バルクス家の父子①
これはまだ、バルクス家にイルアの父と母がいた頃のお話し——
「お母様、まだお休みにならないの?」
使用人にもう眠るように促され、イルアは隣に座る母を見上げた。母は美しい顔に笑顔を浮かべ、優しく髪を撫でて言った。
「私はお父様をお待ちしているわ。イルアはもうお休みなさい。」
母は毎晩父が帰ってくるまで起きている。その時間はまちまちで、時には日付が変わってしまう事だってある。けれど、母は必ず居間で父の帰りを待つのだ。
「今日は私も起きてるわ。」
母がこうまでして父の帰りを待つには理由がある。
「イルアったら・・・お父様が驚くわよ。」
イルアまで起きて待っているのを見たら、きっと苦笑いをしながら抱きしめてくれるだろう。
「お母様が頑張ってるんだもの。私も一緒にお父様を待つわ。」
「イルア・・・」
母は困ったような、観念したような表情で髪を撫でてくれた。側に控えていた使用人に目で合図し、起きている事を許してくれた。
父は“レーヴェ”だ。国の不祥事を始末する、危険で、残酷で、誇りある職務。代々バルクス家が担うその役目は、父の次には自分がやるのだともう決めていた。
そう宣言した時、父も母も、驚きに固まっていた。そして、泣きながら抱きしめてくれた。
(だって・・・私は一人娘だもの。お父様が引退される時には誰かが引き継がなければ。今の代には子供が私しかいないから、私が継ぐのは当然よね?)
イルアにとっては当然の選択で、自分が他の令嬢と同じように人生を過ごす事は念頭になかった。レーヴェとして生きる事が、すでにもうイルアの人生であると考えていたのだ。
「奥様、旦那様がお帰りですよ!」
唯一の使用人であるスイが帰宅を告げると、母はイルアに目配せする。イルアは頷いてみせて、扉の影へそっと移動した。
「ただいま——」
「おかえりなさい!」
ぱっと影から飛び出していくと、父はとっさに抱きしめてから頬に手を当てて上向かせた。
「イルア!まだ起きていたのかい?」
案の定驚いた顔で目を覗き込んでいる。イルアはぎゅっと父を抱きしめて笑った。
「だって、お出迎えしたかったんだもの!」
「困った子だね。女の子は早く寝ないと駄目だよ。」
苦笑しながら優しく髪を撫でてくれて、父はきょとりと周りを見回した。
「おかえりなさい、アウル。今日もご無事で・・・」
母が歩み寄ると、父はそっと抱きしめていた手を離し、今度は母を抱きしめる。
「ただいま、愛しいルーラ・・・」
こうなればイルアはそっと立ち去るしかない。父と母が愛おしそうにお互いを見つめるのを見て、イルアもなんだか嬉しい気持ちになるのだ。
「お父様とお母様は相思相愛よね?」
小さな声でスイに訊ねると、スイは同じく小さな声で答えてくれた。
「ええ、こんな素敵なご夫婦はそうおられませんわ、お嬢様。」
「そうよね。」
嬉しくなって、つい頬が緩む。こんな気分で寝られる日が多いというのも、嬉しい事だった。
「ねえ、お父様とお母様は、やっぱり周りから見ても良い夫婦なのかしら?」
最近顔を合わせるようになった友人に聞いてみると、彼は驚いた表情で読んでいた本から顔を上げた。
「一体なに?いきなり・・・」
彼は大抵中庭に隠れるようにいて、一緒にいても特に話に花が咲く事はなく、お互いゆっくりと時間を過ごす事が多い。
「だって見ていてとても幸せな気持ちになるんだもの。どうなのかしら?」
「・・・・・・・・・」
何故そんな事を聞かれるのかよく分からない様子だが、彼は答えてくれた。
「良い夫婦だろう。二人を悪く言っている者を見かけた事がない。」
「そう?」
