第四部 木を育てる者 ― 森の恵み、道具の命
春の雨が、白峰の山々を静かに濡らしていた。
夜のうちに降った雨は、木々の枝から雫となって落ち、芽吹いたばかりの若葉を輝かせている。白瀬の川は、山から流れ込む水を受けて少しばかり勢いを増し、川辺の石を洗いながら谷を下っていた。
雨上がりの森には、土の匂いが満ちていた。
湿った落ち葉の下から小さな虫が這い出し、鳥たちは枝の間を飛び交う。木々の根元では、春の草が伸び、柔らかな若芽が陽の光を求めて葉を広げていた。
アシナは、オトとゴウザに続いて山道を歩いていた。
今日は、住まいや道具に使う木を見分けるため、森の奥へ入る日だった。
ヌナの邑では、住まいの柱や屋根を支える木、弓や槍の柄、籠を編むための枝、土器を焼く薪など、暮らしのあらゆるところに木が使われている。
しかし、木なら何でもよいわけではない。
硬くて丈夫な木もあれば、しなやかで曲げやすい木もある。燃やすと長く熱を保つものもあれば、すぐに燃え尽きてしまうものもある。水に強い木、乾くと割れやすい木、削りやすい木もある。
それぞれの性質を知らなければ、よい道具にはならない。
「とう、この木はどうだ?」
アシナが、目の前に立つ大きな木を見上げた。
オトは幹に手を当て、樹皮を確かめた。
「太く、まっすぐに伸びている。幹もよく締まっているな。だが、これを切るのはよそう」
「なぜだ?」
「まだ若く、元気に育っている。それに、この木の根元には小さな木がいくつも育っている。今、ここを大きく傷つければ、周りの木々にも影響する」
ゴウザが木の根元を指さした。
「森は一本の木だけで生きているのではない。根が土を抱え、枝が雨を受け、葉が陽を受ける。木の下には草が生え、虫が集まり、獣が通る。皆、つながっている」
アシナは、足元に広がる木の根を見た。
「では、どの木を使う?」
「すでに倒れた木や、枯れて立っている木から見ていこう。倒れた木でも、中まで腐っているものは道具には向かぬ。外は傷んでいても、中がしっかりしているものなら、使えるところがある」
三人は森の斜面を歩きながら、倒木を探した。
やがて、斜面の少し下に、大きな木が横たわっているのが見えた。
幹は太く、枝は広く伸びていた。根元には土が盛り上がり、倒れた方向には若い木が数本巻き込まれていた。
「これは、いつ倒れたのだろう」
アシナが近づこうとすると、ゴウザが手を上げて止めた。
「待て。まず周りを見ろ」
木の根元には大きな土の塊がついていた。斜面の土が雨で緩み、根ごと持ち上がったらしい。倒れた木の枝が別の木に引っかかり、幹の一部が宙に浮いている。
「この枝は、まだ生きている木に引っかかっている。近づけば、急に落ちてくるかもしれない」
オトは慎重に周囲を歩いた。
「枝の重みが、こちらへ向いている。ここから木を切ろうとするのは危ない」
三人は木の倒れ方を確かめ、使える部分があるかを遠くから見た。
すると、幹の根元近くに、妙なものが見えた。
土の間から、淡い色の石がのぞいていたのである。
アシナが目を凝らした。
「石だ。翡翠ではないか?」
ゴウザはすぐには近づかず、周囲の土の様子を見た。
「木が倒れたときに、根元の土も一緒に持ち上がったのだろう。石はその土の中にあったのかもしれぬ」
三人は、倒木が動かないことを確かめながら、少しずつ近づいた。
石は、緑色ではなかった。
灰白色の地肌に、細い黒い筋が走っている。ところどころに淡い光沢があり、濡れた表面は雲の切れ間から差す光を受けて鈍く輝いていた。
アシナが手を伸ばしかけると、ゴウザが言った。
