主従の関係〜イルアとヴィト①
それはイルアが、獣族殲滅に向かうユーセウスに同行し、ヴィトを屋敷へ連れ帰った後のお話——。
清々しい朝の空気の中。朝食を終えてソファで寛いでいたイルアは、紅茶のカップを口元まで運んで、その中身を見つめ、そのまま溜息を吐いた。
「はあ・・・」
そこへ、セティエスが苦笑しながらやってくる。
「お嬢様。溜息は淑女のする事ではないですよ。」
「・・・でちゃったものは仕方ないわ。」
「お嬢様。」
眉根を寄せたまま言い返したイルアの隣へ腰掛け、セティエスは小さな子供を叱りつけるように少し語気を強めて、イルアの頬に手を当て、顔を上げさせた。
「だってどうしたらいいか分からないんだもの。調べようにも文献も少ないし・・・」
「皺になってしまいますよ。」
親指でそっと眉間を撫でると、観念したように少しだけ表情が和らいだ。それを確認して、セティエスは頬に当てていた手でイルアの頭を一度だけ撫でる。
「引き取ると仰ったのはお嬢様ですよ?最近はガイアスに任せっぱなしではないですか。」
「だって・・・」
ぐずるような姿勢に思わず笑みが漏れてしまう。セティエスはそんなイルアの目を覗き込んで笑った。
「たくさん接しなければ相手の事は理解出来ませんよ。お嬢様。お分かりでしょう?」
「う・・・」
言われて、イルアは今度こそ観念した。
「分かったわ・・・やるしかないわね。」
景気付けとばかりに紅茶を飲む。その表情が前向きなものに変わったのを見て、セティエスは微笑んだ。
「手で食うなって言ってるだろうが!」
ガイアスは叫ぶと同時にヴィトの食器を取り上げた。ヴィトはそんなガイアスを迷惑そうに見ている。
「返せ。」
「その前に手を拭け!フォークを持て!」
もう三ヶ月近くこんなやり取りをしている。さすがのガイアスも我慢出来なくなってきていた。もともと気は荒いと自覚しているが、今はヴィトを見るだけで苛々する。
「なんで。」
「てめぇの耳は腐ってんのか!ここで生きていくんだからマナーくらいは覚えろ!」
この台詞も何度言っているだろうか。
「・・・生きるのに、そんなもの要らないだろ。」
「要るから言ってんだよ・・・」
怒り疲れて勢いの弱まったガイアス。それを見計らってヴィトは食器を奪還した。
「っ・・・てめぇ・・・」
怒気をみなぎらせて思わず腰にある剣の柄に手を当てた時。呆れた主人の声がした。
「あら・・・まだやってたのね。」
押し付けた張本人を射殺さんばかりに睨み、ガイアスは唸った。
「誰のせいだ・・・」
「私?」
にこりと笑ってわざとらしく小首を傾げる。
「・・・・・・」
もう、怒る気力が失せた。大きな溜息を吐いて、ガイアスはイルアの横をすり抜ける。
「どこ行くのよ。」
「こいつのお守りは俺の仕事じゃない。」
引き取った本人が面倒を見ればいいのだ。ガイアスは一度も振り返らず、早足にその場を去っていった。
その背を見送り、イルアは苦笑する。
(・・・ちょっとやり過ぎたかしら。明日は一日お休みにしてあげましょう。)
何かといえば面倒を押しつけてしまうのだが、ガイアスはなんだかんだできちんと仕事をこなしてくれている。もう少し思いやってやろうとイルアは決めた。
「さて。」
くるりとヴィトを振り返ると、出された食事を全て手で、完食していた。ガラスのコップもそのまま手掴かみにしている。
「・・・ヴィト。」
一向にマナーを覚えようとしないヴィトに近づき、その隣へ腰をおろす。
「俺はそんな名前じゃない。」
その目は冷ややかで、人を拒絶しているのが明らかだ。
「ねえ、獣族と分かれば、また狩られるわよ?」
その台詞に、ヴィトの目が殺気で染まる。全身が毛を逆立てているように思える程だ。
「・・・俺たちは何にも隷属しない。思い上がるな。」
ヴィトの言う事は、もっともだった。彼らの驚異的な身体能力を欲するが故に、人は彼らを支配しようとした、その結果が獣族殲滅となったのだから。
「・・・あのね、ヴィト。」
「勝手な呼び方をするなと言ってる!」
喉を食いちぎらんとばかりに、隠れていた犬歯が鋭く伸びる。その爪が鋭利なものに変化した。しかし、イルアはじっとヴィトの目を見つめた。
「・・・私は、貴方を支配したいわけじゃない。言う事を聞かせたいわけじゃないわ。」
とりあえず手を拭いてもらおうと、イルアはナフキンを差し出した。それをヴィトが受け取るわけはなかったが。
「なら、何故ここへ縛る?」
もしも、ここから解き放てば。それを想像するのは容易い事だ。
「今のままここから出て行けば、間違いなく殺されるか、良くて薬付けにされてお人形扱いされるわよ。」
「お前・・・!」
ぎらりと光る目から視線を逸らし、イルアは、今まさに自分を切り裂こうとしているヴィトの手に、そっとナフキンをあてがった。
「!?」
びっくりしてヴィトの殺気が弱まる。そのままイルアはヴィトの手を拭い始めた。
「ほら、こんな風に振る舞っていたらすぐにばれるわ。せめて、汚れたら綺麗するって事くらいは覚えなくちゃ。ね?」
驚き過ぎて固まって、きょとんとイルアを見つめ返す。その表情が幼くて、イルアは笑った。
