妹の孤独……そして結束
「大変だったのよ。
天音さんを取り押さえるのが本当に一苦労で……あなた、別の意味で本当にすごい妹さんを持ったわね?」
保健教諭は眼鏡を軽く押し上げながら、疲れたような、それでいてどこか感心した笑みを浮かべた。
眼鏡の奥の瞳には、優しさと同時に鋭い観察の光が宿っているように見えた。
彼女はこれまで何度も生徒のトラブルを収めてきたが、今日の花梨の暴発は特に激しく、記憶に残るものだった。
廊下の空気はまだ張りつめていて、遠くから他の生徒たちのざわめきが微かに聞こえてくる。
佑樹は廊下で姿勢を正し、深く頭を下げた。
背筋を伸ばし、声に一切の迷いがない。
「妹が大変なご迷惑をおかけしたそうで、申し訳ありません。
兄として、家族として責任を持って、ボクが花梨にしっかり言い聞かせます」
「ところで、どうして早くここに来なかったの? 至急保健室に来るよう、放送したのに」
「遅れてしまい、申し訳ありません」
佑樹は校内放送で確かに呼ばれたのを聞いていたが、遅れてしまったのだ。
心の中では、悠亜と別れた後の出来事を冷静に整理していた。
「誰が謝れと言ったの? どうして遅れたのって聞いてるんだから、ちゃんと質問に答えなさい。
言い訳でも何でもいいから。
それで、どうして遅れたのかしら?」
保健教諭の眼鏡越しの穏やかな瞳から、「遅れた理由を話すまで花梨に会わせない」という強い圧力がはっきりと伝わってきた。
佑樹はこの先生に嘘や言い訳が通用しないとすぐに理解した。
「妹のクラスメートに捕まり、足止めされました」
校内放送で呼ばれ、体育館倉庫で悠亜と別れた佑樹は、保健室に向かう途中で花梨の女子クラスメートたちと出くわし、半ば強引に引き止められたのだ。
花梨と普段から談笑している、佑樹に目をつけて花梨をキレさせたあの女子グループである。
彼女たちの話から、怒り狂った花梨と一悶着し、まさにキャットファイトよろしく相当な大ゲンカを繰り広げたと言う。
騒ぎを聞き、駆けつけた担任とこの保健教諭が暴れる花梨を取り押さえ、叫ぶ彼女を強引にこの保健室に連行し、担任が校内放送で佑樹を呼んだ事を話した。
「ああ、A組の子達が君をね……分かったわ。妹さんに会ってあげなさい。
あの子、あなたに何か言いたそうにしてたから、私がいたら話しづらそうだから、外しておくわ。
でもね、あまり長居はしないようにね」
「ありがとうございます。先生には昨日の事までお世話になって感謝しています」
この保健教諭は昨日も、廊下で花梨が起こした騒ぎを聞きつけてその場を収めてくれたのだ。
昨日といい今日といい、自分だけでなく花梨に振り回された先生に申し訳ない気持ちで礼を言い、佑樹は保健室のドアを静かに開けた。
「花梨、大丈夫か?」
「……お前の目、おかしいの?
