追いつきたい。辿り着きたい。
「したがって、Xの解は26、Yの解は52、という風になる。ここの公式はテストにも出るから覚えておくように」
教室に、教師の小気味いいチョークのリズムが刻まれる。
後ろを振り向けば、生ける屍ではなく、あくびをしたり退屈そうにしているもののそこにはしっかりと生気を取り戻した生徒達の姿があって。数学教師は仄かに感動していた。
倫人が"ツブヤイター"に"九頭竜倫人再始動"を投稿してから1週間が経過した6月22日の月曜日。日本中に蔓延していた"倫人様ロス"は消滅していた。
日本を覆い尽くしていた嘆きと悲しみのムードは、6月に入ってから異常気象とも呼ばれた梅雨と共に消え去っていた。秀麗樹学園はそれよりも先に清蘭の演説によって活気を取り戻していたが、倫人の呟きによって完全に日常に戻っていたのだった。
全く以て、九頭竜倫人という存在の影響は計り知れない。と、改めて実感をしつつ、数学教師は自らの仕事に専念する。
「よし、それじゃこの問題の答えを……能登鷹、答えられるか?」
「……すぅ……すぅ……」
「能登鷹? おーい能登鷹?」
「わひゃっ!? な、なんれひゅか!?」
「いや、この問題を答えられるかって聞いてたんだが……寝てたのか?」
「あ……はい。すみません……」
「なら仕方ないな。最近居眠りが多くなって来たし、成績落とさないように気をつけろよー。じゃあ別の誰かを……じゃあ甘粕、いけるか?」
「ぐがーっ……ぐがーっ……」
「いやお前はもう少し遠慮しがちに寝ろ」
(ま、また寝ちゃってたんだ私……)
豪快にいびきをかいて爆睡する清蘭に教師が呆れの顔をする中、先に指名されていた音唯瑠は人知れず顔を紅くする。
元々、音唯瑠は優等生だ。それも、秀麗樹学園の中でもトップクラスの成績を修めるほどに。
故に、居眠りなどは一度もなかった。どんな授業でも真面目に受け、礼儀正しく接する。清蘭とは違った意味で生徒の規範足る存在として教師の間では認知されているくらいだった。
しかし、そんな音唯瑠が最近はよく居眠りをするようになっていた。一体何があったのかと、教師やクラスメイトの間で少し話題にもなっていて。
(ランニング……やっぱりちょっと控えた方が良いのかな……?)
その原因は、早朝に10kmランニングをしていることだった。
清蘭、エデンやエルミカに比べ明らかに体力不足であることを痛感してから、音唯瑠は毎日欠かさず10kmの走り込みを行うようになっていた。
それが故に、授業中に居眠りをすることが増えてしまい。このように教師から軽く注意を受けたりもするようになってしまっていた。
(どうしよう……。成績落としたらお母さんが心配するだろうし……これ以上迷惑かけたくないな……)
学生の本分はあくまでも勉強、それが疎かになってしまっては本末転倒。女手一つで育ててくれた母のことも思うと、尚更で。
そんな真面目な性格と、あともう一つの理由──実はこちらの方が、大きなもので。
それは、単純に辛く苦しい、というものだ。
毎日毎日、睡眠時間を削り、朝から一日の体力の大半を使い果たすような走り込みの日々。マッサージやストレッチを行っても取れない筋肉痛は生活の様々な部分で支障をきたし、授業中には頻繁に睡魔に襲われて。
(ここら辺が……限界なのかもしれない)
苦手なことをここまで継続出来たことが、逆に凄かったのかもしれない。ランニングばかり続けていても、あまり意味はないのかもしれない。と、そう半ば自分を納得させる音唯瑠。
(明日からは……2日に1回くらいで良い……かな)
妥協案を己の中で定め、もうその考えに身を委ねようとしたその時──
『悔しいけど認めるしかない。あんたは……凄い。言葉の節々から、それが分かる。あれだけ言ってのけることをやって来たんだなって、あたしも直感で分かった』
『す〜ごい努力が要るのは分かるよ。ボクも、今日だけで''日本一のアイドル''の大変さがす〜ごく分かったし。でもだからこそ、やっぱりなりたいなって思ったんだ』
『あなたの言葉はごもっともです。しかしながら、わたくし達の本当のパフォーマンスを見る前から決めつけるのは時期尚早だと思いますよ』
『ワタシ達は、もう決めてるんデス。誰に何を言われようと、世界中から無理だって笑われても……なるんデス。''日本一のアイドル''に、倫人様のように』
(……!)
