抑えられないもの
「……──あ……」
見覚えのある天井が視界に映る。
以前にも一度来たことのある、白く清涼感のある天井は保健室のそれだった。
一体いつここに? そんな疑問がまだ霞みがかったような意識の中に浮かびつつ──エデンは身体を起こした。
「あれ……?」
疑問はいつから保健室にいたのかだけに留まらない。
額には熱を下げる為の冷たいシートが貼ってあったり、傍の椅子にはタオルが何枚も無造作に置いてあったり、極めつけには市販の風邪薬の箱が開封して置いてあった。
"誰かに看病をして貰った"形跡。それを確認していく内にぼやけていた意識も徐々に理解能力を回復していき。
「師匠っ……!」
その"誰か"の顔がすぐに思い浮かび、エデンはハッとした顔となる。
熱にうなされ朧げな意識でしかなかった時も、記憶を振り返れば確かにあった。
真剣な顔で、こちらを心配してくれている師匠──倫人の顔が。
「起きたか、エデン」
「……!」
起き上がり、探そうとしたエデン。
しかし、お礼を伝えたい相手は、探す手間もなくあちらの方から声をかけてくれていた。保健室の扉を開けて、ちょうど戻って来た倫人が。
「その様子だと、だいぶ具合は良くなったみたいだな。筋肉の疲労はどうだ?」
「あ、はい……大丈夫です。師匠が私とエルミカの看病をして下さったのですか……?」
「あぁ。エルミカはまだ眠ってるけど、お前だけでも起きてくれて良かった。」
笑みを浮かべながら、倫人は保健室の中に歩を進めていく。安堵しているのを分かりやすく表すように、深々と傍にあった椅子に腰を下ろしていた。
(また師匠が助けて下さった……)
エデンは恩義を感じつつも、再び訪れた身体の異変に意識が奪われる。
身体が熱い。熱はすっかりと下がったはずなのに。
息が苦しい。症状はすっかりと収まったはずなのに。
鼓動が速い。風邪の時よりも遥かに、自分の中で鳴り響いて。
(わわっ……どうしてっ……!?)
倫人が一生懸命看病をしてくれたのに、まだ治っていなかったとなると不安に思うに違いない。エデンは必死に願った。ベッドの中に頭ごとすっぽりと埋め、祈りを捧げる時のように手も組んで。
それでも収まってくれない。これまででも一番強く神に祈っているはずなのに、一向に。それどころか、身体の熱も胸の苦しさも、そして胸の内で響き渡る音もますます激しさを増していく。
(神様……どうかお願いします……! 私の身体を……治して下さい……! 師匠が……せっかく看病して下さったんです……! この後には本番も控えているんです……! どうか……!)
「エデン」
「ひゃっ、ひゃいっ!?」
「……ごめんな」
「えっ……?」
頭がおかしくなりそうだった所で、倫人の口から飛び出た言葉にエデンは驚きを禁じ得なかった。ベッドの中に隠していた顔を恐る恐る覗かせ、倫人の方を見遣ると。
「俺のせいで、2人がこんな目に遭っちまった。本当に……ごめんな」
それは、想像以上の光景だった。
切実さを増した声を発した倫人は、謝るだけでなくさらにその上、土下座までしていたのだから。
「師匠っ……!?」
「昨日、倒れた俺を家まで運んでくれて、しかも自分達の分の【HERO】までも飲ませてくれて……おかげで俺は全快した。でも……それで2人が倒れてしまった。俺のせいだ」
「そんな……! 寧ろ謝るのは私達の方です! 師匠、本当に──」
倒れてしまったのが倫人のせいだなどと、エデン達が思うはずがなかった。
倫人が倒れてしまった時、それは自分達のせいだとエデンもエルミカも考えていた。昨晩、倫人を家に運んで看病するとなった時、2人は【HERO】を飲ませることをどちらも提案し、そしてどちらも快諾していたのだから。
全ては承知の上、しかしそれでも自らが本番のこの日に風邪を引いてしまったのは、他でもない自分のせいだ。……なのに。
「土下座しなくても……良いんだよ。エデン」
