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翡翠王国 ― 緑玉に魅入られた者たち  作者: さざ波和音


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第六部 山が火を吹く日 ― 黒い空、灰に沈む谷

 ――大地の震え、空を覆う灰。そして、失われたもののあとに芽吹く命――


 冬の気配が、山の懐に忍び寄っていた。


 白峰の頂には、朝ごとに白い霜が降り、谷を吹き抜ける風は、頬に触れるたび冷たさを増していた。


 ヌナの邑では、冬支度が急がれていた。


 サナとナギは、乾かした木の実を籠から取り出し、虫食いや傷んだものを選り分けていた。栃の実は、灰汁を抜いてから乾燥させ、必要なときに砕いて煮る。山葡萄は房から粒を外し、干して保存するものと、汁にしておくものに分けていた。


 住まいの奥では、干し肉が煙にいぶされ、魚は塩を少し振って吊るされている。


「かあ、この茸は、もう食べられる?」


 ナギが籠の中を覗き込んだ。


「よく見てごらん。こちらは乾いているけれど、これはまだ湿っている。湿ったまま重ねると、傷んでしまうよ」


「では、こっちは火のそばへ置くね」


「そうしておくれ。ただし、火に近づけすぎてはいけないよ。焦げてしまうからね」


 ナギはうなずき、茸を一つずつ並べ直した。


 その様子を見ていたサナは、娘の髪をそっと撫でた。


「おまえも、ずいぶん手が早くなったね」


「もう子供ではないもの」


「そうだね。けれど、いくつになっても、知らぬことはある。山も川も、毎年同じ顔をしているようで、少しずつ違うからね」


 サナの言葉に、ナギは窓の外を見た。


 山の向こうから、灰色の雲が流れてきていた。


 雨雲にしては、どこか重く、風に流される様子も不自然だった。


「かあ、あの雲は雨を連れてくるの?」


 サナは顔を上げた。


「さあ……。雨雲とは、少し違うようだね」


 そのとき、住まいの外から犬の吠える声が聞こえた。


 いつもなら、子供たちの足音を追いかけて駆け回る犬たちが、今日は山の方を向いて落ち着かない様子で吠えている。


 遠くの森では、鳥たちが一斉に飛び立った。


 何かが、山の向こうで起きていた。


 *


 その日の昼過ぎ、アシナとサヌカは、山裾の獣道を歩いていた。


 冬を前に、鹿や猪の通る道を確かめ、罠を置く場所を探していたのである。


 アシナは足元の土を見つめた。


「ここに新しい足跡がある。鹿だな」


「大きいな。角のある雄だろうか」


「そうかもしれぬ。だが、今は追わぬ方がよい」


「どうしてだ?」


「森の様子がおかしい。鳥の声が少ない。獣の気配もない」


 サヌカは周囲を見回した。


 確かに、いつもなら聞こえる小鳥の声がほとんどない。木々の葉も、風がないのに時折ざわめいていた。


 アシナは、山の上を見上げた。


 雲のようなものが、山の稜線の向こうに立ち上がっている。


 初めは、遠くの森が燃えているのかと思った。


 だが、煙にしてはあまりに高く、空へ向かって大きく膨らんでいた。


「サヌカ、戻ろう」


「あれは何だ」


「わからぬ。ゴウザに見てもらおう」


 二人が歩き出した、そのときだった。


 地面の奥から、低い音が響いた。


 ごう……。


 まるで、大地そのものが唸ったようだった。


 次の瞬間、足元が大きく揺れた。


「うわっ!」


 サヌカがよろめき、木の幹につかまった。


 アシナも膝をつき、地面に手をついた。


 木々が大きく揺れ、斜面から石が転がり落ちてくる。


 少し離れた場所では、枯れ枝がばきばきと音を立てて折れた。


「アシナ!」


「木から離れろ! 倒れてくるぞ!」


 二人は揺れる地面を踏みしめながら、開けた場所へ走った。