脳裏に過ぎったのはあの日の──アリスに''日本一のアイドル''を諦めるように告げられ、言い返した時のこと。
アリスに現実を教えられ、それでも全く譲る気のない皆の強い眼差し。その中には
『……でも、あなたの言葉で目指すのを止めるほど、私達の決意は弱くはありません。私達は、''日本一のアイドル''になるのを決して諦めません』
そんな皆と同じような顔をして、アリスに言い返している自分の姿もあった。
(……私。弱いなぁ)
''言うは易く行うは難し''
それを身を以て思い知った。そして、自分一人の弱さも改めて。
その後の授業は、もう眠たいと思うことはなかった。なんなら、最近の中でも比較的目が冴えてるほど。
しかしそれは……己の不甲斐なさに抱く悔しさからであって。音唯瑠は黒板も見ることもなく、ただ文字の羅列としか認識出来ない教科書に視線を落としていた。
「ぐびっ……ぐびびっ……ぷっはぁーー!! くぅーやっぱり美味いわねーエデン達のオレンジジュースっ!! で、今日は何本持って来てくれたの?」
「前回と同じく、3本です」
「えぇーもっと持って来てよー!」
「駄目デス。清蘭先輩は飲み過ぎると酔いどれちゃいますデスから!」
「ちえーっ! 何よブルジョワのくせにケチってんじゃないわよ!」
「……あ、あはは」
失意に沈んでいた音唯瑠だったが、今ではその顔は苦笑いを浮かべている。
昼休み、最早恒例となった生徒会室での昼食。仕事終わりのビールを飲み干すかのような清蘭と、後輩でありながら長年連れだった妻のように窘めるエデンとエルミカ。これもまた見慣れた光景となっていたのだった。
「全くもー! あたしは生徒会長よ!? 生徒会長の言うことは絶対でしょうが!」
「いえ、そうは思いません。生徒会長はそもそも権力を横暴に振るい自らの意のままに学校を運営するのではなく、どのようにすれば生徒達が充実した学校生活を送られるのかを第一に考えるべきだと思いますが」
「そうデスよー! 人の上に立つからには、ノブレス・オブリージュが求められるものデスよー?」
「の、のぶれす……? と、とにかく生徒会長命令よ! 明日は今週分含めて100本持ってきなさい!!」
「くっ、なんという邪知暴虐の女王だ!」
「これにはメロスも激怒デス! 」
「あ、あはは……」
清蘭とエクスカリス姉妹のやり取りに、音唯瑠は再び苦笑い。
(でも……清蘭さんだいぶ変わったなぁ……)
が、そう思い至るとその顔からは苦みが消えて、穏やかな微笑みとなっていた。
未だにエデン達とあーだこーだと舌戦を繰り広げる清蘭だったが、その雰囲気が以前とは打って変わっていたことで。
(前までの清蘭さんなら、もっと自分の意見が絶対って感じで、自分の思い通りにいかなかったら子どもみたいに我儘言って凄く怒ったりもしてたけど……。今は、なんか……柔らかくなったなぁ)
エデンやエルミカよりも近く、そして長く清蘭を見て来たからこそ、それは分かる変化であった。
精神性や性格面で言えば、最も"グループ"での活動には向いていなかった清蘭。しかし、そんな彼女もまた、この短期間で目覚ましい成長を遂げている。
それを自覚すると、胸の中で何かが生まれていて。音唯瑠は、口に出さずにはいられなかった。
「清蘭さんは、凄いですよね」
「だから──え? 音唯瑠どうしたの急に……って、まぁ当然よね! あたしってば天才だから!」
「エデンさんとエルミカさんも、清蘭さんと同じくらい凄いです」
