第1話「うさぎだもの」
姿見に向かい合い、セミロングの栗色の髪をサイドテールに結ぶ。これは私にとって、朝の儀式みたいなものだった。
『奈緒の髪ってきれいだよね。レッキスみたいな、ほっこりする栗色だと思う』
……幼なじみの言葉を思い出すと、ほんの少しだけ口元が緩みそうになった。ちなみに、レッキスとはうさぎの品種のことで、それについて知ったのは彼女の言葉がきっかけだった。
ブレザーの制服に身を通し、居住まいを何度も確認する。制服を着る以上は単なる通学なのだけど、我ながらデートに臨む女みたいだと顔をしかめそうになった。
「おはよ〜、お姉ちゃん」
「姉ちゃん、はよー」
「おはよう。私は陽菜多のところで一緒に食べてくるから、あんたたちもちゃんと食べるのよ」
部屋を出るとまだパジャマ姿の妹と弟が目を擦りながら挨拶してきて、二人の頭を自然と撫でる。どちらも嫌がる様子はなかったけど、弟はちょっと恥ずかしそうだった。
キッチンに顔を出すとお母さんがせっせと朝の準備をしていて、その姿に感謝しつつお弁当箱を手に取った。
「おはよう、奈緒。私は陽菜多ちゃんの分も朝とお昼を用意してもいいんだけど……」
「おはよう。いいわよ、気を使わなくて。お母さんも朝は忙しいんだから、“うさぎの世話”までは任せられないわ」
「……うふふ、そうだよね。それは奈緒の大切な仕事だものね?」
大切じゃない、と無愛想に返事をして、生暖かい視線を受け止めながら玄関へと向かった。
家を出る刹那、妹の「お姉ちゃん、本当に陽菜多ちゃんが好きだよね〜」なんて会話が聞こえてきたので、熱くなる頬を隠すように外へと出た。
*
自転車を漕いで、商店街へと到着する。この一帯は今も十分な活気があって、平日の朝は仕事で行き交う人、そんな人たちが利用するお店で賑わっていた。
私の目的地はここにあるパン屋、もっと正確に表現するのなら“パン屋の中にある巣穴”というべきか。
「おはようございます」
「奈緒ちゃん、おはよう。今日も陽菜多のこと、お願いね」
店の入り口……ではなく、店舗の脇にある家族用の出入り口から私は入る。すでにここにもパンの焼ける香ばしい匂いが漂っていて、朝食を先送りしたお腹がくるくると鳴いていた。
そのまま通路を進むと厨房付近に到達して、ちょうど顔を出してきた幼なじみの母親と遭遇する。あの子の母親だけあって相当な美人で、母というよりも姉に間違われそうだった。
そんな女性は私に人の良さそうな笑顔を向けて、対する私は意識して渋い顔を作ってみる。けれど、この人は嬉しそうなままだった。
「お願いね、じゃないですよ。娘さんを起こすくらい、自分で」
「朝は戦争だから……それに、あの子も奈緒ちゃんが来てくれないとすねちゃうの。朝ご飯とお昼ご飯の下準備は終わっているから、好きに使ってね」
「……仕方ないですね、もう」
多分このやりとりも、年に百回は超えていると思う。けれども私たちは毎度毎度繰り返していて、それはもう「おはよう、今日も元気ですね」という確認でしかなかった。現に、短く挨拶を返したときは体調不良を見抜かれてしまった。
そして戦地に向かう兵士よろしく、おばさんは厨房へと戻る。私も同じように忙しない朝を生き抜くため、厨房近くにある従業員の休憩スペース、そこに設置された小さな“巣穴”を確認してから、二階の居住スペースへと向かった。
階段を上がり、あの子の自室に向かう。この建物は一階がパン屋、二階が家族……草野一家の生活空間になっていた。
そして私はあの子と家族同然の付き合いをしていることもあり、文字通りの顔パスだ。年齢を重ねるほどにその無防備さに心配になりつつ、この商店街で生活する人たちはみんなそんな感じで、だからこそ。
あの“巣穴”が作られたのだろう。
「陽菜多、入るわよ……って、やっぱり寝てるわよね」
はぁぁぁ。これまた長くわざとらしいため息をつきながら、私は幼なじみ……草野陽菜多の部屋に入る。
部屋の広さは私の自室に比べるとやや手狭だけど、散らかっているわけじゃない。それでも少しばかり狭く感じるのは、段ボール製の“巣穴”がここにもあるからだろう。
巣穴にはクッションやブランケットが完備されて、それこそ寝床としても使えなくはない。けれど、その巣穴を造った張本人はベッドの上で掛け布団にくるまりながら眠っていた。
「陽菜多、起きなさい。そろそろ起きてご飯を食べないと遅刻するわよ」
「……う〜ん……」