 揺れはしばらく続き、やがて静まった。


 しかし、静けさが戻ったわけではなかった。


 山の向こうから、腹の底に響くような音が続いていた。


 そして、空に立ち上がる灰色の柱が、いっそう大きくなっていた。


「山が……」


 サヌカが声を震わせた。


「ああ。山が、何かを吐き出している」


 アシナは、谷へ向かって走り出した。


 *


 ヌナの邑に戻ると、人々はすでに住まいの外へ出ていた。


 ゴウザは山の方を見つめ、顔を険しくしている。


 オトは弓を手にしていたが、狩りへ出る様子はなかった。サナはナギの肩を抱き、子供たちを住まいの近くへ集めている。


「ゴウザ、あれは何だ」


 アシナが尋ねた。


 ゴウザは、長い間、山を見つめていた。


「火の山だ」


「火の山?」


「遠い昔、山が火を吹くところを見た者から聞いたことがある。山の奥にある熱いものが、地の割れ目から噴き出すのだ」


「山から火が流れるのか」


「火だけではない。熱い石や灰も噴き出す。空高く上がった灰は、風に運ばれて遠くまで降ることがある」


 そのとき、ゴウザの頬に、小さな灰色の粒が落ちた。


 彼は指先でそれをすくい取った。


 白い粉のようでありながら、わずかにざらついている。


「来たぞ」


 ゴウザの声が低くなった。


「これは、山から来た灰だ」


 空から、細かな灰が降り始めた。


 初めは、霜のようにまばらだった。


 だが、風が向きを変えると、灰は一気に増えた。


 木々の葉に、住まいの屋根に、地面に、灰色の粉が積もっていく。


 遠くで、山の斜面が赤く光った。


 その光の下から、黒い煙のような雲が押し寄せてくる。


 人々の間に、恐怖が広がった。


「子供たちを住まいへ!」


 オトが叫んだ。


「火の粉が飛ぶかもしれぬ。乾いた草や薪を、住まいから離すのだ!」


「水を集めて!」


 サナも声を上げた。


「飲み水を土器に入れて、蓋をしておくれ。灰が入らぬように!」


 ナギは、母の言葉に従って土器を運んだ。


 アシナは、住まいの外に置いてあった編み籠を片づけ、干し肉や木の実を布で包んだ。


 ミヤは、磨きかけの翡翠と完成した勾玉を小さな袋に入れ、肩に掛けた。


「アシナ、石はこれだけでよい?」


「ああ。ほかの物は、あとで取りに戻れる。今は食べ物と水、それから火を起こす道具を持とう」


「わかった」


 彼女はうなずいた。


 ゴウザは、人々を見渡して言った。


「山の灰は、目にも喉にも入る。布で口と鼻を覆え。子供や年寄りは、風の当たらぬところへ。山の方へは近づくな!」


 人々は布を顔に当て、住まいの戸口を閉じた。


 しかし、灰は屋根の隙間からも入り込んだ。


 火のそばに置いてあった土器にも、灰が薄く積もっていく。


 空は、昼であるにもかかわらず、夕暮れのように暗くなった。


 *


 夜になっても、山の唸りは止まなかった。


 ときおり大地が揺れ、遠くから石が崩れる音が響いてくる。


 灰は降り続き、住まいの屋根には厚く積もっていた。


 ゴウザは、邑の者たちを集めた。


「このままここにいてよいか、考えねばならぬ」


「ここは山から離れている。すぐに火が来ることはないのではないか」


 若者の一人が尋ねた。


「山から流れ下る熱いものは、谷を通ってくることがある。灰だけならば耐えられることもあろう。だが、火や熱い石が流れてくれば、この住まいでは守れぬ」


「どこへ逃げればよい」


 カガが尋ねた。


「まずは谷の奥ではなく、山から離れた低い場所へ向かう。ただし、川沿いは避ける。川が土砂で塞がれれば、水があふれることもある」


 ゴウザは、地形を思い浮かべるように目を閉じた。


「白瀬の川を渡り、山から遠い広い場所へ行こう。大きな木の根元や崖の下には近づくな。落ちてくる石や土に巻き込まれる」


 オトがうなずいた。


