【第三十六話】 交差する悪意、揺れる境界線
朝靄が漂う原生林を抜け、第九辺境騎士団の面々は再びあの不気味な迷宮の入口へと足を踏み入れていた。
洞窟に足を踏み入れた瞬間、肌を刺したのは異様な不快感だった。
風は吹いていないはずなのに、洞窟の奥から届く空気は生温かく、まるで何かの胎内を歩いているかのように粘りついている。
松明の光が映し出す影はわずかに歪み、光源の位置とほんの少しズレた方向へ不自然に伸びていた。
周囲を包む異常な空気の中、先頭を行くガレンの背中からは、隠しきれない苛立ちと殺気が滲み出ていた。
昨日から胸の奥で燃え盛る怒りは、冷めるどころかさらに荒々しく渦巻いている。
(ふざけんな……なんであのオッサンは、あんな冷静でいられるんだよ……!)
昨夜、一人で大剣を振り回しても消えなかった己の無力感。
ウエスの圧倒的な背中に対する激しい劣等感が、ガレンの吐息を荒くさせる。
「ガレン先輩、あの……あんまり先行しすぎると危険です……!」
後ろからおそるおそる声をかけたユアンに対し、ガレンは振り向きもせず怒鳴り散らした。
「うるせえ! ついて来れねえなら引っ込んでろ!」
「ひっ……!」
ガレンの刺々しい態度にユアンが身を縮め、リアナが心配そうに「ガレン、落ち着いて……」と声をかける。
だが、荒い息を吐きながら大剣の柄を固く握りしめたガレンの胸中で、ふと冷ややかな毒のような自覚が首をもたげた。
(……分かってんだよ。俺が本当に腹を立ててんのは、あのオッサンにじゃない。助けられた自分を『仕方ない』と納得させようとした、無力な自分にだ……!)
ウエスへの嫉妬、自分への失望、そして周りへの反発。
三つのドロドロとした感情が混ざり合い、己の小ささを突きつけられる恐怖を押し殺すために、ガレンは怒りを撒き散らすことしかできなかった。
「……立ち止めろ」
最後尾を歩くウエスの低く重い声が、洞窟内に落ちた。
ガレンは足止めされたことに露骨に舌打ちをしたが、ウエスの放つ絶対的な制圧感に気圧され、不服そうに足を止めた。
ドレイクが即座に大盾を構え、ミレイユが魔力探知を展開する。
「団長、魔物の気配ではありません。ですが……昨日の解析データ以上に、魔力の残滓が“歪な形”でこの壁面にこびりついています! まるで空間そのものが変質しているような……」
ウエスが洞窟の側壁に歩み寄る。
そこには岩盤を強引に抉り取るような、荒々しく惨烈な抉り痕が残されていた。
尋常ではない力で叩きつけられたような亀裂。
「これは……小鬼や野生の魔物の爪痕じゃないな。大人の背丈以上の何か……あるいは、重厚な武具を持った者が力任せに振るった跡だ」
ドレイクが傷口を指でなぞり、眉間にしわを寄せる。
ウエスは無言でその不気味な傷跡を見つめた。
魔力を失っているウエスには直接の感知はできないが、長年の修羅場で培った直感が警鐘を鳴らしている。
この異質で暴力的な痕跡──奥に潜む“何か”が、着実に圧力を増している証拠だった。
「ミレイユ、空間の揺らぎの起点は近いか?」
「ええ……中層へ続くこの先、魔力の乱れが激しくなっています。まるで別の場所から、巨大な空間の亀裂を通って魔力が流れ出しているような……」
ガレンは己の不甲斐なさを噛み殺しながら、不気味な壁の傷痕を睨みつけた。
正体不明のプレッシャーに息を詰まらせながら、怒りで恐怖を覆い隠すように牙を噛み鳴らす。
第九隊は慎重に、だが確実に迷宮の奥──真相の眠る死地へと歩みを進めていく。
自分たちの知らないところで、同胞たちに地獄が訪れていることなど知る由もなく。
──同じ刻。迷宮から大きく離れた、西の深緑地帯。
別命令を受け、辺境の異変を探っていた「第八辺境騎士団」の陣地は、壊滅的な惨状と化していた。
