告白 (1)
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アカリと一緒に美術館へ訪れた日以来、僕とアカリは学校でもよく話すようになった。すれ違う時に挨拶をするようになったし、何かお互いに伝えたいことがあれば立ち止まって少し話をすることもあった。きっと僕らの周りは不思議に思ったことだろう。これまでまったく接点のなかった二人が突然、ずっと知り合いだったかのような距離感で接しているのだ。でもそれは僕らにとっては些細なことだった。これまで僕は責任感と惰性で学校に通っていたことに気づいた。もちろん勉強をすることは好きだったけれど、それは学校に来る目的だ。僕は学ぶことだけに生きていく上での楽しみを求めることはしていなかったことを知った。それほどに、僕はアカリと話をすることがとても楽しかった。
彼女はよく、大学の図書館か僕らの学部の棟にある空き教室にいた。そこでレポートを書いたり勉強をしたり、時々勉強とはまったく関係ない本を読んでいた。彼女は読書も好きだった。僕もそこそこ本を読むから、彼女がどんな本を読んでいるかを確認してはタイトルや作者を密かにメモをした。しかし彼女が読んでいる作品のジャンルはまるで統一性がなかった。純文学を読んでいるかと思いきやSFやミステリーを読んでいたり、あるいは心理学のノンフィクションだったり、ましてやドキュメンタリーだったりした。僕がその中で読んでみようと思ってリストの一番上に持ってきたのはサイモン・シン著作の「フェルマーの最終定理」だ。フェルマーの最終定理のあのセリフはあまりにも有名だろう。彼女が言うには、その作品は天才数学者のアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明するに至った経緯をドキュメンタリー形式でまとめているらしい。なるほど、数学が大好きな僕はまさに読むべき本なのではないか。またひとつ、彼女から教えてもらったことが増えた。
僕が学校で授業以外の時間にアカリを見つけることができるのは週一回か二回だ。その姿を見つけるたびに彼女に声をかけた。でも彼女は集中するとそれ以外のことをすべて無視してのめり込む。音としては聞こえているけれど、それが自分に向けられたものだという判断を疎かにしてしまうんだそうだ。正直なところを話すと、最初に声をかけた時は無視をされているのかと思った。それくらい、彼女は無反応だった。ただ偶然、その時は集中が切れるタイミングと重なり、近くに立って困り顔の僕を見た彼女がものすごい勢いで謝ってきて、彼女のその性質を知った。僕らはまだお互いに知らないことがたくさんあるのだということを、僕は思い知った。
だから今は彼女の姿を見かけたときには、僕は形だけ一言だけ声をかけて、近くの席に座って彼女の集中が途切れるのを待つことにしている。もちろんその間は僕も自分のやりたいことをやっている。何かに集中している彼女は静かで、なんだかとても強い人間に見えた。僕はそんな彼女の姿勢もいいと思った。
一度、彼女に勉強する場所について尋ねたことがあった。
「アカリさん、一人暮らしをしているなら、家で勉強した方がいいんじゃない?」
その時彼女は、やっぱり至って真面目な顔でこう答えた。
「うち、狭いから勉強用の机を置いてないの。代わりにテーブルやるしか選択肢がないんだけど、そのテーブルはコタツを兼用しているから普通のテーブルより微妙に高くて。だから座って勉強するとすぐに体が疲れる。学校の方が居心地がいい。」
それに、と彼女は続ける。
「ほら、わたしは怠け者だから、家だと寝てしまう。」
アカリと僕は一緒に笑った。僕としては彼女が学校にいてくれた方が会える機会があるから、それは朗報だ。
僕の選択していた授業が終わり、もう夕方になろうという時間帯、講義が入っていない教室を探して入るとアカリがいた。僕は彼女から適当に距離を取った場所の椅子に座って、外を眺めた。もうすっかり秋めいてきていて風もだんだんと冷たくなってきた。窓の外に見える木の葉が赤かった。だんだん高くなってきた空には、月が見える。もうすぐ満月みたいだ。
彼女が顔を上げて僕を見る。
「おつかれさま。」
「うん、疲れた。この集中しすぎる癖、ずっと直したいと思っているのに、全然無理ね。今日もナオくんが来ていることに全然気がつかなかった。」
「癖というより、もうそういう脳の使い方になってしまっているんだと思うよ。」
「自分ではとっても非効率だと思うんだけどなー。」
彼女は伸びをして、ふいに僕に尋ねた。
「ナオくん、今日このあと時間ある?うちにご飯食べに来ない?」
僕は固まった。彼女の提案はいつでも突然だ。むしろ突然じゃなかったことの方が少ないのではないだろうか。僕が他人に対して抱いている距離感を、彼女は簡単に越えて近づいてくる。
「えーっと、うちというのはアカリさんが一人で住んでいるというお部屋のことでしょうか?」
「なに変なこと言ってるの。うちってそれくらいしかないじゃん。それとも今から田舎まで行く?」
「田舎は遠慮しておくよ。でもなんで急に?」
「昨日考え事をしながら買い物をしていたら、思った以上に食材を買いすぎた。」
その理由に僕は笑った。けれど少しだけ心配になってしまった。彼女は普段はしっかりしているのに、一つ何かに集中しているときにそれ以外のことを疎かにしすぎだと思う。前にも、車を運転しているときに考え事に集中しすぎていて、気がついたら家に着いていたことがあったと言っていた。彼女は「運転をしていた時に記憶はある。でもひとつ心配なのは、あの時ちゃんと信号が青だったかどうか。それだけがどうしても思い出せないの。」と言っていた。危険だからやめて欲しい。もし今後彼女が運転する車に乗る機会があったとしても、僕は絶対に乗りたくない。
僕は彼女の誘いに少し緊張したが、断る理由が咄嗟に思いつかなかったし、僕は彼女の住んでいる場所や部屋に興味があったから、悩んでいるのも馬鹿らしくなってしまい行くことにした。
「そういうことなら行くよ。アカリさんの作るご飯を食べてみたい。」
「え、そんなに期待されても、最近寒くなってきたから鍋だけどね?」
「じゃあ僕は日本酒を買って行くよ。」
「あ、それいい!わたしは自転車で一度家まで帰るから、ナオくんはうちの最寄り駅まで来てくれる?迎えに行く。」
「駅についたら連絡するよ。適当に待っているから、気をつけてね。」
「ありがとう。じゃあ、またあとで。」
そう言いながら机の上に出ていた勉強道具をサッと鞄にしまい、風のように去って行ってしまった。そんなに急がなくてもいいのに。僕は呆れながら彼女の後ろ姿を見送っていた。