どう見たって大丈夫に見えるわけないだろ……」
保健室のベッドに上半身を起こし、瞳が虚ろになった花梨がいた。
いつもの激しい毒舌トークに力がなく、まるで無気力少女のような姿は、普段とは違ってひどく違和感があった。
「聞いたよ。
ここに来る途中、花梨の友達に捕まって、その子達からお前がクラスで何をしたのかを全部教えてもらったよ」
「……アイツら、余計な事を!」
「今度の土曜日に、そのクラスメート達にお詫びしに行く事になったよ。
お前もだけど、彼女達とケンカしてケガさせたから、ボクが責任を持ってお詫びに行かなきゃいけなくなったんだ」
確かに花梨の顔に引っかかれた跡があり、凄まじいキャットファイトをしたのが想像できた。
「私イヤだから! アイツらが悪いのに、何で私が謝らなきゃいけないのよ! 私……悪くないっ!」
花梨が即座に拒否するが、佑樹の次の言葉で表情が凍り付いた。
「ボクはその土曜日に花梨の友達と出かける事になったよ。
それでお前が暴れてクラスメートをケガさせた事をチャラにするそうだよ」
「なっ!? 何でそうなるのよっ!?」
花梨が般若のような表情になった。瞳が大きく見開かれ、頰が怒りで真っ赤に染まる。
校内放送を聞いて保健室に向かう途中、花梨のクラスメートに待ち伏せされ、強引に足止めされ、裏庭に連れ出された。
彼女達はボロボロとまではいかないが、目立つ程ではないが、多少制服が破れ、顔や腕、脚などに傷があり、彼女達が自分を袋叩きして報復するのかと思っていた。
「ねえ佑樹、今度の土曜、あーしらとデートしてもらうからね♪
ああでも佑樹に拒否権ないからね♪
あーしらさ、アンタの妹の花梨から酷い目に遭わされたんだから、当然だよね~♪
そんでね~♪ あーしらを満足させたら花梨の件、チャラにしたげるよ~♪」
ギャル口調で呼び捨てにされ、健全な男子なら一度は夢を見る男一人で複数の女子とのハーレム的なデートであるが、当の佑樹にその気はなく、花梨の不始末を返上するため仕方なく受けた事を話した。
それを聞いた花梨はワナワナと怒りで体を激しく震わせた。
「許さない……絶対にっ!! ザコ兄貴をアイツらに渡すもんかぁっ!!」
瞳からハイライトが完全に消え、生気が失われた花梨が暴れ始めようとした。
佑樹は素早く彼女を抱き締めた。
「花梨、もういい……」
「何がもういいだよぉっ!! 兄貴を……ママを……何でぇ! 何でよぉっ!! どいつもこいつも私から奪おうとするのよっ!!」
花梨が怒りと悲しみを爆発させようと激しく暴れた。
小さな拳が佑樹の胸や肩を何度も叩き、足をばたつかせ、制服のシャツを強く握りしめる。
涙が溢れ、嗚咽が混じり始めても、彼女の抵抗はなかなか止まらなかった。
声は次第に嗚咽に変わり、怒りが深い悲しみに溶けていくのが感じられた。
その瞬間、佑樹の内側から静かに『神の心』が働き、無限の精神が花梨へと流れ込んだ。
花梨の心に巣食う深い闇と、絡みつく赤い鎖のようなものが佑樹の視界に鮮明に浮かび上がる。
それらが彼女の心を蝕み、抑えつけ、苦しめ続けているのがはっきりと感じられた。
(助けて……ママ……お兄ちゃん……)
花梨の心の奥底から、弱々しく震える声が佑樹に直接響いてきた。
それは表面の毒舌とは正反対の、幼くて脆い本当の花梨の叫びだった。
(これは……ボク?……以前のボクが怯えた顔をして逃げ続けている……そして、父さんの愛人……お腹が大きいこの女の人が、花梨を嘲笑いながら苦しめている……そうか、これが花梨を苦しめ続けている闇か)
闇の幻影は、弱かった頃の自分自身と、父親の愛人が家族を壊した記憶そのものだった。
さらにその奥には、佑樹と優香が恋人のように睦み合い、幸せに笑い合う光景が広がり、花梨だけが暗闇の中に一人取り残され、強い孤独感に苛まれている姿があった。
そして、この赤い鎖は、そんな闇から自分を守るために花梨が無意識に生み出したメスガキとしての殻そのものだった。
メスガキになることで自分を保ち、募る鬱屈を晴らすために、ビビりで陰キャだった佑樹を痛めつけ、支配しようとしていたのだ。
(ボクを痛め付ける事で花梨は自分を維持し続け、闇と戦って自分を守っていたのか……それに引き換え、ボクは戦うどころか、全てから逃げ続けていたんだ)
花梨は闇と戦い、抗い続けているが、佑樹は妹と違って、全てから目をそらして逃げ続けていたと再認識させられた。
