には何も入らない。

(……何も知らなかったけど、俺はどこかでわかってた)

 少しずつ彼の過去がほつれていき、そこに見え隠れする風景それぞれの意味が明らかになっていく。

 思えば父は、彼を支配こそすれ一度も愛したことはなかった。

 それなのにどうしてこの歳になるまで、彼は父のかけた鎖をはずそうとしなかったのだろう。

(尊敬し、後を追うに相応しい男だと思ってたから)

 姉も桐原も周りの医師も、親戚も国会議員もみな言った。

 精力的に人の命が助かるために尽力し、私財を投じ家庭も顧みずに献身している彼は偉大だと。

 見習いなさい、と。

(でも、俺は知ってた)

 それが彼の目から見た修造ではなく、どこかに書かれた偉人伝を第三者的に見たものだということを。

 彼の修造と彼らの修造が決して重ならないということを。

 だから村山は彼の中にある修造を消し、彼らの修造を偶像的に据えた。

 それは何故か?

(……そんなにしてまであの男に愛されたかった?)

 彼は唇を噛みしめる。

 間違いなくそのことは事実だ。

 姉や千代や詩織が自分に向ける家族的な愛情を疑うことはなかったが、それでもずっと足りなかった。

 高校時代の友人や大学の助教授、派遣先の指導医が向けてくれた好意を格段に嬉しく感じたのはその渇望の為せる技だったに違いない。

(……だけど)

 そのことは父の支配を受け入れた大きな理由ではあったが、真の理由ではなかった。

 村山は自分の心にある暗い空洞から目を逸らそうとした。だがそれはどうしても彼の視界に入ってくる。

(……償い、だったのか)

 身体が小刻みに震えた。

(俺が、母さんを殺したことの)

 随分前から気づいていたことなのに、いざ言葉にしてしまうと違う重みがそれに加わる。

(最初から、生まれてこなければ良かった、と)

 ……そして、死んで償え、と。

 村山は再び本を手に取った。

 そして文面に目をおとす。

 しかし途中、何度となく同じ行を読む自分に気づく。そして数頁前のことが全く思い出せない……

「くそっ!」

 机に肘を突いて両手で頭を抱える。

 どうして今になって真実を知ってしまったのか。

 もしこのことを知ったのが、何も理解できない小学生のころだったなら。

 あるいは多感で内側にこもりやすい思春期の頃だったなら。

(……そうしたら逆に事態を素直に受け入れたかも知れない)

 そうして自らの意志でその場所に立つかどうかを選ぶ権利も同時に得たろう。

 だが、あの頃の彼は意味も分からないまま、ただそこに縛り付けられていた。

 何も知らなかったにもかかわらず、嫌なことでも抵抗一つせず父に従った。

(……それが俺の原罪のせいだと思っていたから)

 だが、いまや彼はもう三十を過ぎていて、それなりの常識も備えている。

 そして、真に人を殺すという事がどういうものかを身をもって体験すらしていた。

 仮に姉が真緒を庇って車にはねられたとして、それを理由に真緒を憎むことができるだろうか。

 それも、相手がチンパンジーほどの知能ももたない二歳児だったなら尚更。

(それでも、母さんに償うならわかる)

 何故彼は、これほどの長きにわたって父に彼の自我を搾取され続けなければならなかったのか。

(……癇癪を起こした後で、千代さんに金を渡しただと?)

 村山は苦く笑った。

「ふざけるな」

 父に愛されない理由が、彼自身のせいだということは何とはなしに理解していた。持って生まれた何かが悪くて、それで愛されないのだとずっとどこかで思っていた。

 だが、それだけの理由で彼に従っていたのではない。

 医師として、人として尊敬できる何かをもっていると信じていたから彼はじっと耐えたのだ。

「……それが、あんな」

 村山は固く目を閉じる。

(……あんな小さい男だったなんて)

 彼が思っていたよりもずっと。

 不安を解消するために千代の話を聴きに行ったのに、却って心は安定を失っている。

(俺は一体、何のために今まで)