彼はどうやら王族に近しい身分のようだが、まあ詮索する気もないし、彼自身が身分をあまり気にしていないようだから、イルアも気にしない事にしていた。
「貴方のご両親はどう?」
「え?」
さらに目を丸くして驚かれた。イルアはそれに驚いて聞き直す。
「貴方を見ていると、仲が良さそうに思うのだけど?」
「・・・・・・・・・」
再び彼は少しの間押し黙り、考えながら言葉を紡ぎ出した。
「・・・仲は良いだろうな。言い合いはしても罵り合いをしているのは見た事がないし、お互いを大切に思っているようだから。」
「・・・なんだかちょっと他人行儀ね?」
顔を覗き込んでみると、困った様子で苦笑された。
「そうかも知れないな。まあ、立場上仕方がない事だ。適度に距離を保っておかないと後々困るからな。」
「ふぅん・・・なんだか面倒なのねぇ。」
そう言ったら、思い切り笑われてしまった。彼が思い切り感情を露にするのは珍しいのでまじまじと見つめてしまう。
「そんな事、言われるとは思わなかったな・・・!」
「だってそうじゃない?お父様も大変なお役目を担っているけど、私との距離は近いと思うわ。」
「・・・そう、か・・・」
途端に表情が憂いを帯びて、イルアはずいっとその目を覗き込む。
「なぁに?」
「・・・いや。」
「なんだか怪しいわねぇ・・・この間から思っていたけど。」
「怪しい?」
間近で覗き込まれても平然としている彼を、これ幸いとばかりに間近で睨みつける。
「お父様のお仕事の“何を”知ってるの?」
「・・・・・・・・・」
彼の目が見開かれた。事情を知っているのは明白だ。
「やっぱりね。貴方、ユーセウス殿下でしょう?」
「・・・イルア・・・」
驚きに固まって動けないユーセウスに微笑んで、イルアは顔を離して隣へ座り直した。
「だって王城でこれだけ頻繁に会えるのに、貴方のご両親には会えない。軍人とも親しいみたいだった。そして、お父様の話しになると憂う事が多い。」
「・・・・・・・・・」
「とはなれば、きっとお父様のお役目を知っている。なら、貴方は王族よね。そしてその年齢なら、私の知っている王族はユーセウス殿下しかいらっしゃらないもの。」
「・・・鋭いな。」
「貴方は隠し事が下手なのよ。」
くすくす笑って言うと、ユーセウスはどこかほっとした様子で微笑んだ。
「・・・イルアは態度を変えないんだな。」
「あら、変えて欲しいの?」
「いや。そのままがいい。」
「でしょう?」
「・・・・・・・・・」
何故か自信満々に言うイルアを見て、ユーセウスは嬉しそうに笑った。
「さあ、もう謁見も終わる頃だろう。行った方がいい。」
「あら、そうね。」
イルアはいつも父にくっついて動き回っていた。レーヴェの仕事にはさすがについていけないが、他はなるべくくっついて、少しでも父の仕事を覚える為だ。
「それじゃあ行くわね。ルセ。」
「ああ、またな。あまりアウルを困らせるなよ。」
思いがけず釘を刺されて思わず振り返った。
「まあ、私がお父様を困らせている?」
「自覚がないのか。」
ユーセウスも驚いていた。しかしすぐに笑い出す。
「イルアらしいか。・・・少しは淑女らしく振る舞え。」
「・・・・・・善処するわ。」
ひらひらと手を振ってその場を去る。後ろから声が追い縋った。
「ルミエラに少しは早く眠るよう伝えてくれ。」
「それは、きっと無理ね。」
母は誰に言われようが、絶対に父を起きて待っているに違いない。それが例え、王命であっても。
(お母様はたおやかで優しい方だけど、お父様の事となると、もの凄く頑固なのよね。)
それは父を深く愛しているからで、そう思うと、イルアの頬は緩んでしまうのだった。