真剣さと、申し訳なさと、優しさと──そんな瞳をした倫人の顔が目前に迫り、エデンは正座をした所で固まってしまう。そして、倫人の土下座で引いた熱と収まった鼓動が、再び湧き上がる。土下座を止めるべく両肩に置かれた倫人の手に、伝わってしまいそうだった。
「俺は2人の指導をしながら、俺自身の用事もこなそうとしていた……。そのスケジュールに無理があったんだ。2人じゃなく、俺自身に。……全ては、俺の計画性のなさと過信が生んだことだ。これしか言えないけど……本当に……ごめん。……あと、これも伝えておきたい」
「何……でしょうか……?」
「……ありがとう。エデンとエルミカは、俺の誇りの弟子だ」
最後の言葉。それを言う時だけ、倫人の顔から申し訳なさが消えて。代わりに感謝の気持ちが込められた満面の笑みが、こちらに向けられていた。
瞬間、エデンは自覚する。瞳を見開く程の、衝撃が身体に走る。
(……あぁ……私は……そうなんですね……師匠)
熱も引いていない。
息苦しさも消えていない。
胸の鼓動もドクンドクンと激しいまま。
それでも今湧いてくる感情を、抑え込もうともせず、拒否しようともせず、消そうともせず……エデンは、静かに受け入れた。
「……ありがとうございます。私も……あなたの弟子になれて……誇りに思います」
倫人の手の上に、そっと自分の手を重ねて。
そうして、倫人の浮かべるのと同じように、エデンも微笑んでそう伝えたのだった。
「……ふふーん? 何だか、とぉ~ってもイイ雰囲気デスね?」
「「!?」」
しかし、微笑みを交わし合う時間はその言葉と共に崩壊した。
声のした方を見れば、起きたばかりとは思えないハッキリとしたニヤニヤ顔をしている妹──エルミカがいて。
「なっ、えっ、エルミカっ……!?」
「エルミカ、いつから起きてたんだ?」
「ふっふっふ、それはもちろんお姉ちゃんが起きたのと同時デス! 師匠には無礼を承知で寝たふりをしていたのデスが……まさかお姉ちゃんが……ムフフ……♪」
「お、お前……! エルミカぁあぁああぁああああっっっ!!」
「きゃーーーっ!! 逃げろ逃げろ~~~~!!♪」
一度のみならず、二度も狸寝入り。エルミカのいたずら娘っぷりが炸裂していた。
ある意味、自分の秘密の時以上に隠し通さねばならないことを知られてしまい、既に朱に染まっていた顔がますます染め上がって、エデンはエルミカを追いかけ回していたのだった。
「まぁ、あれだけ動き回れるのならもう安心……と言いたい所だが、まだ2人は横になっていろ」
「えっ?」「へっ?」
追いかけっこも終わり、お騒がせしましたと倫人の謝罪も終え、ようやく始動。かと思いきや、倫人のその言葉が2人のストレッチを止める。
「でも、ワタシ達はもう大丈夫デスよ?」
「そうですよ。一刻も早く、最終確認をしないと本番には間に合わないのではないでしょうか?」
「いや、ダメだ。俺が良いと言うまで、休んでおくんだ。まだ仕上げが出来ていないからな」
「仕上げ……?」
「まぁ、分かりましたデス……」
倫人の言葉の意味を図りかねつつ、しぶしぶベッドに潜り込んでいく2人。そこで改めて自分の身体に意識を向けてみても、熱はない上に筋肉疲労も感じられない。
万全な状態であることは疑いようもなかったが……倫人の目は揺るぎなかった。
「確かに今の2人は熱も引いたし、筋肉疲労もないと感じていると思う。……だが、これからが仕上げなんだ」
「仕上げって、一体何のですか?」
「決まってるだろ。俺のマッサージのだよ」
「「あっ……」」
「先日、俺が倒れたことでエデンとエルミカが出来なかったことは2つある。1つは【HERO】を飲むこと、もう1つは俺のマッサージだ。一応2人が眠ってる間にやれるだけやっておいたが……仕上げだけまだ終わってなくてな」
倫人は拳の骨をパキパキと鳴らすと、意識してかせずにか手を妖艶に動かして。
「──頼むから、あまり大声は出さないでくれよな」
そうとだけ告げると、"仕上げ"を完遂すべく2人に迫ったのだった。