ねえ、笑ってよ
どうしようもない現実の連続だった。文化祭を終えてから、嫌というほど現実を見せられ、悪夢に苛まれている。息が苦しくて飛び起きた先、そこは真っ暗な部屋だった。秋の美しい月がカーテンの隙間から部屋に差し込み、一筋の線を作り出していた。時刻は深夜零時。夜はまだ明けないままだ。
怖くなって携帯電話を手に取った。君に連絡をしたかったのだ。返事なんて返って来るとは思わない。悪夢を見たからと言って夜中の零時にメッセージを送るような面倒な女になるとは思わなかった。しかし、この手は確かに震えていた。
『明日会えますか?』
怖かったなんて言えなくて、君が目の前から消えて灰になった夢を見たから今すぐに抱きしめて声を聞かせてなんて、何も言えなかった。ただ、一秒でも早く会いたかった。けれどここで言う明日は夜明けの事になるのか、次の日の事になるのかは分からなかった。私としては夜が明けた瞬間に走り出してこの瞳に君を焼き付けたい気分だった。
『平気だけどどうかした?』
思いもよらない速さで返事が返ってきて、私は思わず固まってしまった。こんな時間に何で起きてるのとか、早く寝なよ風邪引くよとか、口を開けばお小言を言ってしまいそうなのに目の奥が熱くなるのは何故だろう。嬉しかったのだ、多分。君がまだこの世界にいる事を確認したかった。
『ちょっと、色々とありまして』
馬鹿みたいな理由だ。悪夢を見たから抱きしめて欲しいなんて、くだらな過ぎて自分でも涙が出るくらいだ。けれど、それを笑えないのは、そう遠くない未来に私たちの視界が灰になって消えてしまうからだろう。
死んだ後の事なんて分からない。ただ、一つ言うとすれば、きっと死んだ先は無だ。愛も恋も存在しない。輪廻転生とか、そんな知りもしない概念を信じられるほど夢見がちでもない。何もないのだ。私が愛した人も、いつかは誰かの記憶から消え去って死んでしまう。
だから、どうすればいいのか分からなかった。
『何だよそれ。まあ会ってからでいいや。うちの家で良い?』
言及もせずに、文句も言わずに今日の一時にと言葉を続けた君が、もうどうしようもなく好きで切なくて悲しくて、私ばかりが君の事を好きでいるような気がしてならなかった。
『大丈夫。ありがとう』
それでもいいのだ。大事な事は愛されるよりも愛する事だったと、どこかの誰かが言っていたから、私もそれに習おうと思う。愛される喜びが与えてくれた感動は何物にも得難いが、とめどなく溢れる想いを抱き続けていれば、きっとそれが私の支えになってくれると信じていたい。
目を閉じて夜が明けるのを待った。ゆっくりと襲い来る睡魔に身を任せ、今度は君が笑っている夢を見られるようにと願った。
この想いが行きつく終着点が碌なものではないのを、私はとうに理解しきっていた。
「ごめんなさい、無理言って」
「いや、別に大丈夫だよ」
目を覚ました時から降り続けている雨は、午後一時の段階でも止まなかった。お気に入りの傘を差して、洋菓子を片手に早足で君の家に向かったのが三十分前の事だった。開いた玄関の先から、いつも通りの君が見えて酷く安堵したと同時に抱き着きたい衝動に駆られたのは言うまでもないだろう。しかし、行動に移さなかったのは私の最後の理性がブレーキをかけてくれたからだ。会った瞬間に抱き着くなんて、何かあったと一瞬で言っているのと同じだ。
雨音が窓の外から聞こえる。少し蒸し暑い部屋の中、テーブルの上に乗った二つのグラスが輝いて見えた。灰色の液体はただの麦茶だというのに美味しそうに見えて、私は一口だけ口をつけた。
シンプルな部屋だった。異性の部屋に入ったのはこれが初めてで、そして最後になるだろう。もしかしたらこの先君の部屋に来る日があるのかもしれない。けれど、今それを想像する事は出来なかった。必要最低限の家具は全て黒で統一されていて、真っ白な壁に良く映えていた。
「ちょっと妹と喧嘩して、家に居づらくなって」
嘘だ。理由を言いたくなかったから、また君に嘘をついた。これが何回目の嘘だろう。もう数え切れないくらい君に嘘をついた。
「姉妹喧嘩かよ、そんなに深刻だったの?」
笑いかけた君の視線に気が付き頬を膨らませたが、君は気が付いていないらしい。
