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翡翠王国 ― 緑玉に魅入られた者たち  作者: さざ波和音


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第五部 黒い石と遠い山――火の山が生んだ黒き輝き、遠い人々を結ぶ道――

 秋の風が、ヌナの谷を渡っていた。


 白峰の頂には、朝の光が淡く降り積もり、山肌を覆う木々は少しずつ色を変え始めている。白瀬の川は、夏の勢いをわずかに失いながらも、岩の間を縫うように流れ、澄んだ水音を谷に響かせていた。


 ヌナの邑では、冬を迎える支度が始まっていた。


 女たちは木の実を集め、栃の実を水にさらし、灰汁を抜いている。乾燥させた魚や肉は、煙の届く住まいの梁近くに吊るされ、貝や茸は編み籠に分けて蓄えられていた。


 男たちは弓の弦を確かめ、石鏃の欠けを直し、槍の柄を締め直している。


 アシナもまた、川辺の平らな石の上に腰を下ろし、狩りに使う道具を手入れしていた。


 手の中にあるのは、淡い灰色の石で作った小刀だった。刃先には幾度も研ぎ直した跡があり、柄には鹿の皮が巻かれている。


「この刃も、ずいぶん働いたな」


 隣に座るサヌカが、アシナの手元を覗き込んだ。


「鹿の皮を剥ぐときも、肉を分けるときも使った。もう少し研げば、まだ使える」


「俺の小刀は、先が欠けたぞ」


「おまえは力を入れすぎる。石の刃は、力任せに使えばすぐ欠ける」


「わかっている。わかっているが、獲物を前にすると、つい力が入る」


 サヌカはそう言って笑った。


 アシナも笑い、砕いた石の粉を水で湿らせ、刃先を丁寧に研ぎ始めた。


 そのときだった。


 邑の入り口の方から、犬の吠える声が聞こえた。


 続いて、子供たちのはしゃぐ声が谷に響いた。


「誰か来たぞ!」


 サヌカが顔を上げた。


 アシナが立ち上がると、道の向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。


 背丈はアシナより少し低い。日に焼けた顔には旅の疲れがあり、肩には獣皮の荷袋を掛けている。腰には木の柄をつけた小さな刃物が下がり、手には長い杖を持っていた。


 男の後ろには、もう一人、若い連れがいた。


 男は邑の者たちに気づくと、杖を地面につき、深く頭を下げた。


「遠い山を越えてきた。今宵、火のそばで休ませてもらえぬか」


 邑の者たちが集まってきた。


 ゴウザが人々の間から進み出る。


「どこの山から来た」


「大きな川を越え、火の山の連なる土地からだ。名はイワという」


「火の山か」


 ゴウザの目が、わずかに細くなった。


「そこには、黒い石がある。火が山から流れ出し、冷えて固まった石だ」


 イワは荷袋を下ろし、口を開いた。


 中から現れたのは、黒く艶やかな石だった。


 光を受けると、夜の水面のように滑らかに輝く。ところどころに灰色の筋が走り、縁は鋭く尖っていた。


「これは……」


 アシナが近づいた。


 イワは黒い石を一つ手に取り、光にかざした。


「黒曜石という。火の山から生まれた石だ。山から流れ出た熱いものが冷え、石になった。割れば、刃のように鋭くなる」


「翡翠とは違うのだな」


 ゴウザが尋ねた。


「ああ。緑の石は、山の奥深くで長い時をかけて生まれる。こちらは、火山から流れ出たものが冷えてできたものだ」


 イワは黒い石の縁を指先で示した。


「見てくれ。これほど薄く割れる」


 彼は平たい石の上に黒曜石を置き、別の硬い石を手に取った。


 慎重に角度を定め、軽く打つ。


 カチリ、と澄んだ音がした。


 黒い石の端から、薄い破片が一枚、はじけるように飛び出した。


 それは木の葉ほどの大きさで、光を受けると黒い硝子のように輝いた。


 子供たちが息を呑む。


「もう一度、見せてくれ!」


 サヌカが身を乗り出した。


 イワは笑った。


「よく見ていろ。石を打つときは、どこを割るかを先に見る。力を入れすぎてはならぬ。石の中にある割れ目を探し、その向きに沿って打つのだ」


 彼は石を回し、別の場所を軽く打った。


