紅梅の章13 煌
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紅梅の章13 煌
表戸ではなく、人目に触れ難い裏側の庭に現れたのは。
「……お久し振りです。湯殿改築の折は、大変お世話になりました。ご健勝そうで、何よりの事です」
「……確か、煌」
桐水長屋の裏手の庭は、家毎に籬で区切られ、奥の庭木戸から細い路地に抜けられる。
表は辻に共用の井戸と水場が有り、日中は長屋の女房連中が屯して、文字通りの井戸端会議に花を咲かせている為、隠遁等不可能だ。
直接庭に現れると言う事は、裏路地を通ってきたのだろうが、陽当たりも悪く細い道は、好んで通りたくなるものではない。
つまりは人目を避ける必要が有る、と言う事で、しかもこの野郎は気配がしねぇ、と、八津吉は記憶野を浚って名を探し出した男を、不審を隠さず睨め付けた。
煌と名乗る男に初めて会ったのは、本人の言葉通り、以前の牡丹楼の湯殿改築の時だ。
牡丹楼の女達は、表に一切出て来ないのが売りだ。客寄せの見世が無いのがそれで、故に当時の大工等の職人達も、障子戸の隙間に着物の裾が見えた気がすると言うだけで狂喜乱舞していたのを、八津吉も覚えている。
職人達と監査の桐水の相手をしたのは、殆どが楼主である葛音で、葛音の不在や手が離せない時等の代理、或いは使いとして現れたのが、この煌だった。
再会したその青年は、以前と全く変わりが無いように見えた。
男にしては細身で、小柄な方だろう。矮躯の自覚の在る八津吉と、背丈は大差無い。
全体の雰囲気から、歳はまだ若く、艶麗な容姿と思われる。思われる、なのは、顔の右半分以上を長い前髪が覆っているからだ。
男にしてはかなり長い黒髪は、無造作に後ろで一つに括って先を下に垂らしている。それならいっその事切っちまえばいいのに、と八津吉は思わずにはいられない。
その等閑な結い方の所為か、蓬髪にも見える前髪の隙間、ちらりと見える顎は細く、頬もすっきりとした線で、武骨な輩ばかりの紅黒の様に、頬骨が張り出した粗野な気配は欠片も無い。
それで周りが見えているのかと、鬱陶しくて八津吉ならば払い除けたくなる前髪の向こうに垣間見える右の瞳は、時折炎の様に妖しく光る。
それが気の所為ではないと判るのは、唯一露わな左の瞳が、炎を燃やして燃やして燃やし続けて、最後まで残った熱の核を封じたかの如き、鮮やかな紅をしているからだ。
それだけなら圭角な若者と言えるかもしれぬ。それ程の覇気を、だが艶麗と判じたくなる所以は、やはり右の瞳で。
何と言うべきか、その赤が、兎に角――麗しいと言うしかないのだ。
苛烈な気を、その瞳が、和ませているとも、却って不穏さを孕ませているとも思えるのだが。
抑も、麗しい、なんてぇ形容は、この野郎にしか使った事はねぇが、と内心で独り言ち、ああいう処に身を置いていると、男まで妖しさを持つのだろうかと、埒も無い事まで考えそうになった八津吉は、武骨で粗野で無粋の代表の様な自分には、巧みに言い表す言葉が見付からねぇ、と、詩的表現を早々に雲の彼方まで蹴り飛ばした。
上手く行けば、何処ぞの火事場の燃え滓に紛れてくれるかもしれぬ。
そうして改めて見遣った煌は、動き易そうな大陸風の墨染の着物で、それに、確か前も――そう、今の様に、常に真っ白な手袋をしていたのだ。
それが、鮮明に記憶野に焼き付いている。
男にしてはやや高めの声は、耳にすれば聞き取りやすく落ち着いて、不快感は一切無い。
記憶と全く同じ声で、青年は後ろ手にしていた手土産を差し出しながら言った。
「お内儀の祥月命日が間も無くと伺いまして」
「……全くよぉ、お前らの情報網はどうなっていやがるんだ。下っ端紅黒の女房の命日なんざ知ってたって、何の役に立つってんだよ」
しかも、生前の妻が好んだ甘味の、店と味まで完璧に一致している。
十八で所帯を持ち、二十歳になる直前に、妻は風邪を拗らせて呆気無く鬼籍に入った。
若手紅黒は忙しい。覚える事も多いし、夜番も多く回される。
粗略にしているつもりはなかったが、小さく咳をしていたのを目の端に捉えつつ、どうせ風邪だろうと、大丈夫かとの労わる言葉も掛けず出勤し、そして、喪った。
せめて何か一言と、言葉を惜しんだ事を後悔した。
然程惚れていたつもりは無い。位牌からの風景を整えようとするのは、悔いの表れだろうかとの意識は有る。
「……まあ、いい。上がれや」
仏前への供え物を持ってきてくれた相手に対し、持て成さずに帰す程礼儀知らずでもなし。今更玄関に回れでもねぇだろう、と、八津吉は嘆息一つ、その儘顎を杓った。
用が有るから現れたのだろうし、裏庭から来たと言う事は、耳目を憚る話なのだろう。人目は無いが、外で話す内容では決してあるまいとの読みもあってだが、果たして、煌は素直に縁側から仏間代わりの座敷に上がると、先ず仏壇に手を合わせてくれた。
裏から上がって、上座も下座もありゃしねぇ、と、八津吉が座を勧める間も無く、先に自分の定位置に胡坐を掻いていた八津吉に向き直る。
大きな採光でもある縁側に背を向けた為、逆光の状態で、青年の表情は窺い知れぬ。
光に透けた蓬髪の先が、驚く程鮮やかな緋髪に見えたのが、何故か脳裏に突き刺さった。
「不味い茶で勘弁してくれや」
謙遜ではなく、本当に不味い――八津吉は茶を淹れるのがどうにも下手なのだ。
同じ茶葉なのに、妻が淹れた茶は全く別の味がした事を思い出す。
それで、少し気が漫ろだったろうか。
逆光で朧な影に、微苦笑の気配がした。
「で、用件は。女房への線香分は聞いてやらぁ」
社交辞令と時候の挨拶から始める仲でもなし。饗応が無い分、それが妥当な処だろうと話を促した八津吉だが、逆光で見えぬ筈の煌の目、何故かそれが眇められたのが分かって、不穏な気配に慄いたのは一瞬。
直後に齎されたのは、予想もしない返答だった。
「隣人の最近の様子は如何か、ご存じかと思いまして」
――隣。
「……手前、それを俺に聞きやがるかよ」
不愛想な容貌でも、喧嘩っ早い荒くれ者達を纏める八津吉の眼光は本物だ。憤怒の刀身が弾いた様な光が昏く灯り、仲間に認められた、火事場でも通る張りのある声が、剣呑の熱を帯びて唸る様に押し出された。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
竜の花 鳳の翼
天に刃向かう月
も、ご覧下さると嬉しいです。
他作品の資料整理に手古摺り、次も少々時間が空く事になりそうです。気長にお待ちいただければ幸いです。




