緊急事態発生!?
「くそっ……全く痛みが引かねえ……」
殴られた方の頬をさすりながら、俺はエデンとエルミカの元に帰っていた。しかし頬に刻まれた痛みの方は筆舌に尽くしがたい存在感を放っており、消える気配はない。
「あんのカス女が……理不尽というか情緒不安定というか……とにかく許せん……!」
最後の一撃をものの見事に決めた張本人の顔を思い浮かべるとイライラが止まらん。どうしてビンタしやがったんだと犯人に小一時間ほど問い詰めたい衝動が渦巻いている。
どこぞの宗教では"右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい"という教えもあるんだと。
だが、あのカス女に関しては俺は左の頬は差し出さず、あいつの両頬に全体重を乗せたデンプシーロールをぶち込む所存だ。ちなみに前やったら出来たので、今度事務所直営のジムでサンドバック相手に練習するとしよう。
……ククク、覚悟しとけあのカス女が……いつか必ず地獄を見せてやるからな。
「っていかんいかん。雑念は捨てて、2人の最終調整に集中しないとな……」
怨嗟の鬼と化す直前で、俺は脳裏に浮かんだ2つの顔に人の道にギリギリ踏み留まる。
怒りというものは恐ろしい。つい直前まで俺はなんてことを考えていたのだろうか。これから為すべきことも忘れ、さらにはカスと言えども女性の顔面にデンプシーロールをぶち込むという"日本一のアイドル"失格どころか卑劣外道の悪漢として刑務所にぶち込まれてもおかしくない考えをしていた。
"悪に堕ちる。復讐の為に" そんなキャッチフレーズのゲームがふと頭を過りつつ、俺は正気に返っていた。
「俺のすべきことは、エデンとエルミカを清蘭に勝たせること。目の前の為すべきことに集中だ」
気がつけば既に森林エリアに入っていた俺は改めて気を引き締める。
"終わり良ければ総て良し"……そんな言葉があるが、そもそもその"終わり"というものを素晴らしいものに仕上げるのには入念な準備を行うという前提がある。
終わりに至るまでの道のりの中で、どこで手を抜いたとしてもそれは素晴らしいものにならない。というのが俺の持論だ。
今から行う最終調整も本気で挑まねば実際のパフォーマンスでも最高のものには仕上がらない。清蘭に勝つ為には最高こそが最低限だ。
気合を入れて2人のことを見ていないとな。
「さて、やるか」
森林エリアには俺とエデンとエルミカを除いて誰もいない。わざわざここにやって来る者もいない。その中で俺は"日本一のアイドル"のオーラを全開にし、本気となっていた。
2人に威圧感も与えてしまうが、本番でのプレッシャーにも慣れさせないといけない。それに俺の本気の指導をしないと逆に失礼だというものだ。
もうそこの木を曲がった先にいる2人は俺のオーラに気づいて戦闘態勢を取っているだろうか?
であれば重畳、気の抜けていない証だ。さてさて、2人の様子はどうだ?
「おっ……」
気の抜けたような声を出したのは俺の方だった。
俺が目にしたエデンとエルミカの姿は、戦闘態勢のものではない。しかいある意味では、それ以上に良い反応だったと言える。
何せ、2人は俺が姿を現しても無言のまま、しっかりとストレッチを続行していたのだから。
どうやら思っていた以上に、既に2人はかなりプレッシャーに強くなっているようだ。
"日本一のアイドル"を前にしてもたじろぐどころか、まるで山のような不動ぶり。胆力が備わり集中力が最高の状態と見て良いだろう。
「悪い、待たせたな2人共」
となれば、今からの最終調整も心置きなく行える。
ククク……楽しみだ。2人のパフォーマンスレベルを最高に仕上げ、それを観客に魅せるその時がな!
心の中でほくそ笑みつつ表情は真剣なものにした俺は声をかけたが、2人に反応はなかった。よほど集中力を高めてストレッチをしているのだろう。
念入りなのも良いが、そろそろ最終調整本番に入って行きたいからもうひと声かけとくか。
「おーい。そろそろストレッチは十分だから、最終調整の方を進めて行くぞ」
2人に近づきながら俺はそう声をかけた。が、エデンもエルミカもまだ返事はしない。
よほど集中していると見える。今回の勝負にかける想いの強さの表れだ。
……だが、流石に師匠の指示も聞いて貰わないと調整が進められないから、さらにもうひと声。
「エデン、エルミカ。ストレッチはもう良いぞ。ダンスの確認とか、その他のことをしようか」
今度は具体的な内容もつけての言葉。
……が、それでも2人は動かない。不動明王にも程がある。もしくは俺の言葉も耳に入らないほど、完全に集中し切っていることだろうか。
……そうか! 2人は極限の集中状態……いわゆる"ゾーン"に入っているのか。一流のスポーツ選手ですらも偶発的にしか入れないあの状態に2人が……! まぁ俺は自分の意志で入れるけれども。
ともかく、2人がゾーンに入っているのだとしたら素晴らしい流れだ。
これからの最終調整も上手く行くし、本番では最高のパフォーマンスが出来ることも請け合い。となれば、清蘭への勝率もグッと上がる。
やったぜ。これは嬉しい誤算だ。
2人がゾーンに入っていたなんて、ますます本番が楽しみになって来やがったぜ。それはそうとして、言葉が届かないなら2人の視界に俺の存在を認知させるとするか。
「よっ。最終調整、進めていくぞ」
三度目の言葉は短めに。しかし俺はしっかりと2人の間に立って言い放った。
これで気づかないということはないだろう。いくらゾーンとは言え、周りの人の姿まで見えなくなるというのはない。俺の経験談だが、ゾーンに入っていても人の姿は見える。余計な情報がカットされ限りなく視界に映るものは減るが、それは建物や風景といった動きのないものだ。
今、俺は無駄にレペティッションサイドステップをしている。
これほど無駄な存在感を放てば、ゾーン中だろうが不動明王だろうが嫌でも反応せずにはいられないだろう。さぁ気づけ2人共! 俺の存在に!
「……あ、あれ……?」
が、エデンとエルミカに反応はなかった。
おかしい……。何故だ……?
この"日本一のアイドル"である九頭竜倫人のレペティッションサイドステップでも、存在を認知出来ない……だと……?
動きの種類を変えてみよう。そう思った俺はアイドルらしいダンスを踊ったり、サンバを踊ったり、コサックダンスをしてみたり、盆踊りをしてみたりと様々な種類の動きをしてみた。これならば……と思って。
「全然動かん! ピクリとも反応しねえ!」
だけど、2人はそれでも気づかず、俺はただのマヌケになっていたのだった。
一向に2人は俺に気づかない。もしや、2人のゾーンは俺の知るそれよりも更なる深みに到達しているのか……?
何だかそれはそれで悔しいな! 何としてでも気づかせてやる!
「おーーーーーいっ!! 2人共俺に気づけーーーーーーーっ!!」
もう"日本一のアイドル"とかじゃなく、単純に2人に気づいて欲しい俺はその場で地団太を踏みまくり、さらには身体を揺すってみたりもした──
「えっ……」
そこで、俺は固まった。
2人の身体を揺すった際。
エデンもエルミカも。
俺の手が離れた瞬間に──その場に倒れ込んでいたのだから。