 今度は細長い剥片が生まれた。


「この薄い破片が刃になる。肉を切り、皮を剥ぎ、木を削ることもできる」


 アシナは破片を手に取った。


 その縁は、驚くほど鋭かった。


 指先を近づけすぎないようにしながら、そっと角度を変えて眺める。


「これなら、鹿の皮もよく切れそうだ」


「そうだ。ただし、鋭いぶん、欠けやすい。厚い骨を断とうとすれば、刃が壊れる。骨には骨の道具を使い、肉にはこの刃を使う。石にも、それぞれ得意な働きがある」


 オトが近づき、剥片を見つめた。


「よい刃だ。だが、扱いを誤れば手を切る。子供たちには、刃の向きをよく教えねばならぬな」


「そうだな」


 アシナはうなずいた。


 幼いころから石器を使ってきた彼にも、この黒い石の鋭さは驚きだった。


 その晩、イワは邑の火を囲む人々に、遠い山の話を聞かせた。


 *


 火が赤々と燃え、焼いた魚の香りが漂っていた。


 イワの前には、木の実と干し肉、それにサナが煮た茸の汁が置かれている。


 イワは食事をありがたく受け取り、何度も礼を述べた。


「この谷の者は、よく食べ物を分けてくれる。山を越えて歩いてきた身には、ありがたいことだ」


「おまえも、遠い山から石を持ってきてくれた」


 ゴウザが答えた。


「石だけではない。遠い土地の話も、ここへ運んでくれた」


 イワはうなずいた。


「俺のいた土地では、黒い石を求める者が多い。狩りの刃にする者もいれば、矢の先にする者もいる。薄く割った石を木の柄に並べ、動物の肉を切る刃にする者もいる」


「黒い石は、どこでも採れるのか」


 アシナが尋ねた。


「いや。どこの山にもあるわけではない。火山の石が、ある場所でだけ生まれる。黒い石を見つけられる山は限られている」


「では、遠い土地の者たちは、そこまで取りに来るのか」


「来る者もいる。だが、山は遠い。川を渡り、森を越え、時には海を渡らねばならぬ。だから、黒い石は人から人へ渡っていく」


 イワは火のそばに黒曜石を置いた。


「山の近くに住む者が石を割り、使いやすい形にする。そこから遠い土地へ運ぶ者がいる。運ばれた石を受け取った者が、さらに別の邑へ持っていくこともある」


「ひとつの石が、いくつもの手を渡るのか」


 ミヤが静かに尋ねた。


「そうだ。山で生まれた石が、海辺の人の手に渡り、川辺の人の手に渡る。最後には、山を見たこともない者が、その石で獲物を仕留めることもある」


 ミヤは、膝の上に置いた翡翠の勾玉に目を落とした。


「緑の石も、同じだね。山から来た石を、わたしたちが磨き、遠い人の胸に結ぶ」


「そうだ。石は動かぬものに見えるが、人の手に渡るたび、遠い土地の話を運んでいる」


 イワの言葉に、ゴウザは深くうなずいた。


「山にある石は、山に生きる者だけのものではない。だが、山を荒らしてよいということでもない」


 火がぱちりと鳴った。


「黒い石を求める者が増えれば、山へ入る者も増える。石を手に入れようと、道を塞ぐ者も出るかもしれぬ」


 カガが、火の向こうから口を開いた。


「石が欲しい者が多ければ、石を持つ者は強くなる。遠くへ運ぶ者も、道を知る者も、物を交換する者も、皆がそれを欲しがる」


「欲しがることは悪くない」


 ゴウザは静かに言った。


「山の石を使い、暮らしを助ける。それはよいことだ。だが、欲しいからといって、ほかの者の手から奪ってよいことにはならぬ」


 イワは火を見つめながら答えた。


「俺の知る山でも、黒い石をめぐって争いが起きた。採れる場所を囲い、ほかの者を近づけぬようにする者がいた。石を運ぶ道で荷を奪う者もいた」


「それで、どうなった」


 アシナが尋ねる。


「人々は山を恐れ、道を避けるようになった。石は手に入らなくなり、遠い邑との取り交わしも途絶えた。争った者たちも、食べ物や道具を失った」


 イワは、火に照らされた人々の顔を見渡した。


「石を奪い合っても、腹は満たされぬ。道を閉ざせば、魚も塩も、木の実も毛皮も届かなくなる」


 カガは腕を組んだ。


「山の石を手に入れたい者は、これからも増えるだろう。緑の石も、黒い石も、遠い土地の者たちが欲しがる。ならば、石を採る者、運ぶ者、受け取る者が、互いに守る約束を持たねばならぬ」


