アリスの笑み
「わぁーリムジンだー。ママーぼくあれのりたーい。ぶるじょわしたいー」
「こらボンちゃん! リムジンを指差したらいけません! どんな人が乗っているか分かりませんよ!」
「ヤのつく人じゃなかったらだいじょーぶだよママー」
「こらボンちゃん! いつの間にそんなことを覚えたんですか! 今日は家族会議ですからね!」
「ちえー」
母親に首根っこ掴まれながら連行されていく少年は、指を差していたリムジンを最後まで羨ましそうに見つめていた。
少年以外にリムジンをガン見する者などいない。都内でリムジンが走っている、という光景は珍しくも何ともないことだ。資産家層のブルジョワ、調子づいたホスト、強面のヤのつく人、果てにはレンタル式だとパーリーピーポーな大学生なども乗れる為、純粋無垢なクソガキ以外にはわざわざ見ることなどない。
……しかし、このリムジンに関して言えば、その中に乗っているのが誰なのかを知れば、誰もが注目せざるを得ない。何故なら──
「……」
そのリムジンに乗っていたのは、誰もが目を奪われる傾国の美女──天珠院・アリス・ホシュベリーだからだ。
窓の外から眺める景色は、いつもと変わらない。いつものビルの数々、いつもの人々の雑踏、いつもの世界──頬杖をつき、それらをアリスは見つめていた。
その顔は、普段アイドルとして人々を魅了する笑みではなく、全てに退屈したような無表情を浮かべていた。
「アリス様、ハリウッドの芸能プロダクションからお電話がございますが」
「良いわ、拒否して」
「かしこまりました」
運転手に素っ気なく伝えつつ、その瞳は一点を見つめ続ける。
気がつけば街は夜のネオンに彩られ、見るも素晴らしい煌びやかな世界が広がっている。しかし、それすらも今のアリスの琴線には一切触れることはなかった。
運転手にとっても、車での移動中でアリスがこの顔を見せるのは日常茶飯事であった。ずっと無表情で、ずっと退屈そうにしていて。
仕える主人にそのような顔をされては最初はクビになるんじゃないかとビクビクした時期もあったが、今ではもう慣れたもので運転手歴もようやく1年が経ちそうだ。退屈そうにしているのがアリス本人にとって良いことなのかどうかは今でも分からないままだったが。
ともかく、運転手は己の仕事を全うするだけ。安全運転を第一に、アリスから時折話しかけられては応じ、ハリウッドなどのスカウトの話があれば彼女に伝える。アリスがいつもと変わらないよう、自分もいつもと変わらずに尽くすのみだった。
「……ふふっ」
だが……その気品ある笑い声が聞こえた時、車内の"日常"は変わった。
一瞬バックミラーで確認すると、無表情だったアリスの顔は、吐息のような笑い声と共に口を歪ませている。
何か面白いものを見つけたのだろうか? と、運転手は半分衝動的に尋ねずにはいられなかった。
記憶が正しければ恐らく初めての、彼女の笑みの理由に。
「……アリス様?」
「ん? 何かしら」
「どうされたのですか? 急に微笑みを浮かべるだなんて……」
「あら、微笑んでいたのかしら?」
「えぇ。こう言うのもなんですが……ガッツリと」
「そうだったの。私ってば、いけないわね」
そうは言いつつも、アリスは全く恥ずかしげな様子も不快な様子を見せない。寧ろ、クスクスと笑い上機嫌になる程で。
これならば、深く聞いても大丈夫だろう。と運転手はさらに質問を重ねた。
「その、どうして笑われていたのですか?」
「あぁ……それはね……」
「……?」
「……乙女の秘密、よ。残念だけど教えてあげないわ」
「そうですか……かしこまりました」
と、悪戯の過ぎた笑みを浮かべる彼女に運転手は言葉通り残念そうにしつつも、答えを聞くともう諦めていた。
しつこく深堀りする訳にもいかず、一人でその''微笑みの理由''を秘密にすることが重要ならば……と仕える主人公の楽しみを邪魔する訳にもいかず。
結果、潔く運転手は引いた。本来の仕事を全うすべく、またアリスにもこれからの時間を楽しんで貰えるよう、それからは無言を貫いていたのだった。
(……私が、自然と笑みを零すだなんて、ね)
アリスは依然として微笑みを浮かべながら、そこにほんの僅かに困惑の色を乗せる。
アリス・天珠院・ホシュベリー、彼女が見せる笑みは全て''作られた''ものであった。
女性アイドルの中でNo.1の実力と人気を持ち、''日本一のアイドル''である【アポカリプス】に次ぐと言われる【Cutie Poison】。
そのグループのリーダーを務め、あの''九頭龍倫人倫人と同等の実力とルックスを持つとも言われるアリス。
そんな彼女がアイドルとして倫人との唯一違う点を挙げるとするならば、心から笑ったことがないということだった。いや、アイドルとしてではなく、そもそも生まれてこの方……アリス・天珠院・ホシュベリーという少女は本当の意味で笑ったことなど、なかったのだ。
(人前で自然な笑顔を漏らすだなんて、倫人達を初めて見た時以来ね)
いつでもどこでも、老若男女を魅了するまさに魔性の存在。そんなアリスが浮かべる笑みが貼り付けられたものだったと知れば、誰もが驚くに違いない。しかし、その事実は誰もが知る由もない。あの倫人ですら、アリスの微笑みが偽りだと分からないのだから。
しかし、アリスの笑みは偽りばかりではなく、本心からのものもあって。それが、倫人達【アポカリプス】を初めて見た時であった。
特に、倫人の姿を目にした時、生まれて初めてアリスは''心を奪われる''という経験をしていたのだ。これまで呼吸と同じように、当然に人々を魅了していた自分が、初めて他の誰かに魅了されるという未知の経験を。
そうして、アリスは笑っていた。作る必要もないほど、心からの微笑みが顔に表れていた。それは、昨日の事のように思い出す1年以上前のことだった。
だが、今回の微笑みは倫人のことを思い出したからではなく。零れた笑みは、別の人物がもたらしてくれたものであった。
『間違いを減らしてって"日本一のアイドル"になれるってんなら、あたしはそんなのなりたくないっ!! あたしは……いやあたし達は、何度も間違えて、何度もこけて、何度も倒れても……それでも一緒に進んでくって決めたんだ!! それがあたし達──【12345!】だからっっ!!!』
その眼差しは強く、そしてどこまでも真っ直ぐに自分に向けられて、まるで全身を撃ち抜かれたような衝撃が今でも身体に残っている。
既に女性アイドルの頂点に立った自分達に、さらに言えば全てのアイドルの頂点に立っている【アポカリプス】にすら、反旗を翻し挑まんとする5人の少女達。そしてその先頭に立つ少女──甘粕清蘭。
彼女が放った''熱''が、今でも全身を焼く。全てを凍りつかせるような己の魅力にすらも負けなかった、その太陽が如き''熱''に──鼓動が高鳴る。
「……ふふっ」
再度、微笑みの声が漏れる。運転手はもう何も言わないし、アリスもまたそのことを意にすらも介していなかった。
ただ、その瞳の奥には視界に映る夜の光よりも強く、熱い輝きがあって。
「頑張ってね。清蘭ちゃん、そして…… 【12345!】の皆」
と、明らかに名指しを行い期待の言葉を呟くと……それ以降、アリスは微笑みを絶やすことなく帰途の道を楽しんだのだった。