「あのね、ヴィト。貴方の見た目は、私たちとなんら変わりないでしょう?こうやって攻撃態勢にならない限り。違う?」
「・・・・・・・・・」
また、勝手に付けた呼び名で呼ばれた。にも関わらず、思わず攻撃態勢を解いた。見る間に犬歯は小さくなり、爪も人のそれへと変わっていく。その手を、今度は直に手に取って、イルアはそっと握った。
「ほら。変わらないじゃない?」
「・・・・・・・・・」
握られた手を、ヴィトは不安そうに見つめていた。イルアの体温が、じんわりと伝わってくる。
「ねえ、バルクス家の一員になって。私たちと一緒に暮らしましょう?」
ふわりと微笑むイルアを、ヴィトは今だ不安そうに見る。
「・・・お前は、獣族が恐ろしくないのか?」
「恐ろしくないわ。」
「!?」
間髪入れずにこっくりと頷かれ、ヴィトの目がまんまるになった。それにくすくすと笑ったイルアに、ヴィトは目を瞬かせる。
「なんで・・・」
「そうねぇ・・・」
くすくすと笑いながら、イルアは視線を泳がせる。そして、どこか切なげに、ふわりと微笑んだ。
「実は私が恐れられているから・・・かしら。」
「お前が?」
途端に疑いの目で見られて、イルアは可笑しそうに笑った。
「なんで。」
「・・・それはね。」
するりとヴィトの手を離し、立ち上がりながらイルアが笑う。その笑顔が、今度は何故か妖艶で、不敵に見えた。
「私が、悪魔の子孫だからよ。一応。」
(・・・一応?)
「悪魔の・・・?」
イルアは微笑みながら、部屋を去ってしまった。
「・・・・・・・・・」
取り残されたヴィトは、イルアに握られた手を、そっと見つめた。まだ体温が残っているような気がして、ゆっくりと握り込む。
「・・・・・・同じ・・・か。」
獣族と人は完全に違う生き物だと、そう、思っていた。
「しかし、ヴィトはなかなか慣れませんね。」
昼食の席でセティエスがそう言うと、イルアがこくりと頷いた。
「そうねぇ・・・。まあ、まだ半年だものね。」
「半年あれば少しは慣れるだろ。あいつはあれだ。野生の獣に近い。」
「そりゃあ獣族だものね。そういう感覚は違うのよ、きっと。」
今日は特に用事もないので、屋敷でのんびりと過ごしている。それに習ってのんびりとしたイルアの口調に、ガイアスが溜息を零した。
「・・・お前な。」
イルアがヴィトを連れ帰ると言った時には、セティエスとガイアスは反対した。目の前で獣族の身体能力を見せつけられた最中だったのだ。それも、最後の一人だというのに、第二軍に取り囲まれているというのに、なかなか仕留められない相手を。
連れ帰ってどうする、あれは獣じゃない。調教はしないと言ったガイアスに、イルアはきっぱりと言い切ったのだ。
『調教なんてさせるわけないでしょ。一緒に暮らせるように躾けるのよ。最低限。』
と。
イルアがやると言ったから、しぶしぶ承諾したというのに・・・イルアは、ほとんどの世話をガイアスに押し付けていた。
「でもまあ、ほんの少しだけれど、屋敷の人間には慣れてきてくれているみたいじゃないの。」
ちらりと視線を投げられて、ガイアスはぎろりと睨み返した。
「・・・睨まなくたっていいじゃない。」
「睨まれるような事しただろ。」
「・・・・・・・・・」
そろりと視線が外される。反論しないところを見ると、一応、覚えはあるらしい。
「まあ・・・確かに最近は、触れる事も許してくれたようですしね。」
「そうよね!前は“触ったら殺す!”って全身で主張してたものね。夜もちゃんと眠っているみたいだし。」
「・・・・・・・・・」
連れ帰って一週間。三人共ろくに眠れなかった。隙あらばヴィトが逃げ出そうとしていたからだ。イルアは国王に訴えて、その間は休みにしてもらっていた。逃げようとするヴィトを取り押さえるのも一苦労。下手をすればこちらが怪我をしてしまう。
「まあ、地道にいきましょう!」
「お前がちゃんと面倒みろ。」
「ぐっ・・・」
「そうですね。警護の役目があるガイアスが倒れては困りますから。」
「うっ・・・私は倒れてもいいの?」
「「問題ない。」ありません。」
「・・・・・・」
あっさりと従者達に頷かれて、イルアは今までの振る舞いをちょっとだけ反省した。
そんなある日の夜——。
「お嬢様。湯浴みの仕度が出来ましたよ。」
セティエスに声をかけられ、イルアは自室のソファから立ち上がって返事をした。
「ありがとう、セティ。」
読みかけの本をサイドテーブルに置き、そのまま湯殿へ向かう。脱衣所にはすでに夜着が用意してあり、厚いカーテンの向こうから、お気に入りの香りがする。
(良い香り・・・これがないと落ち着けないのよね。)
するすると服を脱いで、イルアは機嫌良く湯殿へ入っていった。
イルアを湯浴みへ行かせ、セティエスとガイアスは二人して、居間のソファで寛いでいた。
しかし。
「「・・・!?」」
突然膨れ上がった不穏な気配に、二人はさっと立ち上がると臨戦態勢を整える。
「今のは・・・」
「ヴィトですね。行きましょう。」
「ああ。」
ガイアスの後に続いて、セティエスも駆け出した。