これはある種のハッピーエンドなのかもしれない
変えられない現実を、私たちは少しずつ感じ始めていた。しかし、まだどこか他人事なのは、この視界に色が残っているからなのかもしれない。
『気を付けて来てね』
太陽光が画面に反射して文字が見えにくかった。手で影を作りメッセージを確認する。人と簡単に繋がるために作られた黄緑色のアプリケーションの色は灰色だ。
遅刻すると書かれた言葉に珍しく感じた。君は時間を守る人だから、待ち合わせ時間に来ないという事は中々ない。もしかしたら寝坊したのだろうか。君がよく眠れているのなら良い事だと思う。死の恐怖に怯えて眠りが浅くなる事がしばしばあるという話をした。君には健康でいて欲しいので、寝坊で遅刻をするなら怒る気はない。最も、何をされても私は怒りそうにもないのだが。
背筋を伸ばし頭上から降り注ぐ太陽を一瞥した。私の髪は黒いので、直射日光が集まってとにかく熱い。数十分遅れるのなら、どこか室内に入った方がいいのかもしれないと思いながら熱くなった髪に指を通してみた。夏はまだ終わりそうにもない。
気を付けて来てとは言ったけれど、きっと今頃走っているだろう。私の中の勝手なイメージだが君は何かと走っている気がする。今日も上がった息のまま私の元に来るかもしれない。
信号の先、蜃気楼の中に小さな子供を抱きかかえた男の人が走って来るのが見えた。その表情は必至で、見つけたと思った私は軽く手を挙げて振ってみる。そうすると腕の中に抱きかかえられた小さな子供が私に対して手を振った。にやけそうになる口角を抑える。
信号が変わって小さな子供を降ろした男の人はその手を取って一緒に歩き始めた。横断歩道を渡り切ってこちら側に来た瞬間、子供は私めがけて走って来たので嬉しくなって地面に膝をつき手を広げた。飛び込んできた少女は軽くて私の力でも持ち上げる事が出来た。
「ゆずちゃん久しぶり」
「うん、ひさしぶり!」
「元気だった?」
「うん!!」
天使だ。君の妹である小さな女の子と、私は一緒に出掛ける約束をした。元々、君のお母さんが彼女と出かける予定だったのだが用事が入ってしまい君が引き継ぐ事になった。そして私を誘ってくれた。私はこの小さな天使と何度か会った事があるが、可愛くて良い子で会う度に心を締め付けられた。君が甘やかしたくなる気持ちも充分理解できた。天使と良好な関係を築いていた私は、今日三人で出かける事になったのだ。
「ごめん遅刻して」
顔を上げれば申し訳なさそうな顔で君が立っていた。私は首を横に振って彼女の手を取り立ち上がった。
「よく眠れたなら構わないわ」
君は苦い顔をしたが私はその背中を押して駅に向かった。
一日限定の疑似家族のようだと思った。
子供向けアニメのミュージアム、こんな事がなければ絶対に入る機会がないであろう場所は思いの外ファンシーで大勢の子供連れ家族で溢れ返っていた。キャラクターを見つけて興奮した天使は走り出し、君は慌てた様子で追いかける。私はその背を見て微笑ましい気持ちになった。
ニコニコ笑う彼女とは裏腹に、周りの声は冷ややかだった。どうしてあんなに若い子がいるのか、まさか子供なんじゃないのか、どんな教育をしているのか。口にしてくる人々に冷ややかな視線を送ればくだらない話は一瞬にして止んだ。
人間は低脳だ。いつだって見た目で判断し、誰かを卑下したがる生き物だ。確かに、明らかに年相応ではない格好をした人間もいる。格好からその人の人間性が分かる人物だって存在するのだが。
しかし私はともかく君と妹の彼女はそっくりだ。髪色、顔の作り、眉の形。君を女の子にしたらこうなるのだろうと言わんばかりの似方である。
踏み出した足が少しだけ埋まる感覚がした。子供向けの怪我をしにくいように作られた地面らしい。少し気持ち悪くて変な感覚に陥った。
私は遊び始めた彼女の隣に腰を下ろした。君は後ろで溜息を吐く。元気な彼女に振り回されっぱなしだ。
「来てくれて良かったよ」
一人だったらきっと大変だったわよとは言わなかったが、私は感謝してと言わんばかりの表情で笑った。君は私の言いたかった事を察したらしく眉を下げて口角を上げた。
温かかった。ひと時の幻想だとしても私が求めていた幸せな家庭がここにある気がした。いつか、こんな風になれたなら、もう叶うこともない未来を想像しては掻き消す。君は私に未来があると思っているが、私だけが叶わない現実を知っている。目の前にいる小さな少女は、私の事を憶えていてはくれないだろう。たった一年も一緒にいられなかった存在を、幼い脳では記憶出来ないだろう。最愛の兄の事も思い出せなくなってしまうのだろう。
すれ違う家族連れが羨ましかった。私達はもう、彼らのようにはなれない。成人する事も、誰かと結ばれる事も、家庭を持つ事も無く消えるのだ。跡形もなく、灰になって消える。思い出もこの身体も無彩になって消えていく。
それでもいいのだ。死が、君と一緒であるのなら。
もしも君が無彩病でなかったらと考える事がある。無彩病でなければ私たちは結ばれなかったろう。知り合う事もなかったかもしれない。