「どのような約束だ」


 ゴウザが尋ねた。


「採る者は、山を壊すほど掘り返さぬ。運ぶ者は、荷をごまかさぬ。道を通る者を襲わぬ。受け取る者は、石の代わりに渡す物を惜しみすぎぬ」


 カガは、ひとつずつ指を折った。


「それから、山の入り口を一人の者が塞がぬことだ」


 ゴウザは、ゆっくりと首を縦に振った。


「それがよい。山は、われらが生まれる前からそこにある。われらが去った後も、そこにある。今ここにいる者だけで、山のすべてを決めてはならぬ」


 ミヤはその言葉を聞きながら、手の中の勾玉をそっと握った。


 緑の石も、黒い石も、人の欲を呼ぶ。


 けれど、それらは本来、山の奥で静かに時を重ねてきたものだった。


 石が人を争わせるのではない。


 石をどう扱うかを決めるのは、人の心なのだ。


 *


 翌朝、イワはアシナたちを連れて、白瀬の川辺へ向かった。


 川原には、白い石や灰色の石が幾重にも重なり、水に洗われた小石が陽の光を受けていた。


 イワはその中から、ひとつの石を拾い上げた。


「この川にも、遠い山から運ばれてきた石がある。長い時をかけて水に削られ、丸くなったものだ」


「黒曜石も、川に流れてくることがあるのか」


 サヌカが尋ねた。


「ある。だが、どこにでもあるわけではない。山から川へ落ち、流れに運ばれたものが、下流の川原で見つかることもある」


 イワは荷袋から、いくつかの黒曜石を取り出した。


 ひとつは、手のひらほどの原石。もうひとつは、角を落として持ち運びやすくした石。そして、薄く割り取られた刃となる剥片だった。


「これらは、すべて同じ黒い石だ。だが、使い道が違う」


 アシナは原石を手に取った。


 ずっしりとした重みがあり、表面には割れた跡が残っている。


「これは、まだ刃になっていない」


「そうだ。山から運んできたままの石だ。こちらは、余分なところを割り落とし、石器を作りやすくしたもの。そして、これはすぐに使える刃だ」


 イワは剥片を一枚、木の枝に当ててみせた。


 薄い黒い刃が、木の表面をすっと削った。


「石を運ぶ者が、すべてを完成させる必要はない。山の近くで石を割る者もいれば、遠い土地で自分の使いやすい形に整える者もいる」


 ミヤがうなずいた。


「翡翠も同じ。原石のまま運ぶこともあるし、形を整えた石を運ぶこともある。勾玉に磨いてから渡すこともある」


「そうだ。遠い土地に石を磨く者がいなければ、完成した品を求めるだろう。自分で作れる者なら、原石を求めることもある」


 イワはミヤの勾玉を見つめた。


「その緑の石は、よく磨かれている。石の形を見て、どこに穴を開けるかを考え、割れぬように少しずつ削ったのだろう」


「うん。急げば欠けてしまう。粗い砂で形を整え、細かな砂で磨いて、最後に穴を開ける」


「黒い石も、翡翠も、手をかけた者の心が残るのだな」


 ミヤは少し照れたように笑った。


「石は話さないけれど、手をかけた時のことは、形に残るよ」


 アシナは、彼女の言葉を聞きながら、黒曜石の剥片を見つめた。


 黒い刃は、緑の勾玉とは違う輝きを持っている。


 緑の石が、人の胸に結ばれ、祈りや願いを運ぶなら、黒い石は、人の手に握られ、獲物を仕留め、食べ物を得る助けになる。


 どちらも、遠い山から人の暮らしへやって来たものだった。


 *


 その日の昼過ぎ、ゴウザはイワに頼み、黒曜石を割る様子をもう一度見せてもらった。


 邑の若者たちも集まり、石の割れ方をじっと見つめる。


 イワは黒曜石を膝の上に置き、硬い石で軽く打った。


 薄い破片が飛び出す。


 次に、石の縁を整え、細かな剥片を取り除いていく。


「石を割るには、ただ強く打てばよいのではない。石の形を見て、どこから力を加えるかを決める。打つ場所を誤れば、欲しい形にはならぬ」


 彼は、ひとつの石から複数の剥片を取り出した。


「大きな石を無駄に割らぬよう、どの向きに刃を取るか、先に考える。残った石も、使えるところがあれば捨てぬ」


 ゴウザは感心したように目を細めた。


「石をよく見ることは、山をよく見ることと同じだな」


「そうかもしれぬ」


 イワは笑った。


「黒い石は、見た目は同じでも、割れ方が違うことがある。石の中に小さな傷があるものもあれば、気泡のような跡が残るものもある。よい刃を得るには、石を選ぶ目もいる」


 アシナは、剥片のひとつを手に取った。


 刃先は薄く、光を受けて鋭く輝いている。