布団を剥ぐと、そこにはうさ耳フード付きの寝巻きに身を包む陽菜多が丸くなって眠っていた。フードは目深に下ろされていて、徐々に強くなる朝日に小さなうなり声を上げながら、それでも油断しきったように目を閉じている。
物音に敏感な陽菜多であれば、誰かが部屋に入ってくればすぐに気付くだろう。それでもこんなふうに惰眠を貪っているのは、パン屋の娘らしからぬ寝ぼすけだから……というだけでなく。
私という捕食者にはほど遠い相手であれば、警戒する必要もないと認識しているのだろう。
「ふ、わぁぁぁ……奈緒、おはよ……野菜スティック、ある?」
「寝起きの第一声が“餌”の要求だなんて、相変わらずいいご身分ね。それならキッチンにあるだろうから、食べたいならちゃんと起きてきなさい。すぐに準備するわ」
「へ〜い……」
身を起こした陽菜多はフードも下ろし、その顔があらわになる。私がカーテンを開くと、朝日に透けた白髪が、寝起きには不似合いなほどきれいだった。
髪は本人の“自認”を示すような真っ白なロングヘアで、盛大な寝癖がついている。
その双眸は寝ぼけ眼でもわかるほどくりっとして大きく、中心には命を連想させる真っ赤な光が宿っていた。
鼻は周辺の気配を探るようにすぴすぴと動いていたけれど、私しかいないと再確認したらぴたりと動きが止まる。
口元は小さくぷるりとしていて、まだ寝足りないように「むー」と唸っていた。
つまり。この幼なじみは、アイドルが絶望する程度には──私基準で──整っている。自分が“飼育係”でなければ、世話を放棄して見惚れていたいくらいに。
「……もうちょっと顔を隠していてもいいわよ。そのほうが食事の準備に集中できるかもしれない」
「え、どういうこと?」
「何でもないわ、忘れなさい」
どうもこの幼なじみが相手だと、私は今も“特別な感情”に引っ張られやすいみたいで。
そんなのはわかりきっていても、衝動的な本音を漏らしていた。陽菜多は首をかしげていたけれど、深くは突っ込んでこなかった。
*
「うむ、この歯ごたえ、みずみずしさ、きれいに切りそろえられた形……奈緒、また腕を上げたね」
「野菜を切っただけのスティックよりもハムエッグとかを褒めて欲しいんだけど?」
草野家の朝のキッチンには、パンや様々な具材が用意されている。そして私はありがたいことに、「好きなものを使っていいからね」と許可をもらっていた。
そしてこの幼なじみは私が来ないと二度寝を続けて食事を後回しにしたり、ゆっくり食べ過ぎたりするため、気付いたら“朝は私が起こしに来て、食事を用意し、一緒に学校へ行く”というルーティンが定着していた。
そんな陽菜多はニンジンとキュウリを中心にした野菜スティックをかりかりと、驚くほど小さな一口で食べ続けている。その両目は、好きな飼育員に餌をもらったうさぎめいていた。
そして私は陽菜多の食べるペースに遅刻を危惧しつつも、その愛らしい仕草に何も言えず、黙々と自分の分を食べるしかなかった。
「とくにこのレタス、ただ出すだけじゃなくて、お皿にきれいに盛りつけてあるのがポイント高いね……今朝の朝食のMVPだよ」
「あんた、ニンジンのほうが好きじゃないの?」
「偏見だね、私は葉物のほうが好き。食べやすさだけじゃなくて食物繊維が多いから、毎食摂取したい存在だよ」
「その葉物への信頼は何なの……というか、ニンジンにも大事なビタミンがあるでしょうが」
陽菜多と付き合いが浅い人は、この少女を『クールで物静か』と表現することが多い。クールはともかく、物静かには同意だ。
そんな陽菜多は私の前だと人並みには口数も多く、好きなものに対して雄弁に語ることもしばしばだ。
今もレタスをしゃきしゃきし、もごもごしてから「葉物は毎食欲しいね」と物欲しそうに私を見てきた。とりあえず、おばさんにはレタスのストックを切らさないように言っておくべきかしら……。
なんて、私も大概甘いことを考える。けれど、仕方なかった。
「ちなみにお昼は葉物メインのサンドイッチだよ。お父さんとお母さんが焼いたパンに、豊富な野菜と夢を詰め込む……ふふふ、奈緒も欲しいでしょ?」
「成長期の女子高生に勧めるようなものじゃないでしょ! あんた、私がいないときでもちゃんとお肉や魚を食べているんでしょうね!」
「……仕方ないよ、私は“うさぎ”だしね」
「こっちを見ながら返事をしなさい!」
そう、この幼なじみは
うさぎを自認する、ちょっと不思議で、でも優しくて、私の大切な人だった。
このお話は、うさぎを自認する陽菜多とその飼育員と呼ばれた私が、自分たちの巣穴を巡ってささやかな騒動に巻き込まれる物語だ──。




