決戦前夜~白千代~
都内にある大山田グループ本社ビル。
日本トップクラスの大企業である大山田グループが所持するそのビルは、その権威と果てなき財源を誇示するかのように、356mという規格外の高さとなっており。投入された事業費は周辺地域の開発・買収なども含めると1兆を下るとか下らないとか。
東京タワーやスカイツリーに並ぶ大摩天楼の一角として名を馳せるそのビルは、屋上部分がテラスの造りとなっていて、都内を一望できる圧巻の景色を眺めることが出来る。今日のような星々の綺麗な夜では、2人組のカップルが夢にも見るようなシチュエーションだ。
「綺麗だね~お父さん」
「あぁ……綺麗だな」
そんな理想的な場所で優雅にディナーを送りつつ、夜の街の光と闇の中に燦然と輝く星々も同時に味わう男女の姿があった。しかし、2人は恋人という関係ではない。"お父さん"というワードが女性から発されたことから、親子であった。
普段は滅多に食事を取るような場所ではないのだが、そんな特例をも押し通せるこの2人は、大山田グループにおいての最重要人物──社長の大山田黒影と、その娘の大山田白千代。
贅の限りを尽くしたフレンチフルコースディナーも2人にとっては食べ慣れたものだが、このように景色を眺めながら、しかも2人きりでというのは滅多に……というかこれまでになく。
「わぁ、おいし~」
「……」
と、雰囲気は悪くはないのだが黒影の口数は皆無であった。
こんな時でもマイペースに舌鼓を打つ白千代はともかく、父親である黒影の方はいつにも増してその表情の厳格さと深く刻まれた皺が目立っている。食欲も湧かずせっかくのフレンチフルコースにも手をつけていなかった。
「お父さん~?」
「な、何だ?」
「どうしたの~? 全然食べてないよ~? お腹痛いの~?」
「いや、そういう訳では……」
「そっかぁ~。なら良かった~。ごめんね~急かすようなこと言っちゃって~」
「あ、あぁ……別に構わんぞ」
白千代がのんびりと謝るも、元から黒影もまた怒る気などない。
しかし、今もなおソワソワハラハラとする心地はついて回り……遂に耐えられなくなった黒影はナイフとフォークを静かに置き、その動作と同じように静かに彼女に尋ねた。
「白千代よ……」
「ん~? 何~?」
「本当に、明日がデビューライブの日だと、分かっている……のだろうな?」
「うん~もちろんだよ~」
その質問にも白千代はいつも通りに答えていて。黒影はますます不安になった。
1週間前からずっと日付の確認を怠らなかった。愛娘である白千代がアイドル【12345!】としてデビューをする、7月7日という日のことを。
その時から仕事に身が入らなくなるほど自分自身は緊張していたというのに、当の本人である目の前の愛娘は思わず目を疑ってしまうほど"いつも通り"だ。その様子に親としては安心感を覚えるべきなのだろうが、黒影はそうもいかなかった。不安で不安でたまらなかった。
日本有数の大企業、大山田グループを束ねる社長だから……ではない。会社の影響などは度外視で、黒影が心配していたのはただただ白千代自身のことだった。
良かれ悪かれ、アイドルとは人から注目されてこその職業である。ただでさえならず者の標的になりやすそうな類まれなる妖艶なルックスに、大山田グループの社長令嬢という立場、そんな白千代がアイドルデビューすれば悪い虫が寄ってくるのは間違いなくて。何なら、アイドルになると白千代が言ったことを認めた自分を殴りたいと、そう思ってしまうほど黒影は不安の渦に呑まれていた。
あの男の口車に乗らずに、無理にでも止めさせるべきだった……と、黒影は自責の念に駆られていた。
「ありがとうね、お父さん」
しかし、頭を押さえ俯いていた黒影は、その一声に顔を上げていた。
視界に飛び込むのは……亡くなった今も自分が愛する妻──白幸を彷彿とさせる微笑みを浮かべた白千代で。黒影は否応なく目を奪われていた。
「ボクがアイドルになりたいって言った時、反対せずに背中を押してくれてありがとう。ボクや皆が頑張ってる時、支えてくれてありがとう。今日の夜ご飯に、付き合ってくれてありがとう」
白千代の口が紡ぐのは、ひたすらに感謝の言葉。
