紅梅の章7 愚者
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紅梅の章7 愚者
牡丹楼が典夜町で不動の繁栄を誇る一方で、凋落の一途を辿る見世も、無論、在る。
牡丹楼に客を奪られたと逆恨みする楼主もいれば、これも時世の流れと、潔く見世を畳む決心をする者もいる。
歌代も、元はそうした見世の妓女で、楼主同士の寄合で葛音が何かと世話になった――女のくせにと侮蔑や嫌がらせもせず、成り上がりと寄合から締め出さなかった――楼主から、是非にと頭を下げられて、断り切れずに引き取った、と言うのが柵の顚末だった。
牡丹楼の格付けなら二楼相当の器量だが、付いていた贔屓客がそこそこの客筋だった事や、何よりその柵相手の楼主の顔を立てて三楼に局を与えた。
他にも、借金の残額が少なかった者を、牡丹楼の妓女としては不適だが、下働きとして、借金を肩代わりして数名引き取っている。非情な様だが、使い物にならなかった場合、高額だとこちらが大損してしまうのだから仕方無い。
勿論、引き取る際には身元をしっかり精査した。下男も含めて性根が曲がっているようでは、今後どんな面倒を見世に齎すかしれないからだ。
雇われ直された者達も、紅梅が許した一部の例外の他は、牡丹楼を新天地と決め、今の処は真面目に働いてくれているようだ。
――全く、紅の奴、何を考えているのやら。
それについては何も知らされていない葛音としては、愚痴の一つも零したいところだ。奉公人に関して楼主が蚊帳の外では、威厳もへったくれも何もあったものではない。
仮に問い詰めても、こういう時の紅梅が決して口を割らないのは常の事で、ただ、紅梅が動くのは、全て葛音の、牡丹楼の為である事は解っている。疑う余地も無い。
――待っておいで。必ず、典雅な夜に相応しい城を、築いてやるから。約束だ。
だから、きっと、これも、そうなのだろうと信頼して――頭では解っているのだけれど。
やれやれ、と頭を振ると、葛音は面倒事と対峙する為に、重い腰を上げた。
人の身の振り方がその様に散っていくのが常な一方で、仕舞う見世の在り方も、花街では幾筋かに決まっている。
店構えが合えば居抜きで、或いは小規模な改装で済ませて、料亭や小料理屋、仕出し料理屋等への転向が大半だが、宿泊施設の機能が有ると見て、旅籠や宿屋に鞍替えした処も無くは無いし、調理場だけを活用して、雑多な一膳飯屋や居酒屋に思い切った舵を切った持ち主も居る。
また、稀ではあるが看板を変えただけの妓楼、といった例も有る。
この場合、楼主が変わり、ある程度稼げていた妓女はその儘で、料理人を総入れ替えしたり、立場を問わずお荷物を無一文で放り出したりする訳だ。
何れにせよ、潰れた店をそのまま放置はしはしない。
何といっても繁華街、人が金を落とす一等地なのだ。
しかし、最近。
察する者は察する、或いは。
未だ、大半が、気付いていないと言うべきか。
潰れた、閉めた、見世の、料亭の、水面下で。
――妙な、気配が。
鬱陶しいねぇ、と独り言ちた葛音の鋭い視線の先では、牡丹楼の敷居を跨いだこちら側で、腕を組んで楼内に侮蔑と値踏みの眼差しをくれる輩が待ち構えていた。
牡丹楼の表玄関は、他の妓楼と異なり、存外静かだ。
これは、最下位の見世出し女郎が客を引く、所謂「張見世」が無いからで、表から客が妓女を品定めをする格子も、障子戸を立てて、提灯や色紙で綺麗に飾って塞いでいる。
その奥の妓女が控える座敷も締め切り、今は改築の資材や道具の一時保管場所になっている。
この張見世を止めたのは葛音が楼主になってから。紅梅と相談し、他の店との差別化を図っての事だ。
ああ、ここも改めなくちゃねぇ、と葛音は、現実から逃避するが如く思いを馳せた。
張見世を無くして表は差を露にしても、一歩敷居を跨げば、中は他と大差無い。異なるのは客筋位だろう。否、これは言葉が悪いか。
牡丹楼が誇るのはその客筋と、客を集めるだけの力量を有する女達と持て成しなのだから。
