4鏡 ハッピーエンドは始まりに過ぎない
5月の風が、ガラス越しにオフィスの空気を優しく揺らしていた。
午後三時半。エクセルシートを眺めながら、私はマウスをカチカチと動かしていた。
資料の山がデスクの半分を占領し、モニターの光が目に染みる。
桜はとっくに散って、新緑が街を鮮やかに染めている季節なのに、私の心はなんだか灰色っぽかった。
「十六夜さん、これの最終チェックお願いできますか?」
隣の島から、柔らかな声が降ってきた。
顔を上げると、そこにいたのは企画部の佐倉遥香さん。
入社四年目の彼女は、私より二つ年上で、いつも穏やかで品の良い笑顔を浮かべている。
黒髪を肩のあたりで軽くまとめ、白いブラウスに淡いブルーのスカート。シンプルなのに、彼女が着るとまるでファッション誌の一ページみたいだった。
「はい、わかりました。……今日中ですか?」
「急ぎじゃないので、明日の午前中で大丈夫です。ありがとう、十六夜さん」
遥香さんはそう言って、ふわりと微笑んだ。
その瞬間、胸の奥が、きゅっと締めつけられるような感覚がした。
彼女とは部署が違うけれど、去年の大型プロジェクトで何度か一緒に仕事をしたことがある。
丁寧で、発想が柔らかくて、ちょっと抜けてるところが可愛い……。
気づけば、私は会議室で彼女の横顔を目で追う回数が、どんどん増えていた。
定時を少し過ぎた頃、エレベーターで偶然一緒になった。
「十六夜さん、今日は残業なしなんですね。珍しい」
「ええ、なんとか切り上げられそうで……。遥香さんは?」
「私も今日は早めに帰ろうと思ってます。……あの、もしよかったら、一緒にお茶しませんか? 駅前に新しいカフェができたんですけど、苺の季節メニューが可愛らしいんです」
心臓が、どきん、と跳ね上がった。普段はこんな誘い、絶対に来ないのに。
「……いいんですか? 私でよければ」
「もちろん。十六夜さんとゆっくり話してみたかったんです」
カフェはオフィス街の少し奥まった路地にあった。
木の温もりを感じる店内で、五月の夕陽が窓から差し込み、テーブルを優しく照らしている。
私はアイスコーヒー、遥香さんは季節限定の「苺ミルクティー」を注文した。
グラスに浮かぶ苺のピンクが、彼女の頬と重なって見えた。
「実は最近、ちょっと疲れていて……。十六夜さんを見ていると、なんだかホッとするんですよね」
遥香さんがスプーンでティーカップを優しくかき回しながら、ぽつりと言った。
「え……私、ですか?」
「うん。真面目で、でもふとした瞬間に笑うと目が細くなってすごく可愛いし、仕事も丁寧だし。……なんか、癒やされるんです」
頬が熱くなった。私は慌ててストローを咥えてコーヒーを啜る。
甘い苺の香りが、遥香さんの言葉と混じって、頭の中をふわふわさせた。
それが、私たちの5月の始まりだった。
翌週の水曜日。ランチタイムに、遥香さんがデスクまで来てくれた。
「一緒に屋上で食べませんか? お弁当買ってきました」
コンビニのサンドイッチを並べて、屋上のベンチに座る。
5月の風が強く、遥香さんの前髪がさらさらと舞っている。
私は自然に手を伸ばして、その髪を直してあげた。
「ありがとう……。十六夜さん、手、優しいですね」
「え……」
彼女の笑顔が眩しくて、視線を逸らした。
金曜の夜は、仕事終わりに駅前の書店へ。
好きな小説の話で盛り上がって、結局二人とも同じライトノベルを買った。
「今度、感想交換しましょうね」
遥香さんが本を胸に抱きながら言った。その瞳が、街灯の下でキラキラ輝いていた。
週末の土曜日。彼女の提案で、近くの公園へピクニックに行くことになった。
シートを広げて、手作りのクッキーとコーヒーを持参した。新緑の匂いが満ちて、木漏れ日が彼女の黒髪に淡い光を落とす。
「十六夜さん……綾ちゃん、って呼んでいい?」
突然の名前呼びに、クッキーを落としそうになった。
「……いいですよ。でも、私も遥香さんって呼んでも?」
「うん、もちろん」
彼女は嬉しそうに笑って、私の隣に少し近づいて座り直した。
肩が触れ合う距離。心臓の音が、公園の鳥のさえずりより大きく聞こえた。
5月中旬。プロジェクトの締め切りが迫って残業が続いた日々。
でも、遥香さんは毎晩、LINEで「今日もお疲れ様。早く寝てね」とメッセージをくれる。
ちゃんと文章で、お手軽なスタンプじゃなく書いてくれる。
そこに彼女のやさしさや温度を感じて、私は毎回微笑んで返信した。
ある雨の夜、終電を逃して駅で途方に暮れていたら、遥香さんが傘を差して現れた。
「迎えに来ちゃった。私の家、歩いて10分くらいだから……泊まっていいよ?」
断る理由なんて、どこにもなかった。
彼女のワンルームマンションは、白と淡いピンクで統一された優しい空間だった。シャワーを浴びたあと、遥香さんの大きめのTシャツを借りて、ベッドに並んで横になる。
「緊張してる?」
「……してるよ、遥香さん」
彼女の手が、私の頬にそっと触れた。
ゆっくり、唇が重なる。
柔らかくて、甘くて、さっき飲んだ苺ミルクティーの味がした。
雨音が窓を叩く中、私たちは何度もキスを交わし、互いの体温を確かめ合った。
「ずっと、こうなりたかったの」
遥香さんの囁きに、私はただ「私も……大好き」と返すことしかできなかった。
その夜、私たちの関係は、友人の関係を超えたものになった。
翌朝。キッチンで遥香さんがエプロン姿で目玉焼きを作ってくれる。
背後からそっと抱きつくと、彼女はくすくす笑って振り返った。
「綾ちゃん、朝から甘えん坊さんだね」
「遥香さんが可愛すぎるから……」
朝食のあと、二人で出勤した。
社内ではまだ秘密だけど、目が合うたびに微笑み合う。
誰も知らない、私たちだけの5月。
プロジェクトが無事終わった金曜の夜。
会社の近くの居酒屋で、二人だけの打ち上げ。
「これからも、ずっと一緒にいようね、綾ちゃん」
遥香がグラスを合わせてくれた。
ビールじゃなく、ノンアルコールのカクテルだけど、それで十分幸せだった。
「うん。ずっと、遥香さんのそばにいる」
外に出ると、5月も終わりに近づいていた。
梅雨の気配がする空の下、私は遥香さんの手を強く握った。
それから半年後。
私たちは今、同じマンションで一緒に暮らしている。遥香の提案で引っ越した部屋は、二人分の服が並ぶクローゼットと、週末に並んで読む本棚でいっぱいだった。
毎朝一緒にコーヒーを淹れて、夜はソファでくっついてドラマを見る。
仕事の愚痴をこぼし合って、笑い合って、時には泣きながら抱き合う日々。
OLの日常は変わらない。
でも、帰る場所に遥香がいる。それだけで、世界が色づいて見える。
また5月が巡ってきたら、今年は二人で温泉旅行に行こうね、と約束した。
遥香と指を絡めながら、私は心の中で思う。
物語は、ここでハッピーエンドを迎える。
けれど、私と遥香の関係は、きっと一生続く。
ハッピーエンドなんて、ただの始まりに過ぎなかったんだ。
「百合の滴る万華鏡(百合短編集)」をお楽しみいただけましたか?
もし「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!
皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!