「あ、ありがとうございます音唯瑠先輩。しかし急にどうしたんですか?」
「嬉しいデスけど、どうしたんデスか音唯瑠先輩?」
「3人だけじゃない、白千代さんも凄い、そう私は思ってるんです。皆、どんどんと''日本一のアイドル''に向かって真っ直ぐに突き進んでて、凄いなぁって」
清蘭も、白千代も、エデンも、エルミカも。自分からすれば倫人と同じくらい凄くて、憧れの存在に音唯瑠は見えていた。
だからこそ、より頑張ろうと思えるようになる。
皆の突き進む速さに、追いつきたいと思えるように。
倫人がいる場所の高みに、辿り着きたいと思えるように──。
「だから、私もそれに負けないくらい、頑張らなきゃって思うんです。ちょっと……弱気になることもあったんですけど、もう吹っ切れました」
音唯瑠は微笑みを浮かべていた。
穏やかで、優しさの溢れる音唯瑠らしい笑顔。
しかし、それは同時に揺るぎない心を宿した新しいものになっていて、静かだが確実に燃ゆる闘志を感じさせた。
「……ふーん。なんかよく分かんないけど、音唯瑠が吹っ切れたんなら良かった。それに、あたしからすれば音唯瑠だって凄いからね!」
「へっ?」
「そうですよ音唯瑠先輩。それに、音唯瑠先輩は誰よりも一生懸命にレッスンに取り組んでいるじゃないですか。どんなことにも一生懸命に取り組む、というのは簡単そうに見えて簡単ではありませんし」
「そうデスそうデス! 音唯瑠先輩は歌が凄くお上手なのもデスが、レッスンへの一生懸命さを何よりも尊敬していますデス! ''初心忘るべからず''デスよまさに!」
エデン、エルミカの褒め言葉に口を開けてぽかんとする音唯瑠。
周りからすればそう見えていたんだと、自分では気づかなかったことを知っていく。……そうして。
「そーそー! 何よりも、最初の頃に比べたら音唯瑠の成長スッゴいからね!! あたしも負けてらんないなーっていつも思ってるよ!」
最後に、裏表のない笑顔をした清蘭からの言葉を聞き、音唯瑠の心は決壊した。
「ふぐ……ふえぇ……!」
「えぁーっ!? ね、音唯瑠!? どうして泣くの!?」
「清蘭先輩、音唯瑠先輩泣かしちゃ駄目じゃないですか!」
「清蘭先輩、またプロデューサーさんに言いつけますデスよ!?」
「あ、あたしそんな変なこと言ってな……とにかく音唯瑠? ほら泣かないで? ねっ?」
「ひっく……ぐすっ……わぁあぁぁぁん!!」
前回は号泣した清蘭を自分が慰めていたが、今は逆の立場になった音唯瑠。
その泣き声は、昼休みをとっくに終えても留まることはなかった。
(……自分で決めたことなんだ。清蘭さん、白千代さん、エデンさん、エルミカさんと一緒に、隣に並べられるように頑張るってことは)
大号泣をしている最中、脳裏には、切磋琢磨し合い、苦楽を共にする大切な仲間達の顔が浮かんだ。
傍にいてくれる大切な人達であり、その隣に立ちたいと思わせてくれる4人の姿があって。
そして──
(見ていてください、倫人さん)
自身の憧れであり、大好きな人の──倫人の姿も思い起こす。
倫人のことを想う度に強く速くなる鼓動は、恋慕のそれでもあり、同時に武者震いのそれでもあった。
自分一人じゃ、全然ちっぽけで。
それでも、皆と一緒なら何でも出来そうな気さえもして。
(皆さんと一緒に……私は"日本一のアイドル"に、なりますから!)
涙を片手で拭いながら、音唯瑠は自らの胸に手を添え、高鳴る音を実感しながら決意を新たにしていたのだった。