「な、なんだこの強さは……! 報告にないぞ、野盗の規模じゃない……っ!?」
悲鳴と打撃音が森に響き渡る。
打ち砕かれた大盾、引きちぎられた甲冑、そして血に染まって倒れ伏す第八隊の騎士たち。
彼らは「迷宮の調査」ではなく、王都からの別命で辺境の警備と探索にあたっていた。
だが、不運にもこの地で潜伏していた野盗一味と衝突してしまったのだ。
「ひでえなあ。相変わらず王都のぬるま湯に浸かったような剣しか振れねえのか?」
血飛沫が舞う中、返り血を浴びた大剣を無造作に肩に担いで歩み出る男。
切り揃えられていない黒髪の間から覗くのは、狂気と冷血、そして歪んだ嫉妬に濁った瞳──力と恐怖で野盗どもをねじ伏せ、頭として君臨する男、カイル・ヴァルドだった。
「ひっ……ぐあッ!?」
立ち向かおうとした第八隊の副隊長が、カイルの一閃によって鎧ごと叩き切られ、崩れ落ちる。
生き残った隊員も半数以上が打ち倒され、第八隊は実質的な「半壊」へと追い込まれていた。
その凄惨な光景の後方で、武器を手にした野盗どもが息を殺して控えていた。
その中にいる一人の野盗幹部は、冷汗をダラダラと流しながら、懐に隠した小さな通信魔導具を密かに握りしめていた。
(……狂っていやがる。あの化け物、本当に騎士団の別動隊を半壊させやがった……!)
この幹部は、カイルのあまりの暴虐さに怯える一方で、カイルに絶対内緒で「王都の腐敗した高官」と裏で密通していた。
王都側からは「カイルの動向を監視し、迷宮の真相が公にならないよう情報を回せば、莫大な金と王都での身分を保障する」と持ちかけられていたのだ。
(カイルのお頭には絶対バレちゃならねえ……! あの人は王都も騎士団も全部まとめてブチ壊すつもりだ。だが俺たちは、あの化け物と心中する気なんかねえんだよ……!)
幹部はカイルの背中に恐れおののきつつ、カイルが知らないところで王都の指示通りに裏工作を進め、己の保身と利権を確保しようと暗躍していた。
カイルは配下たちの卑屈な視線には目もくれず、血を吐く第八隊長を見下ろし、口角を吊り上げた。
「命じられたんだろ? 『迷宮の真相には触れず、辺境の表面だけを探索しろ』とな。お前らも哀れだなあ。王都の上官どもは、この辺境の底で『何が起きようとしているか』を隠したまま、お前たちを野に放ったんだ」
「くっ……何を……言って……」
「王都の豚どもは二枚舌さ。治安維持のポーズだけ取らせて、本当の危険からは目を逸らさせてる。……ふん、あいつの言う『騎士の誇り』なんざ、最初からただの都合のいい呪いなんだよ」
カイルは大剣についた血を雑に払い、遥か遠くの空を睨みつけた。
(──いつだってそうだ。あいつは眩しい光の中に立ち、俺の叫びも届かない高みへ去っていった)
その目には、王都への蔑み以上に、正騎士団の『英雄』だった男に対するドロドロとした逆恨みが渦巻いている。
「……ウエス。お前は落ちぶれてもまだ、そんな泥船の上で『正義の英雄』の面でも気取ってんのか?」
カイルの拳がぎちぎちと音を立てる。
「お前が捨てなかったその綺麗事が……どれだけ反吐が出るほど羨ましくて、鬱陶しかったか。お前たちが守ろうとしている『秩序』なんてのは、最初からお前を裏切る気満々なんだよ。……俺だけを置いて行きやがって」
吐き捨てるように呟くと、カイルは獰猛な歪んだ笑みを浮かべた。
「せいぜい足掻けよ……『英雄』様」
己の苛立ちと怒りを燃やしながら迷宮の奥へ進むガレンと第九隊。
かつて正騎士団の英雄だったウエスへの深い逆恨みをくすぶらせながら第八隊を壊滅させるカイルと、その裏で王都と繋がり密かに暗躍する野盗幹部。
複雑に入り組む悪意と謀略が、辺境の緊張感を破局に向けて一気に加速させていく。




