甘粕清蘭、そして皆のスタートライン
「うぅ……」
5月16日、土曜日。午前10時26分。
とある扉を前に、清蘭は躊躇っていた。その扉は少し汚れも目に入り、老朽化も目立つような鉄製の扉。それでも、そのくたびれ具合にもすっかりと見慣れ、愛着も覚え始めた──881プロのものだった。
(な、何緊張してんのよあたし。皆に会ったらパーッと言えば良いじゃん、『ごめんごめん! レッスンサボって! これから頑張るからさ』って)
深呼吸をしつつ、頭の中では謝罪の弁を考える。
倫人の言葉で元気を取り戻し、ようやく881プロ事務所の目の前まで来れるようになった清蘭。ここまで来た以上、賽は投げられている。後はもうこのドアノブを回して中に進み、頭の中のシミュレーション通り、いつもの自分らしく笑いながら謝るしかない。
その後もシミュレーションと深呼吸を何度も繰り返して3分後、ようやく決心がついた清蘭は遂にドアノブに手をかける。手が汗ばんでいるのは5月に似つかわしくない暑さのせいだと思いこみつつ。
「っ……!」
清蘭は扉を開けた。
思い切っていたが為に扉はゆっくりではなくすぐさま開かれて。
そうして、中の様子はすぐに目から飛び込んで来た。
「あっ……」
一番手前にいた黒髪の少女、能登鷹音唯瑠は振り向くや否や驚きと憂いの籠もった表情を向けて来て。
「おぉ~清蘭ちゃん」
長テーブルを挟んで立っていた白髪の美女、大山田白千代は普段と変わらないマイペースさと微笑みを見せて。
「「清蘭先輩……」」
2人よりも少し奥側に立っていた赤髪と水色髪の2人の少女、エデンとエルミカは口を揃えて同時に自分のことを呼んでいて。
「っ……」
皆と目が合った瞬間、清蘭が入念に行っていたシミュレーションは全て頭の中から吹っ飛んでいた。まるで鏡映しとなってしまったように、皆と同じように清蘭も固まってしまう。
「や、やっほー皆おっはよー! 今日も良い天気だね~! あたし思わず夏かと思っちゃった! ほら、汗もかいちゃったしさ~!」
それでも、清蘭は何とか笑顔を表情に貼りつけると、無難すぎる話題に触れた。
しかし、心のどこかでは分かっている。まず自分が最初にしなければならないことを。なのに、その言葉がどうしても口から飛び出してはくれなくて。
ただ誤魔化すかのようにしか出来ない自分に苛立ちも覚えかけていた……その時だった。
「清蘭さんっ……!」
「わっ……!?」
唯一、自分の名前を呼ばなかった少女が、一番手前にいた少女が思わぬ行動に出ていた。
鈴の音のような綺麗な声に涙を混じらせて、音唯瑠が抱きついて来たのだ。
「ね、音唯瑠っ……?」
「清蘭さんっ……良かったです本当に……! このまま清蘭さんが来なくなったら、どうしようって、私ずっとずっと不安で……!」
普段は控えめで、あまり感情を昂らせたりしない音唯留が。この時ばかりは、憚ることなく泣いていた。まるで自分と同じように、誰にも遠慮することなく、感情の赴くままに任せていた。
それでも、音唯留と自分自身との決定的な違いを清蘭は知ることになる。
「清蘭さんが傷ついて落ち込んでて、私何かしなきゃって思ってるのに……何も出来なかった……! どんな言葉なら、清蘭さんを励ましてあげられるんだろうって分からなくて……私、清蘭さんに何もしてあげられなくて……! ごめんなさい……清蘭さん……! 苦しかったよね……辛かったよね……!」
(音唯瑠……)
音唯留の流す涙は、全て清蘭の為のものであった。
常に自分のことしか清蘭は考えられなかった。考えていなかった。倫人との電話の時に流した涙も、自分だけの為のものだった。
だが、音唯瑠は根本から違っていた。自分の無力さを嘆いているのではなく、清蘭の悲しみや辛さを思い、寄り添う為の涙。
「ありがとう、音唯瑠……!」
それを、頭で理解した訳ではなかった。
ただ、音唯瑠の流す涙、音唯瑠という存在そのものの温かさを心で感じ取り、清蘭も両腕をその背に回して抱き締めていた。
