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決戦前夜~音唯瑠~


音唯瑠ねいる、食べないの?」


「ふええっ!? あっ、た、食べるよぅ!?」


「って言っても、さっきから全然進んでないけど……食欲ないの?」


「あ、あるよ? あるけど……」


 心配の視線に、音唯瑠はぎくしゃくとした返答をする。

 誓って、食欲がない訳ではない。テーブルの上に広がるのは丹精込めて作られた手料理の数々。サクサクに揚がったコロッケ、トマトレタスブロッコリーなどバランスの取れた野菜サラダ、日本文化の象徴であるご飯に味噌汁、と自分の好物で固められたラインナップだ。

 普段であれば、それらは見た瞬間に口に放り込まずにはいられないほどのもの。野球で言えばクリーンナップという感じだが、今の音唯瑠は箸を持つ手が震えるあまり食べられなくて。


「もしかして、明日のことを考えて緊張してるの?」


「……うん」


「そっか。まぁ、のんびり食べてね。ご飯は逃げないから」


 優しさに満ち溢れた微笑みを浮かべながら──音唯瑠の母親、琴音ことねはその理由を当てていた。

 やはり母には敵わないと改めて思いつつ、料理が冷めていくのも申し訳ないので、音唯瑠は何とか箸を動かす。

 最初に口に含んだのは幼い頃からの大好物のコロッケ。噛んだ瞬間、いつもと変わらない触感と味が口中に広がっていき、それらは瞬く間に緊張を覆い尽くした。


「お味はいかが?」


「……うん。美味しい」


「ふふっ、良かった」


 率直な感想に、また微笑みを見せてくれる琴音。それに、音唯瑠はますます緊張が解される

 それだけでなく、聞き慣れたはずのその声にも、安心感を貰っていて。

 一度、口にするだけで。

 一度、目にするだけで。

 一度、耳にするだけで。

 あの緊張は何だったんだろう、と音唯瑠は疑問にも思ってしまうほど心が安らいでいた。母親とは偉大だ。

 その後、音唯瑠は母と談笑をしつつ、手料理の数々を食べていく。すっかりと緊張を忘れ、皿の上が綺麗になっていき、コロッケも最後の一欠片になった頃。


「お母さんね、こんな日が来るなんて思ってなかったの」


「えっ?」


 それまでの雰囲気と打って変わった琴音の口振りに、音唯瑠の最後の一口は止まる。琴音の表情は変わらず微笑んでいたが、何かそれ以上に強い感情が秘められているような気がした。


「音唯瑠ちゃん、去年の2月にコンテストに参加したでしょ?」


「あぁ、【UMフラッピングコンテスト】のこと?」


「そうそう。その時から、私はまるで夢を見てるみたいなの。音唯留が、また歌を歌うことを好きになれたんだなって」


「お母さん……」


「音唯留が歌わなくなっちゃった時、私は……自分のことを責めたんだ」


「えっ?」


「私が、ボイストレーニング教室を勧めたせいで、音唯留が歌えなくなっちゃったのかなって……」


「そんなことないよ!」


 自らを責めるような言葉を発した琴音に、音唯留は思わず立ち上がって叫んでいた。きょとんとする彼女を見るとハッとして、「ごめん……」と謝りながら再び座る。

 しかし、その謝罪はあくまでも叫んだことに対するもので。母の言葉を認めたものではなかった。


「私が歌うことをやめちゃったのは、私自身の弱さのせい。だから、お母さんのせいじゃないよ」


「でも、そもそもボイストレーニング教室に行くことがなかったら、音唯留が歌うのを止めることもなかったんじゃ──」


「私は、後悔してないよ」


 母の瞳に映るのは、間違いなく愛する娘だった。

 しかし、それと同時に自分が知らない《・・・・・・・》部分を見せられていた。強く、真っ直ぐな眼差しを持ち、何か確信を得ているような、そんな所を。


「確かに……あの教室に通ったことで、私は歌えなくなった時期もあった。でも……ある人が言ってくれれんだ。『何の為に自分が歌うのか、それを常に忘れないで欲しい──歌うのが、大好きだって想いを』って。だから……もう私は迷わないの。傷ついたこともあったけど、そのことも含めて……私は、歌うのが大好きなんだ。」


「音唯瑠……」


「お母さん、だから自分を責めないで? 私、お母さんのことを恨んだりしたことなんてない。昔も、今も、これからも……お母さんのことが、大好きだから」


 微笑みを今度見せたのは、音唯瑠だった。

 自然と浮かんだその笑みは、母が見せてくれたそれ以上に優しさと穏やかさに満ち溢れていて。歌えなくなった時期の音唯瑠から考えれば、二度と見られないであろうとさえ思える微笑みで。

 それを目の当たりにした琴音は、嗚咽と共に涙を流していた。


「音唯瑠っ……!」


「お母さん!?」


「良かった……本当に……! 音唯留が……そんな顔で笑えるようになって……!」


「お母さん……」


 こんなにも涙してくれる母に、音唯留もまた目の奥が熱くなる。そして、胸も。

 そう、今の自分は笑えるようになった。歌えるようになった。

 心無い言葉に傷つくこともあった。圧倒的な存在に敵わないと心折れそうになった時もあった。


(だけど……そっか、そうなんだ。私には……こんなにも私のことを想ってくれる大切な人が……いるんだ)


 それでも笑えるように、歌えるようになったのは。

 「大丈夫だよ」と笑顔を見せてくれる人がいてくれたから。

 涙を流してくれる人がいてくれたから。

 自分の為に笑ってくれて、自分の為に泣いてくれる人。当たり前のように感じていたその存在の大切さを改めて知り、音唯留はその瞳に涙を浮かべて──そして、それ以上に温かく微笑んでいた。


「お母さん。明日は、もっともっと素敵な笑顔を見せるから。もっともっと、素敵な歌を歌うから。だから……見ててね。私のこと」


 咽び泣く琴音に、音唯留は子守唄を聞かせるかのように優しく言う。

 これまで歌ってきた歌をも超えて一番に。

 母に、そして自分の大好きな人の為に、大好きな歌を響かせる。その決意を胸に、音唯留は窓から煌めく星々を眺めていたのだった。  


倫人りんとさん……見ていて下さい。私は、皆さんと一緒に……羽ばたきますから)

 


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