「子供たちと年寄りを先に行かせる。歩ける者は荷を持ち、遅れる者を助ける」


「食べ物はどうする」


 サナが尋ねた。


「持てるだけ持とう。だが、荷を重くしすぎるな。水と食べ物、火を起こす道具、寒さを防ぐもの。それを先にする」


 ゴウザは人々の顔を見た。


「家や道具は、また作れる。だが、命は戻らぬ。大切なものを間違えるな」


 その言葉に、人々は静かにうなずいた。


 夜明け前、邑の者たちは移動を始めた。


 子供たちは大人の手を握り、年寄りは杖をつきながら歩いた。荷物を背負った若者たちは、足元を確かめながら、ゆっくりと列を進めた。


 アシナは、ナギの荷を半分引き受けた。


「兄、わたしも持てるよ」


「知っている。だが、今は歩くことに力を使え」


「うん」


 ミヤはサナのそばを歩き、彼女の荷を支えていた。


 カガは、後ろを歩く人々が遅れないよう、何度も振り返った。


 誰かが転べば、近くの者が手を貸した。


 荷物が落ちれば、別の者が拾った。


 いつもは別々の住まいで暮らす人々が、このときばかりは一つの長い家族のように歩いていた。


 *


 移り先に選んだのは、山から遠く離れた、なだらかな土地だった。


 そこには小さな流れがあり、周囲には木々も残っていた。


 人々は、風向きと地形を確かめて仮の住まいを作った。


 しかし、灰はそこにも降り続いていた。


 水を汲めば、表面に灰が浮かぶ。


 木の葉にも灰が積もり、地面に生えていた草は、その姿を隠してしまった。


 空を飛ぶ鳥は少なく、獣の姿も見えない。


 人々は持ってきた食べ物を少しずつ分け合った。


 サナは土器の水を布でこし、沈んだ灰を取り除いてから使った。食べ物も、灰の付着した部分を丁寧に洗い、傷んでいないものだけを選んだ。


「食べ物を粗末にしてはいけない。けれど、傷んだものを無理に食べてもいけないよ」


 サナはナギに教えた。


「うん。これはまだ食べられる?」


「よく見てごらん。灰がついているだけなら洗える。けれど、湿って腐り始めたものは捨てよう」


 ナギは母の手元を見つめながら、食べ物を一つずつ分けた。


 アシナとサヌカは、食べ物を探しに周囲の森を歩いた。


 だが、いつもの森とは違っていた。


 葉は灰に覆われ、細い枝は重みに耐えられず折れている。地面には灰が積もり、獣の足跡も見つけにくい。


「鹿も、どこかへ逃げたのだろう」


 サヌカが言った。


「ああ。いつもの獣道を通っていない」


「このままでは、食べ物が足りなくなる」


「だからこそ、急いで探してはいけない。灰の下に何があるかわからぬ。崩れた斜面もある」


 二人は、谷の外れに残っていた木の実を少しだけ拾い、戻ることにした。


 その途中、アシナは小さな流れの近くで、土の割れ目を見つけた。


 地面の一部が崩れ、そこから水が細く湧き出している。


「サヌカ、ここを見てくれ」


「水か」


「ああ。上の方から流れてくる水とは違う。灰が入りにくい場所を通ってきているようだ」


 二人は水の様子を確かめた。


 湧き出したばかりの水は澄んでいるように見えたが、飲む前には少しずつ汲み、土器に入れて様子を見ることにした。


 アシナは、その場所を覚えておいた。


「ここを皆に知らせよう。水は命をつなぐ」


 *


 数日が過ぎた。


 山の大きな噴き上がりは、少しずつ弱まっていった。


 しかし、灰はなお風に舞い、空を白く濁らせている。


 遠くの山からは、ときおり煙が立ち上っていた。


 ある朝、ゴウザは山の方角を見つめながら言った。


「まだ近づいてはならぬ。山が静かになったように見えても、地の中では熱いものが動いていることがある」


「いつになれば戻れる」


 アシナが尋ねた。


「山の様子を見なければわからぬ。道が崩れているかもしれぬし、川の流れも変わっているかもしれぬ」


