マボロシが生まれた日 (1)
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ナオの父親が亡くなったのは、彼が小学校五年生の夏休みが終わろうとしている頃だった。
父は何年か前から病気を患っており、入退院を繰り返していた。母は仕事をしながらナオとその二つ下の弟、子供二人の面倒を見て、父のために足繁く病院へ通っていた。そんな生活が続いたのは二年くらいだった。それは、父の死によってその生活に終止符を打った。
暑い暑い夏の日だった。ナオはいつものようにエアコンの効いた涼しい部屋で弟の勉強を見ていた。ナオはまじめというより計画を持って行動するのが得意な性格だから、夏休みの宿題は早い段階で終わらせていた。本を読むことや文章を書くこと、計算をすることが大好きで何か興味のあることがあればそれを学び、お腹が空いたり眠くなったりするまでずっと集中し続けた。代わりにナオは工作が致命的に下手だった。いや、下手だと言えればまだマシだと思えるほどに才能がなかった。どんな人間にも得意と不得意は存在するものだ。
逆に弟の方は何をやってもすぐに飽きてしまった。この夏だって、ナオが机の前に座らせて見張っておかなければ何もやらなかったに違いない。ゲームや遊びには人一倍熱中するくせに、勉強だけはどうしても自ら進んでやることをしなかった。兄弟といってもここまで違うのは、やはり個性なのだろう。
母がお昼ご飯ができたとナオと弟を部屋まで呼びに来た。午後は父のいる病院へ三人で訪問する予定がある。ナオと弟がダイニングへ向かう途中、電話が鳴り、母が電話を取っていた。
その電話は、病院からの父の訃報だった。電話を受けた母の焦燥ぶりは、見ていられなかった。いつかはみんな旅立ってしまうことを知っているし、ましてや病気を患っていた父が長くないことはわかっていた。それでもその時が来る覚悟なんて、言葉では言えても実際の心まで浸透するまでには長い時間が必要だ。母の様子を見かねたナオがすぐに近くへ住んでいる祖母へ電話をかけ、四人で病院へ向かった。
対面した父は、この前来た時に見た姿と何も変わっていなかった。まるで今は寝ているだけですと言っても、きっと家族は信じただろう。
母はずっと泣いていた。弟は、母につられて泣いていた。その間、ナオは唇をきゅっと結び、その光景を眺めながらずっと拳を強く握っていた。
そう、それは暑い、暑い、夏の日だった。セミが、鳴いていた。
葬儀の日も、そのあとも、ナオはずっと泣かなかった。家族が泣いているのを横目に見て、しっかりと前を向いていた。葬儀に来てくれた親戚や近所の人、父の知り合いなんかはそんなナオを見て口々に褒めてくれた。「男だな。偉いぞ。」「父親みたいに強く生きるんだぞ。」そういって、ナオを励ましてくれた。
ナオは、それに対してきちんと、小学生とは思えないようなしっかりとした態度で接していた。人が他人を完全に理解できないように、そのナオの心の奥底に持つ内心は、誰も理解できていなかった。
涼しくなってきた秋の土曜日だった。父の四十九日も先日終わった。僕は父が死んでしまった現実を頭では理解しているのに未だにきちんと向き合う気になれず、思考は現実逃避を繰り返していた。僕は計算が大好きだから、自習では小学校で習う算数の範囲を終了させて数学の教科書を開いていた。心と向き合っても何も答えが出ないことに絶望を感じていた僕は、この日は朝からただひたすら無心に数学を学び、計算をした。必ず解が見つかる数学が、今の僕には神様のように思えたのだ。
「ナオ」
僕は名前を呼ばれて振り返った。誰もいない。ここは僕の部屋だ。僕以外の誰かがいるとしたら弟か、母だ。でも、そのどちらのものでもない声で、誰かが僕を呼んでいる。
「ナオ」
また声が聞こえた。そして、気づいた。僕の、頭の中で、声がした。
「誰?」
おそるおそる小声で尋ねてみる。
「俺に名前はない。でも確かに、お前の中にいる存在だ。初めまして、ナオ。」
その声は、そう答えた。僕は混乱した。
頭の中からする声は、「僕の中にいる」と言って、確かに、僕はその声を耳で聞いたわけではなく、頭の中で認識している。 名前がない?でも僕の中にいる?それは一体どういうことなんだろうか?
「初めまして...僕の中にいるというのは...?」
「わからない。起きたら、ここにいた。」
「起きたら...?ずっと眠っていたのですか?」
「わからない。」
「何か、わかることを教えてください...」
そう聞いたのに、その声は答えなかった。まさか、わかることなんてなにひとつないということか?
しばらく経ったあと、その声は言った。
「少し、体を貸してくれないか?」
「えっ?貸す?」
そう聞き返したところで、僕は気を失った。




