紅梅の章4 負の闇の生じる所以
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紅梅の章4 負の闇の生じる所以
牡丹楼の夜に、静寂は無い。
当然だ。夜にこそ本領を発揮する妓楼なのだから。
今この時も、各局から妙なる音曲や笑声が、それすら調べと言うかの如く、低く高く、夜の闇を揺蕩っている。
だが、現在は、各階一部に灯の灯らぬ区画が存在している。
客の居ない昼間に限っての改築工事。当然工期も長きに渡り、それでも夜は通常営業を行う。
一応目隠しはしてあるが、工事を承知の客とは言え、剥き出しの木材だの、塗り掛けの壁だの、資材だのが視界に入っては、興も冷めると言うものだろう。
明暗が、虚実を分けるのか、具現するのか。
真と信じた事物すらが、虚構の最たる、泡沫の闇。
「……中二階を下働きの控えの間……には、天井が低いか。替えの寝具と、季節の飾り調度類なら、全部収まるかねぇ」
本来なら、ただ今絶賛お客様のお相手中、の筈の筆頭妓女紅梅は、その真っ暗な区画を唯一人、手燭を頼りに彷徨っていた。
懈怠ではない。断じて。
別に誰に何を言われてもどこ吹く風なのだが、どこからか葛音の嘆息が聞こえてきそうで、紅梅は、気の所為気の所為、と、頭を振った。
改めて、周囲に手燭の灯りを投げる。
その日の普請の進捗確認の為、現場を見て回っているのだ。
何故、筆頭妓女が態々そんな事を、と誰かさんに言われそうだが、これは筆頭としての責務と同時に、紅梅こそが適任な面もあった。
昼間の内に目を通しておいた図面と相違は無いか。
職人側から示された工期日程との差異、遅れは。
届けられた資材に誤り、或いは、虚偽は。
職人達の為人を疑っている訳ではない。
だが、材木の質を実際より下げたり、漆喰の材料や混ぜる分量を意図的に変えて安くあげ、差額を着服するのは小悪党定番の使い古された陳腐な手だし、狡辛い手は古今東西枚挙に暇が無く、手を変え品を変えする狡賢い輩は、潰した先から新たな遣り口を捻り出し、またそれを追う鼬ごっこは切りが無い。
厚顔と言うより性悪な輩は何処にでも存在るもので、実際に現場で汗を流している職人を騙し、資材を納入した業者の方が阿漕な真似をする事もある。
その他大勢が昔から数え切れぬ程繰り返したからこそ「陳腐」と言われるのだろうが、陳腐な悪事がそれだけ行われるのは、たとえその場凌ぎだとしても、それなりのうま味が有るからだろう。
我欲に目が眩んだ人間が、何をするのか。
どんな事が出来るのか。
何を捨て、何を失う――失ったからこそ、出来る、行えてしまえる振る舞い。
至ってしまう境地。
蛮行、愚行――凶行。
ふ、と、紅梅は、闇にも濃く潤う紅唇を、片端を僅かに持ち上げる様にして嗤った。
ここ牡丹楼の女達は、そんな事はよく身に染みている。
望まず、意図せず、思い知らされた者達の集まりなのからだ。
大なり小なり、人心に闇が在るのは、誰もが認めるところ。闇無きは聖人君子で、それは「聖人君子」であって、「人」ではない。
小さかろうと大きかろうと、闇は闇。それが人によって異なる様に、濃度と深度も、また、人それぞれで。
小さく深い闇は、宿主を捕らえ。
巨大な深淵の如き虚無は、周囲のその他大勢をも、顎に掛け。
夜よりも更に濃い漆黒は、容易に人を狂気の淵に引き摺り込むのだ。
そして、一度でも絡め捕られた者達は、生還に多大な代償を払い、仮に立ち戻れたとしても、闇に堕ちる前と完全に一致する事は有り得ないのである。
牡丹楼の女達は、そんな闇の犠牲者達。
だから、負の感情、悪意には敏感だった。
悋気、妬心に始まり、やっかみ等は可愛いもの。心中で悪態を吐いても、何の害にもなりはしない。
ただ、何かの拍子に、偶さかに。
或いは、別の悪意有る者の明確な意思に依って。
形の無い不平、取るに足らぬ不満、意に介する必要も無かった愚痴が、唆された末、明確な害意に変貌する事が有る。
その変化は、ゆっくりと時間を掛けて、周囲が異常を察せぬ程穏やかに、以前との差を感じつつも複数の理由を己で見付けて納得出来る度合には緩慢に、育ち、又は、作られる――仕向けられる、操られる――時も有れば。
豹変との表現が過言ではない程、劇的で苛烈な――衝撃の様な。
まるで、何かに背を押されたかの様に。
魔に、耳元で囁かれたかの如く。
狂気に踏み出す背徳を、正当化する刹那。
躊躇を振り切る瞬間。
人は、簡単に、魔が差す、等と言うけれど。
踏み越えた先は、そんな生易しい、容易なものではない。
そして、迎えた変化が激烈であればある程、悪意害意は、呆気無さに乾いた笑いが起きる程容易く殺意に置換し、辿り着いた結末は、峻烈で、凄惨なのだ。
紅梅は、ふ、と今度は、重い息を吐いた。
苦く、鉛の如く重い何かが、手燭の橙と闇の黒の境に転がり、どちらに落ちるか、玉響の均衡に揺れた挙句、矢張り、あちらに引き摺られて粘度を増す。
橙の眩さが牡丹楼の繁栄なら、闇の深さは虚構と無常の具現か。
不滅と誤信する程綺羅綺羅しい炎も、消えるは刹那の事。
築いた地位も名声も富も、失われる時は一瞬。
だから、夢が眩い。
欺瞞ばかりの泡沫に過ぎぬ一夜は、絢爛で。
男達を、幻惑する。
じわじわと染みる様に、黒い縁が橙を浸す。波打ち際の如く不規則なその侵略の線を一瞥すると、紅梅は窘める様な、呆れた様な声で、その名を呼んだ。
「――夜光」
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