「これを矢の先に使うことはできるか」


「できる。だが、薄すぎれば獲物の骨に当たったときに欠ける。矢の先に使うなら、形と厚みをよく考えねばならぬ」


 オトがうなずいた。


「獲物を倒すのは、刃の鋭さだけではない。矢の飛び方、射る距離、風、獲物の動き。それらを見て、道具を選ぶのだ」


「父の言う通りだ」


 アシナは黒曜石を置いた。


「この石を手に入れたからといって、狩りがすぐ上手くなるわけではない」


「そういうことだ」


 オトは息子の肩を軽く叩いた。


「石も弓も、使う者の手に馴染んでこそ役に立つ」


 サヌカは、自分の欠けた小刀を取り出した。


「ならば俺も、この黒い石で新しい刃を作ってみたい。今度は力を入れすぎぬようにする」


「まずは、石をよく見ろ」


 イワが言った。


「石は、急かされるのを好まぬ」


 その言葉に、皆が笑った。


 *


 数日後、イワはヌナの邑を発つことになった。


 旅の荷には、交換で得た干し肉、木の実、獣皮が収められていた。サナは道中で食べるようにと、栃の実を練り込んだ焼き物を包んで渡した。


「山を越える道は、冷える。夜は火を絶やさぬようにな」


「ありがたい。遠い山に戻ったら、この谷のことを話そう」


 イワは、ゴウザに向き直った。


「黒い石を求める者は、これからも来るだろう。ここにも、遠い土地から石を運ぶ者が現れるかもしれぬ」


「そのときは、山の恵みを大切にする者を迎えよう」


 ゴウザは答えた。


「石を奪いに来る者には、道を譲らぬ。だが、石を分け合おうとする者には、火を分けよう」


 イワは深く頭を下げた。


 アシナとミヤも、別れの挨拶をした。


「また来ることがあれば、黒い石の話を聞かせてくれ」


 アシナが言った。


「そのときは、もっと遠い山の石を持ってこよう」


 イワは笑い、若い連れとともに山背の道へ歩き出した。


 その背中が木々の向こうに消えるまで、ヌナの邑の人々は見送っていた。


 *


 夕暮れ、アシナは川辺に腰を下ろし、イワから譲り受けた小さな黒曜石の刃を眺めていた。


 傍らにはミヤが座っている。


「黒い石は、遠い山から来たのだね」


「ああ。火の山から生まれ、川を越え、森を越えて、ここへ来た」


「わたしたちの緑の石も、いつか遠い海の向こうへ行くのかな」


「行くかもしれない。ミヤが磨いた勾玉を、見たこともない人が胸に結ぶ日が来るかもしれない」


 ミヤは、白瀬の川の向こうを見つめた。


「その人は、どんな人だろう」


「山の恵みに感謝する人ならよい」


「そして、石を磨いた手のことも、思い出してくれるといいね」


 アシナはうなずいた。


 川面には夕焼けが映り、流れる水の上で赤い光が揺れている。


 山から来た緑の石。


 火の山から来た黒い石。


 海から運ばれてきた白い塩。


 それぞれ違う場所で生まれたものが、人の手を渡り、互いの暮らしを支えている。


 だが、遠い山に石があると知れば、その山を自分だけのものにしたいと思う者も現れるだろう。


 道を知る者は道を塞ぎ、石を持つ者は石を隠し、交換の場には欲が忍び込むかもしれない。


 ゴウザが教えた言葉を、アシナは思い返した。


 ――山は、われらが生まれる前からそこにある。われらが去った後も、そこにある。


 山の恵みを、次の世代へ残すこと。


 それは、石を採る者だけでなく、石を運び、石を磨き、石を使う者すべてに関わることだった。


 アシナは黒曜石を布に包み、腰の袋にしまった。


 遠い山へ続く道は、まだ見ぬ人々の暮らしへとつながっている。


 その道を、争いではなく、互いの恵みを運ぶ道にしたい。


 川のせせらぎを聞きながら、アシナはそう願った。


 白峰の向こうには、夕闇に沈む山々が幾重にも連なっていた。


 そのさらに遠く、火を抱く山のどこかで、今も黒い石が静かに眠っている。


 第五部 了


 次回、第六部「山が火を吹く日 ― 黒い空、灰に沈む谷」


 遠い山の話を聞いた人々のもとへ、ある日、山から奇妙な知らせが届く。獣たちが姿を消し、鳥たちが一斉に空へ舞い上がった。やがて地の底から響く音が谷を揺らし、空には見たこともない灰色の雲が広がっていく。山の恵みと恐ろしさを知る人々は、家族を守るため、厳しい選択を迫られる。


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