 そしてこれからも、一体何のためにこのまま……

「どうしたの、こんな暗いところで」

 ふいに電気がつき、彼はぎくりとして顔を上げた。

「え?」

 村山は時計を見る。知らない間に夕方になっている。

「ご飯、冷めちゃうわよ」

 言われて初めて、六時になったらダイニングに来てと言われていたことを思い出す。

「あ、ああ、ごめん、本を読んでてつい」

「電気もつけずに?」

 言いながら彼女は机にあった書籍を手に取る。

「これ、そんなに没頭するほど面白い本だった?」

 学生時代に彼女も読んだはずのそれを詩織はぱらりとめくった。

「うん」

「……どうしてこんな本を?」

「そこにあったから」

 振り返って本棚を見た彼女の顔にふっと苦悶が浮かぶ。

「終わりの方」

「え?」

「お父さんは医学書はきっちり系統立てて並べているけど、こういう本は読んだ順番に並べてたの。そこの本棚にあるのは死の直前から一年以内に読んだ本」

「……それなりに系統立ってるよ。ほら、キルケゴールにニーチェ、それでハイデッガーでサルトルだろ?」

 言ってることは様々だが、いずれも同時代の実存主義者としてひとくくりにされることが多い。

「その次は聖書、そしてフロイトよ」

「……ほんとだ」

 詩織は少し哀しそうな顔をした。

「死を前にして、慌てて解答を探してるのかなって思ったことがあったわ」

「何の?」

「自分の存在の理由とか、生と死の意味について」

 彼は少し驚いた。

「……へえ、あの桐原の小父さんが?」

 村山はもう一度本棚に目を戻す。

「……そう言えば、どの本も確かにかなり読み返した感があったな。キルケゴールだけはまっさらだったけど」

「……キルケゴール、お父さんは嫌いって言ってた」

「どうして嫌いなんだろ?」

 好きとか嫌いとか言うような内容の本ではない。

「神様がアブラハムに息子イサクを生け贄として差し出すように命じたとき、アブラハムが黙ってイサクに短刀を突き刺そうとした行為がどうしても納得できない。だからそれを褒め称えるキルケゴールは無理って言ってた」

 村山は首をかしげた。

「……それなのに聖書?」

「原典はきっちりわかっておく必要があるって思ってたんじゃないかな。最終的には信仰以外の方法で、自分が納得できる原罪から来る不安を解消する理屈を探していたにしても」

(……原罪)

 さっと血の気のひいた彼を詩織が心配そうに覗き込む。

「どうしたの?」

「……いや」

 思えばどうして自分はこんな本を手にとってしまったのか。

 本当にそこにあったからなのか? それとも……

 彼の脳裏に、さっき眺めた頁の言葉が甦る。

 彼ら……世間は、その人間から可能性を選択するという権利を取り去り、また、その選択しなければならないという負担を軽くしているという事実さえも見えなくしてしまうという文脈。

(……違う)

 この著者は彼が今思ったような意味でこの文を書いたのではない。ここにある彼らとはあくまで世間的自己であって、彼の内的な修造ではなく……

 視線をさまよわせた彼の目に、詩織の黒い瞳が映る。

(意味が違う……違うが、それでも)

 著者の意図とは別に、彼が彼の事情で言葉を抜き出した場合には現状にひどくマッチするではないか。

 みごとに歪んだ自己の姿が露わになり、再び思考を遮断したはずの疑問へと向かわせる。

 本来、死の直視を回避するよう気遣うはずの彼の世界は、彼に対して死んで償えと言い続けてきた。

 彼が生きることを選択した過去は、それに対して良心的な呵責を彼が感じるようにずっと仕向け続けた。

 もちろんそれは選択が引き起こした結果に対する責任などではなく、もっと卑小な何か。

 村山は詩織の手から本を取り上げてそれを閉じた。

 もちろん今、書籍から得た知識は学生時代とさほど変わらない。

 だが、歳月を得て再度読み直した時、その著者の思考基盤は突如彼の根底を揺らした。

 緻密に一つ一つを定義し、決して妥協せずに全てのあいまいさを剥離していこうとする態度。

 皆が言っていること、昔から決まっていること、定義があると思いこんでいることすら容赦せず。

 だとすると彼が今日、この本を読み続けた理由は、

(……俺の人生の、間違い探し、か?)

 村山は微かに震える。

「お昼からずっと顔色が優れないけど、ひょっとして具合悪いの?」

「……別に」

 詩織がすっと彼の額に手を当てる。

 それは冷たく柔らかで、一瞬だったが全てを忘れられるような気になった。

「熱はないようだけど……って、こんなこと、お医者様に言うようなことじゃないわね」

 屈託ない笑顔に少し救われながら、不安を紛らわせるための気晴らしを卑怯だと思う自分もまたどこかにいる。

(……それでも今は)

 彼は自分でも意識せずに、目の前にあった白い手首をつかんで引き寄せた。

「涼ちゃん?」

 呼びかけた後、腕の中で詩織は少し身じろぎし、何か問いたげに唇を動かす。

 だが村山の眼差しから心情を読み取ったのか、何も言わずに彼の胸に頭を埋めた。

 彼は詩織のそういう優しさが好きだった。

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