──親友──
その言葉を、本当の意味で心で理解した清蘭。理屈ではなく、音唯瑠がまさに親友だと清蘭は泣きながら改めて思っていた。
清蘭と音唯瑠が共に抱き締めあい、共に泣き合った。美しい協奏曲のようにも聞こえた泣き声の時間は終わりを告げ、清蘭も音唯瑠も互いに涙を拭うと。
「……おかえり」
「……ただいま!」
音唯瑠は静かな微笑みを、清蘭は朗らかなはにかみを見せ合っていたのだった。
「うんうん。女の子の友情か、感動的だね。それじゃ、そろそろこっちを向いて貰おうか」
「!」
その声がしたのは、清蘭達は普段座らない席……一般的な業務用デスクからだった。
この881プロでそこに座るのはただ1人だけで。清蘭は気持ちを切り替えて、真剣な眼差しをそちらに向けた。
「……プロデューサー」
「やぁ清蘭ちゃん、おはよう。集合時間ギリギリだったけど、遅刻はしてなかったよ」
「う、うん」
「よし、じゃあ皆も揃った所で、早速今日のレッスンを始めようか。皆忘れ物のないようにね」
そう言うとプロデューサー、矢場井雄和太は、まるでいつもと同じように振る舞っていた。それは清蘭の中では意外すぎることで。逆に清蘭は困惑してしまう。
あの日、雄和太に言われたことがショックでレッスンにすら来なくなっていた清蘭。倫人の言葉で己自身を見つめ直し冷静になった清蘭には、それがどれだけいけないことなのかも分かっていた。 まずそのことに触れられるとばかり清蘭は思っていたが、雄和太はそのことに触れないでいた。
(許して……貰えたのかな?)
移動用の車の用意の為に先に部屋を後にしようとする雄和太の背中を見つめながら、清蘭はそんな疑問を抱く。
これまでの清蘭であれば、それだけで許して貰えたと思っていただろう。自分のことばかりを考える、清蘭であれば。だが──
「プロデューサー、本当にすみませんでした!!」
清蘭は──自ら謝っていた。深々と頭を下げて、しっかりとした敬語を使って。
それはこれまでの"甘粕清蘭"という少女を知る者からすれば、あまりにも驚きの光景であった。現に音唯瑠も白千代もエデンもエルミカも、今頭を下げている少女が清蘭なのかと疑いそうになるくらいに。
「練習をサボっちゃってすみませんでした! それとあのっ、アイドルを舐めててすみませんでした! あたし、これから頑張るから、そのっ……許して下さい!!」
清蘭は頭を下げたまま、必死に謝罪の言葉を伝えた。
雄和太は扉を開けたままの姿で固まり、そこから何も言わないでいる。
空気が強張っていく中で、それでも清蘭はずっと頭を下げ続けていた。滅多にしたことのない不慣れなお辞儀の状態に、徐々に身体が拒否反応を見せ始めても、ずっとずっと。
「……清蘭ちゃん。君は、どんなアイドルになりたいんだ?」
沈黙を打ち破ったのは雄和太の方だった。
そう問いかけられた清蘭は顔を上げ、雄和太の背中を見つめたまま考え込む。
(どんなアイドルになりたいか……)
脳裏に浮かべたのは光輝くステージ
熱狂の渦に呑まれ歓声を上げる大勢の観客
そして、それらの中心で誰よりも眩しい輝きを放つ主人公の姿
今はまだ、その主人公に自分の姿を重ねることは出来なかった。
何せ、そこにいるのは"日本一のアイドル"
自分が一番よく知っていて、自分にとって一番身近にいて、自分の中の一番の憧れで、自分の一番──大好きな人の姿があったから。
「……そんなの、決まってんでしょ、プロデューサー」
別人のようにしおらしかった清蘭に、"らしさ"が戻る。
その顔には、勝気で強きな笑みが自然と浮かんでいて。
その瞳には、疑うことなんて微塵も知らない、無根拠な自信と光が宿っていた。
「なりたいアイドル、それは"日本一のアイドル"よ! 見てくれる人みーんなを笑顔にして、虜にして、魅了して、愛される、そんな"日本一のアイドル"になる! でも、それはあたし一人じゃなくて──皆でねっ!!」
そう言い切ると共に、清蘭は満面の笑みを見せていた。