もし、君が生き続けて私だけが死ぬ世界なら。私がいなくなった世界で君が笑っているのが嫌だ。出来る事なら私を思って、永遠に泣き続けて欲しい。他の誰かに笑いかけている姿を見たくない。他の誰かと結ばれるなんて見たくもない。私以上に大切な人を作らないでほしい。私が、最初で最後出会って欲しい。
貪欲で醜い私はそう思うだろう。今だって似た感覚を抱いている。しかし、それは永遠に口に出すつもりのない想いだ。
夏祭りの日、君が私をここに縛りつけてくれた。曖昧な嘘を、本物の恋にしてくれた。私は君の隣にきつく縛られたままでいい。小指に結んだ赤い糸なんて可愛いものではない。身体中を縛って、それでも離さないような糸だ。どんなに緩く結んでも解ける事はない。その糸を切る時は、きっと燃え尽きて灰になってしまう時だろう。
きっと二人で死ねるなら、それは一種の幸せな終わりなのかもしれない。
「爆睡してるな」
「そうだね」
君の背中に身体を預け眠る少女の姿は、嬉しそうに頬を緩ましている。帰り道を歩く背に長い影が伸びていくのに気づき、太陽が落ちていく事を知った。赤が見えなくなってしまったのは結構不便だ。
「今日はありがとう、助かった」
「こちらこそ、久しぶりにゆずちゃんに会えて嬉しかった」
背中におぶられた少女の頭を撫でる。子供特有の柔らかい髪が、私の指の隙間を通り抜けていく。
「家族連れ多かったな」
「それはそうよ、だって休日だもの」
「そっか」
「うん」
影は斜め後ろに伸びていく。下り坂から眺める夕日はその色が分からなくとも眩しく輝いていて目に悪かった。
「んー、ここどこ」
「あ、起きた」
目を擦りながら少女が起きる。瞬時に自分が兄の背にいる事を気付いた少女は、嬉しそうに声を上げた。
「にいににおんぶされてる!」
「覚醒早いな」
「楽しかったー!」
「そうだね」
返事を返せばまた満面の笑みをこちらに向けるから、可愛くて可愛くて仕方が無いのだ。
「おいゆずどうしたー」
「あのねにいに!ゆずまた来年もにいにとねえねと一緒にここに来たい!」
君の足が止まった。
その顔を見て、私の表情も固まるのが分かった。
「にいに?」
子供は残酷だ。当たり前に明日を信じている。当たり前に来年が来るものだと信じて止まないから、純粋愚直な言葉を口にする。
「そしたら、ゆず今度はにいに達と何しようかな」
何も知らない無邪気な声が、君の心を突き刺していく。私は特に焦りを感じなかった。きっとこの子の記憶の中から私は簡単に消えてしまうのを理解していたからなのかもしれない。少しだけ悲しいけれどどうしようもない事だ。けれど、君はそうじゃない。
「そうだな、今日みたいに遊ぼうな!」
ひと際明るく振舞って、空に向かって理不尽を叫ぶように君は笑った。ああ、下手くそだ。何て下手くそなのだ。ばればれな嘘を信じ込むのは、きっと小学生までだろう。
「うん!約束!!」
私は何も言わなかった。当たり前を信じて止まない少女の為に、笑ってしまうくらいに下手くそな嘘をつく兄の為にその嘘を見ない振りをした。
演技は最低。三文芝居、大根役者、お金を払っても見る気は出ない三流の舞台を見ているようだった。
守れもしない約束は死ぬ瞬間も忘れず脳裏に残り続けるのだろう。きっと少女は疑う事なく、来年の約束を信じている。この嘘が正しかったのかきっと最後まで分からない。しかし誰かのためにつく嘘が悪い事だとは思えなかった。
当たり前にしていた未来の話が、当たり前に出来なくなった。
「こうやって消えていくのね」
自室の窓ガラスに吐いた息は白く染まる。指で一筋なぞれば跡が付く。けれどそれはすぐに消えてしまう。
小さな汚れだけを残して、布巾をひと撫ですれば透明に戻る。
こうやって忘れ去られていくのだ。歴史に残る事もない。誰かから思い出される事も少なくなっていって、世界から取り残されて消えていく。君と一緒なら消えていくのも悪くはない。そう思っていたはずなのに、迫る時間に私は恐怖を抱き始めている。もしも先人が死を味わって、それを伝えてくれたなら誰も怯える事は無かったのになと思う。私達は簡単に死を受け入れられたのかもしれない。
一人で産まれて一人で死んでいく。終わりも始まりも、孤独な事には変わらない。私は一人じゃない。死は君と一緒だ。もしかしたら私は恋心と死の恐怖を、君と共にする事で逃れようとしていたのかもしれない。
「最低ね」
自分に対して何回も放った言葉は誰にも聞かれないまま消えていく。人間らしくない、欲求もない、人形のように生きてきた自分が欲望を知った瞬間誰よりも人間らしくなったなんて笑い話にもほどがある。
「永遠に続く物語なんてないのよ」
永遠に続く人生はどこにも存在しない。しかし、今だけは永遠を信じたかった。君に来年の今日を過ごして欲しかった。終わりそうもない夏は一瞬で過ぎ去ってしまうだろう。もう二度と味わえない暑さ、輝く星、零れる汗、空を彩った花火さえ、次はないのだ。
「どうしようもないね」
ベッドに倒れこんで真っ暗な部屋で一人天井に向かって手を伸ばし続ける。
遠くから、死の足音が聞こえた。