いつもより少し気の抜けた格好でベッドに腰掛けている君は魅力的だった。私の心は今日の空と同じように曇り空で、優しい言葉をかけられてしまえば、あの雨のように泣き出してしまいそうだった。
静かな、それは静かな時間だった。つけっぱなしのテレビから流れる声は私達とは正反対の明るい声を出している。雨音はシトシトと、悲しんでいるような音に聞こえた。全てがここよりずっと遠くの世界で起きているような気がした。そして、このまま続けば心までもが死んでしまいそうだった。
「なあ」
不意に、君が私を呼んだ。君の視線はつけっぱなしのテレビに向けられていた。私は黙って君の隣に腰掛ける。雨はまだ止まない。テレビのリモコンに手をかけ電源ボタンを押して消し、君は器用にテーブルの上に投げた。そして、私を見つめた。
「雨、止まないな」
「そうね」
嘘だ。窓の外なんて、一ミリも見ていないくせに。
君の手が肩に触れて、そのままゆっくりとベッドに押し倒された。指先が触れる。私は何も言わない。覆い被さってきた君の額がゆっくりと近づいていく。私は何も言わない。これから起こる事を分かっていた。そしてそれを受け入れる準備が出来ていた。
意外だ。こんな時緊張して恥ずかしくなって堪らなくなって、君の顔すら見えなくなるのかと思っていたのに、私は酷く冷静だった。それはきっと、私たちが普通の恋人同士ではないからなのかもしれない。これから起こるであろう事にときめくのではなく、ただ胸の奥が痛くて堪らなくなった。
唇と唇が触れた。
悲しい。
しがみつくように縋った。零れそうになる涙は、この胸がもう限界だと叫んでいる証拠だった。壊れる手前だった。いや、もう壊れていたのかもしれない。悲しそうに笑う君の顔が忘れられなくて、乱れた髪が、汗ばんだ身体が、理性を失った声が全てがこの先の死へと直結していた。
雨はまだ止まない。
昨日眠れなかったせいで疲れて眠ってしまっていた私の耳に最初に届いたのは雨音と君の声だった。
「ごめん、起こした?」
「大丈夫…」
サイズの合わない君のシャツからは君の匂いがした。陽だまりのような、温かな匂いだ。柔軟剤の匂いなのかは分からない。けれど、君からしか香らない匂いだ。
目を擦りながら君を見た。
「なに?」
その言葉に何でもないと笑った。そんなに愛おしそうな目で見ないで欲しい。そんなに悲しそうな顔で笑わないで欲しい。だって、それはもう終わりを悟った顔だ。
君の首元に顔をうずめた。ゆっくりと私の頭を撫でる手が心地よくて、この時間が永遠に続かない事を教えてくれた。最後の日に、今日の日の事を思い出すのだろうか。あの時はこんな事があったと、思い出として笑えるのだろうか。全てを受け入れられるのだろうか。二人しか知らないこの思い出は、私たちが死んだ瞬間に消えてなくなってしまうのだろうか。
一緒に生きて欲しいと言えたなら良かった。この先も一緒に生きて、何度も同じ季節を過ごして未来を歩こうなんて、プロポーズ染みた事言えたら良かったのだ。そんな奇跡が起きれば良かった。
けれど、現実はそうはいかない。私は君と一緒に今すぐにでも死んでしまいたい。
そして、また一つ嘘をついた。
「ねえ」
「なに?」
「大丈夫だよ」
嘘だ。小さい声だった。必死に絞り出した一言だ。でもこれが限界だった。嘘まみれの私の唯一の真実が、君を好きな事だけだった。
「私はずっと一緒にいるよ」
君にしがみついた。いつもよりもずっと密着して、その表情を見ないようにした。
「一人にさせない」
一人にしないで欲しい。大丈夫だと言って欲しい。未来を最後まで信じて欲しい。私の命を最期まで好きに使っていいから、どうしたって構わないから、だから、君に言わない事を許してほしい。好きだから、大好きだから、愛しているからこの我儘を許してほしい。一緒に死にたいという思いすらも壊して欲しい。最後に残り続ける理性が、最期まで君の生きる希望でありたいと願っている。
小さな泣き声が雨に紛れ込んで聞こえた。君は意外にも泣き虫だ。そんな所も愛おしくなった。知れば知るほど好きになって、離れるのが惜しくなっていく。一秒でも長く一緒にいて笑っていたい。残された時間の全てを君と一緒にいたい。
愛の形が人それぞれだと言うのなら、この歪んだ嘘も愛だと言ってくれ。