 ゴウザは、少し間を置いた。


「帰りたいと思うのはわかる。だが、帰ることだけを急いではならぬ」


 その言葉に、アシナはうなずいた。


 彼もまた、ヌナの邑が恋しかった。


 幼いころに走り回った川辺。


 オトと弓の練習をした木立。


 サナとナギが土器を作っていた住まい。


 ミヤと並んで翡翠を磨いた石の台。


 そのすべてが、灰の下に埋もれている。


 けれど、人々は生きている。


 それが何より大切なことだった。


 *


 さらに時が過ぎ、灰が降る日が少なくなった。


 ゴウザと数人の若者は、ヌナの谷へ戻り、様子を確かめることにした。


 道の途中には、崩れた斜面があった。


 川の一部は土砂で塞がれ、水の流れが変わっている。


 以前は清らかに流れていた白瀬の川も、場所によっては濁り、岸辺には灰と泥が厚く積もっていた。


 木々は葉を落とし、細い枝は折れ、森の一部は茶色く変わっていた。


 ヌナの邑へたどり着いたとき、誰もすぐには言葉を発しなかった。


 住まいの屋根は灰の重みで崩れ、火を使っていた場所には灰が深く積もっていた。


 食べ物を蓄えていた穴も、灰と土に埋もれている。


 土器のいくつかは割れ、編み籠は形を失っていた。


 アシナは、かつて自分たちが暮らしていた場所に立った。


 そこには、家族の笑い声も、火のはぜる音もない。


 ただ、風が灰を舞い上げていた。


「ここが……わたしたちの邑だったのだな」


 ミヤの声は、かすかに震えていた。


「ああ」


 アシナは答えた。


 彼は地面に膝をつき、灰を手ですくった。


 その下から、住まいの床を作っていた土が現れた。


 指先に、懐かしい感触があった。


「また、ここに住まいを作ろう」


 アシナは言った。


「けれど、すぐには無理だね」


「そうだ。まずは水を確かめよう。食べ物を探し、道を直そう。それから、少しずつ住まいを作ればよい」


 ミヤはうなずいた。


「勾玉を磨く場所も、また作ろう。今度は、雨や灰が入らぬように」


「そのときは、俺が丈夫な屋根を作る」


「約束だよ」


「ああ、約束だ」


 ゴウザは、二人の姿を見つめていた。


 そして、灰に覆われた森の向こうを指さした。


「見てみろ」


 そこには、小さな緑色のものがあった。


 灰の積もった地面から、草の芽が一つ、顔を出していた。


 そのそばには、別の芽もある。


 まだ小さく、頼りない。


 けれど、確かに生きていた。


「草が……」


 サヌカが近づいた。


「こんな灰の中から、芽を出すのか」


「すべての草が戻るわけではない。森が元の姿になるまでには、長い時がかかるだろう」


 ゴウザは、芽を踏まぬように膝をついた。


「だが、土の中には命が残っている。風が種を運び、鳥が戻り、やがて木も育つ。山は、われらが思うより長い時を生きている」


 アシナは、小さな芽を見つめた。


 それは、翡翠のような輝きこそ持たない。


 けれど、灰色の大地の中で、何よりも強い緑を放っているように見えた。


 *


 その日から、人々は再びヌナの邑で暮らしを立て直し始めた。


 まずは、水を確かめた。


 湧き水の場所をいくつか探し、灰の混じりにくい水を集める。川の流れが変わった場所では、土砂を取り除き、危険な岸辺には近づかないようにした。


 次に、食べ物を探した。


 灰の少ない場所に残った木の実や茸を集め、魚が戻り始めた流れでは、少しずつ漁を試した。獣の足跡も、日を追うごとに見つかるようになった。


 住まいを作るため、若者たちは木を運び、柱を立てた。


 倒れた木は、使える部分を切り分け、薪や道具の柄にした。


 サナとナギは、残った土器を確かめた。


 割れていないものは洗い、再び使えるようにした。壊れた土器の破片は、土に混ぜる材料として使えるものを選り分けた。