ただそれだけで、先ほどまで浮かんでいた考えは愚かだったと自分を戒めつつ、黒影は黙ってその続きを聞き入る。
「アイドルになるためのレッスンいーっぱいして、大変だったなって思ったんだ。毎日走ったり、毎日トレーニングしたり、追いこみの時期になったら毎日歌ったりダンスの練習したり……本当に大変だったんだ。ボク、今までで一番頑張ったな~って思った」
白千代は言葉の端々に苦労を滲ませる。もちろん、黒影は彼女が如何に努力を積んで来たのか、使用人やボディガードを通じて知っている。
だが今の白千代の表情は、とても満足気だった。苦労話をしているというのに、寧ろのその顔は楽しそうでもある。自分が会社を盛り立てた時の苦労とは、何か違ったものを感じさせた。
「やめたいな~って思った時もあったんだけど、でも今日まで続けられたよ、ボク。それは一緒に頑張ってくれる清蘭ちゃん、音唯瑠ちゃん、エデンちゃんやエルミカちゃん、【12345!】の皆がいたこと、アリスちゃん率いる【Cutie Poison】っていうすっごく強そうなライバルが現れたこと、同じアイドルとして憧れにしてる……倫人君がいたから」
その名を聞くと、ほんの一瞬だけ黒影は苦虫を噛み潰したような顔となる。白千代には悪いとは思っていても、つい反射的に。
九頭竜倫人──"日本一のアイドル"という立場上、白千代にとっては超えるべき目標であると共に、好きな人でもある。しかも、一度フラれてもなお、その想いは変わっていない。
もちろん白千代を愛し育ててきた黒影にとって、それは愉快なことではない。醜い嫉妬だと言われようが構わない。とにかく白千代の心を奪った者は、たとえ自分と彼女の関係を改善してくれたという功績があろうとも、こんな反応をしてしまうのだった。
しかし、黒影のそんな顔も、白千代の次の言葉によって変えられることになる。
「そして……お父さんがいたからなんだよ」
「……えっ?」
自分を見つめる白千代の瞳が、より一層輝く。
それは星の煌めきによってではなく──白千代は僅かに涙を浮かべていた。
「ボクね、アイドルを始めたのは倫人君を振り向かせたいっていう気持ちがあるからなんだけど、もう1つ理由があってね。それは、お父さんに笑って欲しいからなんだ」
「……私に?」
「うん。お母さんが生きていた時のように、お父さんに笑って欲しいなって」
「……!」
「お父さん、昔の写真はよく笑ってたよね? でも、お母さんが亡くなった後の写真は……あんまり笑ってないなぁって思って。だから、ボクがアイドルになったら、ボクのパフォーマンスでお父さんを笑顔にしてあげたいなって……思ったんだよ」
穏やかに己の願いを語る白千代に、黒影は再び己を責めた。
愛する娘がアイドルを志したのは、自分自身の為であるとばかり思っていた。それこそ本人が言っていたように好きな男を振り向かせたいという一心からなのだったと。
だが、違っていた。そして、白千代は自分が思っているよりも強く、優しい子に育っていたのだと知る。
これまで、間違った愛情で好きな人との恋愛すらもさせず、自由を奪って来た自分を白千代は許してくれないだろう。そう思ったからこそアイドルになるのも止めず、せめてもの贖罪として精一杯のサポートもしてきた。
しかし、白千代はとっくに自分のことなど許してくれていたのだ。そればかりか、自分の為にもアイドルをやろうとしていることに気がついて。
「白千代っ……すまないっ……!」
いつしか、黒影は白千代以上に涙を流していた。
それでも白千代は余計な言葉を発さずに、震えるその手を手に取って言う。
「うぅん。ありがとう、お父さん……。今日の夕食も、緊張を解すためのものだったんだ。お仕事忙しいのに、付き合ってくれて……本当にありがとう。これでボク、明日は……絶対に大丈夫だから。明日、頑張るね」
夜空に浮かぶ星々。それよりも、瞳に雫を浮かべる白千代の方がずっと綺麗で。
その微笑みは、愛する妻のそれと全く同じ優しさと穏やかさを纏っていたのだった。
グループの皆、倫人、両親。
自分の大好きな人の為に、明日は全力を尽くそうと、白千代は静かに決意していた。