しかし、その牡丹楼の価値に、表玄関が副っていないのが現状だった。
「互いが秘匿すれば父子で同じ妓女の客になっても分からない」
これを売りにしたいのに、他の見世と造りはほぼ同じ。良く言っても旅籠や宿の入り口と同じで、土間や三和土で履き物を脱いで上がってもらう際は、他の客と顔を突き合わせる事も有る。
無論、牡丹楼に登楼した事を、己が財力や社会的地位の誇示に用いたい者もいる。
自慢気な、誇らし気な、だがそうとは悟らせぬ様に必死に注意を払った穏やかな笑顔で、遭遇した他の客に目礼して、贔屓の妓女の局に案内されてゆくのだ。
その背に、何楼に通されるのだろうとの興味の視線を感じ、一つでも高い階であれば優越を感じて。
或いは、寄合や会談、同好の集まり等に、高額な花代を払っても苦にならぬ旦那衆が登楼する事も存外有る。
だが、家や店の者には内緒で通うのでなくとも、静かに過ごしたいと所望される客もそれなりに多い。
そういう方々は、後日別の場所、例えば同業の寄合等で、登楼を話題にされるのを嫌がった。
「無粋」「野暮」と言う訳だ。
意外と言うべきか、はたまた至極当然の事なのか、他人と会わずに済ませたいと望むのは、老舗大店の、息子に身代を譲ったご隠居や、形は若旦那に店を任せても未だに影響力の大きい大旦那様、文人の方々で、却って新興の店程自慢話の種にしたがった。
市松の内の方々は何をか況や、である。
折角、一見客を断り紹介状必須とし、料理人の質も上げ、今回の改装で壁や唐紙の防音性を高め、各局まで人と擦れ違わなくても済む様に造りに気を遣って、牡丹楼の価値を高めても、入り口で出くわしたのでは元も子もない。
張見世の座敷を潰して通路を……否、それだと狭過ぎる。見世の構えからして耐久性にも不安が残るか。いっその事、仕切るか、小部屋を複数作って、取り次ぐまでの待機の間にするか。
等と熟熟と考える葛音の耳朶を、不愉快な濁声が殴打した。
「やぁ、相変わらず、下世話な程喧しい賑わいで。商売繁盛で結構な事ですなぁ」
……逃げたかったのに。気の滅入る現実から逃避したくて改築に思いを馳せていたのに。
嗄れ声に姿を変えた侮蔑にしか値しない愚行は、そんな葛音の足掻きを嘲笑うかの如く追捕の手を緩めなかった。
「流石、乱痴気騒ぎでは他の追随を許さない牡丹楼さんでいらっしゃる。そちらさんも、古代の王に倣って酒池肉林とは、誠に羨ましい限りですよ。美女の嬌声に大枚捨てられる方々、いや、肖りたい肖りたい」
馬鹿かこいつは、と葛音は、侮蔑を、眇めた目の眼光に変えた。
確かに典夜町そのものは、所詮は花街だ。下世話と言って差し支えないだろう。
だが、この牡丹楼が有る通りは、花王街は。
牡丹楼単独の努力だけでなく、周囲の尽力も有って、風雅な趣を備えるに至った別格の一画。
選別された客筋を誇る、富裕層の社交場。
それを、事も有ろうに「乱痴気騒ぎ」「酒池肉林」とは。
何処ぞで商売敵の悪評を振り撒くのは、まあ、解る。
やる方の品性が下劣だと周囲に晒して顰蹙を買い、己の評価を下げるだけなのだが、それが解らぬ馬鹿が存在する事は確かだ。
だが、営業中、多くの客の前でその店を貶めるのは、その店を利用する客さえも軽んじるも同等で、客を面罵するのに等しいのだ。
事実、そこここで静かな怒りとも言うべき空気が立ち上った。
無論、牡丹楼を利用する方々は何れも名の通った商家や老舗、高位高官が大半で、そういうお歴々は感情を明白にする事は、基本、無い。
仮にしたとしたら、それは、相手に態と悟らせる為で、如実な怒りを伝えるのは、相手を委縮させ、意の儘に操る為だったり、嵌める為の演技なのだ。
しかし、葛音の視線の先では、故事を持ち出し衒った心算だろうが、却って無知を曝した衒学者が、己の失態にも気付かず、影響力のある男達からの怒りも冷笑も悟れず、大人物然と踏ん反り返っているだけで、間違い無く馬鹿だこいつは、と葛音は評価を確定させた。
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