神の心を得て、逃げなくなったとはいえ、何時までも全てを恐れ、目をそらし、逃げ続けていた己を再び恥じ、今こそ花梨を、妹の全てを受け止めようと決意した。
「花梨……ボクはお前の全てを受け止めたい。
だから花梨も、ボクを受け止めてくれ」
「……」
花梨は佑樹の胸に顔を埋めたまま、何も言わずに力なくゆっくりと頷いた。
その瞬間、佑樹の体から見えない優しい光が溢れ出し、花梨を優しく包み込んだ。
二人の過去の全て——佑樹の弱かった日々、花梨の父親の愛人によるトラウマ、互いの孤独と傷、失恋による首吊り自殺の記憶までが瞬時に共有され、体感され、心と心が深く繋がった。
優香と同じ、魂の結束だった。
花梨は兄の胸からゆっくりと顔を上げた。
結束したことで神の心を共有し、自身の闇を乗り越え、打ち勝った花梨の表情は今までとは全く違っていた。
瞳には強い意志が宿り、頰には涙の跡が残りながらも、晴れやかな、まるで生まれ変わったような表情を浮かべていた。
「ザコ兄貴……」
「うん……」
「ったく……遅すぎだよ」
「そうだね。
ボクに兄としての資質と器量があったら、花梨は苦しまずに済んだのに……遅すぎたよ」
「……私も同じよ。
妹として、家族として兄貴をちゃんと見てあげられたら、兄貴があそこまで追い詰められる事がなかった……気付いてやれなくてゴメンね」
花梨が言う「追い詰められる事」とは、佑樹が神の心を授かる前に失恋の痛みで首を吊り自殺した出来事だった。
魂の結束により、兄妹は互いの過去の全てを受け止め、理解し合った。
魂の結束で絶対の主従関係となり、兄妹は永遠に歩み続ける事になるのだ。
「花梨、帰ろうか」
「うん、帰ろう。
ママが待つ、私達のウチに」
過去の全てを乗り越え、佑樹と花梨は互いに初めて心からの笑顔を見せ合った。その笑顔は、これまでの兄妹の関係を完全に変える、温かく強い光を帯びていた。
「……フゥン、不思議な事ね。
花梨って子があんな晴れやかな笑顔をみせるなんてね。
あの狂気じみた顔で大暴れした同一人物とはとても思えないわね。
特に天音佑樹……興味深いわ」
兄妹の抱擁を離れた場所で見守ると言うより、むしろ監視していると言った方が適切かもしれない。
眼鏡越しに、穏やかさの奥に鋭い光を宿した瞳で、花梨を変えた佑樹に獲物を狙うような視線を向ける保健教諭の姿があった。
「霧山先生、妹はもう大丈夫みたいですので、ボク達はそろそろ帰ります」
花梨を伴い、さっきまで二人を離れた場所から眺めていた保健教諭の霧山和奈が、わざとらしく偶然を装って戻ってきたフリをした。
「そうね、天音さんもう大丈夫なのね?」
「はい、先生……昨日と今日も私のせいで迷惑を掛けて済みませんでした」
「……良いのよ。
あなた達はまだ多感な年頃で色々あると思うけど、それを沢山経験して立派な大人を目指して頑張りなさい」
和奈は、あのクラスであれだけメンヘラ的に大暴れした花梨が素直に謝罪した事に一瞬戸惑ったが、すぐに気を取り直して、普段の優しい保健教諭の顔に戻った。
自宅に戻り、子供達の帰りを待っていた優香が、結束して過去を乗り越えた花梨と熱い抱擁を交わした。
「花梨……」
「ママ……」
佑樹、優香、花梨は家族として、主従としての絆を確かめ合った。
リビングの柔らかい照明の下、三人はこれまでになく強く結ばれた家族の温もりを感じていた。
自室に戻った佑樹は私服に着替えている時に、制服の上着のポケットから、脱いだ弾みに1枚のメモがフワッと落ちてきた事に気付き、それを拾ってみた。
「これは……〇IN〇のID?一体誰の?」
どこかで拾った覚えがなく、誰からか受け取った覚えもないこのSNSのID。
佑樹はスマホを手に画面を開き、このIDを登録すると、思いも寄らない人物のアイコンとユーザー名が記されたアカウントが現れた。
「霧山先生……そうか、帰る間際に先生がボクのポケットにこのメモをコッソリ入れたのか」
和奈だった。
花梨を連れて保健室を後にしようと、和奈の横を通り過ぎようとした時に彼女がコッソリと佑樹のポケットにIDを記したこのメモを入れたのだ。
そして、登録して1分も経たない内に、和奈から通知が来た。
『私は執念深いわよ。
天音君、覚悟しておきなさい』
意味不明な投稿に佑樹はため息をついた。
「面倒な人に目をつけられたか……これで完全にボクの卒業までの陰キャ生活が終わったね」
謎めいた保健教諭の投稿から、佑樹の陰キャ生活計画が破綻したと悟ったのだった。