「何もかも失ったように見えても、使えるものは残っているね」


 ナギが言った。


「そうだよ。壊れた土器も、次の土器を作る助けになる。失ったものを悲しむことも大切だけれど、残ったものを見つけることも大切なの」


 サナは娘の手を握った。


 ミヤは、灰の少ない場所に石を並べ、翡翠を磨くための小さな作業場を作った。


 磨き石を水で洗い、砂を選び直す。


 粗い砂、細かな砂、さらに細かな砂。


 それぞれを分け、袋に入れた。


「石を磨く砂も、また集め直さなくてはね」


「手伝うよ」


 アシナが言った。


「ありがとう。でも、石を磨く場所は、わたしが決めたい」


「そうだったな」


 二人は笑った。


 ミヤは、灰の中から取り出した未完成の翡翠を手に取った。


 その石には、まだ削り跡が残っている。


 けれど、割れてはいなかった。


「この石も、また磨ける」


「そうだ。石も、われらも、まだ終わってはいない」


 アシナの言葉に、ミヤは静かにうなずいた。


 *


 冬が過ぎ、春が訪れた。


 白峰の雪解け水が、再び白瀬の川を満たし始めた。


 谷の森は、まだ以前の姿には戻っていない。灰をかぶった木々の中には、枯れてしまったものも多かった。


 それでも、日当たりのよい斜面には草が生え、低い木の枝には新しい芽がついていた。


 鳥の声も、少しずつ戻ってきた。


 ある朝、ナギが住まいの外から声を上げた。


「かあ! 見て!」


 サナが外へ出ると、ナギの手には、小さな木の実の芽があった。


「灰の下から出てきたの。ここにも、あそこにも」


「まあ……」


 サナは、そっとしゃがみ込んだ。


「この大地は、まだ生きているんだね」


 その声を聞いて、アシナやミヤも外へ出てきた。


 ゴウザは、少し離れた場所から芽吹いた草を見つめていた。


「山は、恵みを与える。だが、ときにはすべてを奪うほどの力を見せる」


 ゴウザは、ゆっくりと言った。


「われらは山を恐れねばならぬ。だが、山を憎んではならぬ。山も川も、われらよりずっと長く、この地にあるのだから」


 オトがうなずいた。


「恐ろしさを知れば、備えることもできる。山の様子を見て、鳥や獣の動きを見て、地の震えを覚えておこう」


「そうだ。今日見たことを、子供たちに伝えよう。次の世代が同じ苦しみに遭わぬように」


 アシナは、遠くの山を見た。


 山の頂には、まだ薄い煙のようなものが見える。


 あの山は、これからも静かな日と恐ろしい日を繰り返すだろう。


 人は山を動かせない。


 けれど、山の声に耳を澄ませ、危険を知り、互いに助け合うことはできる。


 そして、失われた場所に、もう一度住まいを作ることもできる。


 アシナは、ミヤの手を取った。


「この谷に、また緑を増やそう」


「うん。石を磨き、土器を作り、木を植えよう。子供たちが、またこの川で遊べるように」


 白瀬の川は、春の光を受けて流れていた。


 その岸辺には、灰の中から芽吹いた小さな草が、風に揺れている。


 緑の石が生まれるまでには、長い長い時が必要だ。


 人の暮らしもまた、幾度も失い、築き直しながら、次の世代へと続いていく。


 山の怒りのあとに訪れた春。


 その小さな芽吹きこそが、人々にとって何より確かな希望だった。


 第六部 了


 次回、第七部「稲穂の実る大地 ― 水辺に芽吹く、新しい命」


 灰に覆われた谷が、少しずつ緑を取り戻すころ、東の広野から一人の旅人がやってくる。彼の荷には、見慣れぬ粒が入った袋があった。水辺にまけば芽を出し、やがて幾粒もの実を結ぶという不思議な草――稲である。人々は、狩りと採集に加え、新たな食べ物を育てる暮らしに出会うことになる。


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