「すぐに掘り出すな。石の周りの土を見てからだ。根を傷つければ、斜面がまた崩れる」
三人は石の位置を確かめ、周囲に目印をつけた。
石を持ち帰ることよりも、まず斜面の安全を確かめることが先だった。
そのころ、ヌナの邑では、ミヤが翡翠を磨く道具を前に考え込んでいた。
彼女の前には、硬い石の磨き具と、木で作った小さな柄が並んでいる。
翡翠を磨くには、石の表面に砂を当て、少しずつ擦り続ける。細かな部分を整えるには、指先に力を込める必要がある。
だが、長く作業を続けると手が疲れる。
「この柄を、もう少し握りやすくできないかしら」
ミヤは、木の柄を手の中で回した。
今の柄はまっすぐで、手の小さな者には握りにくい。力を入れると指が痛み、細かな動きを続けにくくなる。
そこへサナがやってきた。
「何を考えているんだい?」
「翡翠を磨く道具よ。木の柄を少し丸くして、手に沿う形にできないかと思って」
サナは柄を受け取り、手の中で確かめた。
「木は、石とは違って削りやすい。けれど、削りすぎると弱くなる。握るところは丸くしても、石を留めるところは丈夫にしておかなくてはね」
「そうね。石を支える部分まで細くしたら、使っているうちに折れてしまう」
ミヤは木片を手に取った。
「木の繊維に沿って削れば、割れにくいのかしら」
「そうだよ。木には、伸びてきた向きがある。無理に逆らうと、ささくれたり、裂けたりする。削るときも、木の様子を見なくては」
サナは、近くに置いてあった木の小刀を手にした。
「この小刀も、刃だけでは使えない。木の柄が手になじみ、刃がぐらつかないから役に立つんだ」
ミヤはうなずいた。
「翡翠も、磨く石も、柄の木も、どれか一つが欠けてもよい道具にはならないのね」
「そうだね。道具は、いくつものものが互いに支え合ってできている」
二人は木片を選び、削り始めた。
ミヤはまず、握る部分を少しずつ丸くした。手のひらに当てて確かめ、指の当たるところを削り直す。刃先を当てる角度を変えながら、木の繊維に沿って薄く削っていった。
削り屑が足元に落ちる。
木の香りが、静かな住まいの中に広がった。
昼近くになり、アシナたちは森の中で、木を切る場所を探していた。
倒木の中には、幹の一部がまだ使えるものもあった。腐った部分を避け、乾燥させれば、槍の柄や小さな道具に使えるかもしれない。
オトは、倒木の枝を一本手に取った。
「この枝は、弓には向かない。少し曲がりが強すぎる。だが、籠を編むための枝なら使えるだろう」
「弓には、どんな木がよい?」
アシナが尋ねた。
「しなやかで、折れにくい木だ。弓は、ただ硬ければよいのではない。曲げたときに戻る力が要る。木の目がまっすぐで、節が少ないところを選ぶ」
オトは、若い枝を一本手に取り、無理のない範囲で曲げてみせた。
「ほら、これなら戻ろうとする力がある。だが、切ったばかりの木は水を多く含んでいる。すぐに弓にしてはいけない。ゆっくり乾かし、割れや反りが出ないか確かめる」
アシナは自分の弓を見た。
弓の木は、何度も使ううちに少しずつ癖がつく。弦を張るとき、引くとき、矢を放つとき、そのたびに木は力を受ける。
「弓の木も、長く生きてきた木なのだな」
「そうだ。だから、使う者は粗末にしてはならない」
オトは、弓の弦を指で弾いた。
「弦も同じだ。植物の繊維を撚り合わせたものや、獣の筋を使ったものがある。雨に濡れたまま放っておけば弱くなる。使った後は乾かし、ほつれたところは早めに直す」
アシナは父の言葉を聞きながら、自分の弓を確かめた。
狩りに出るとき、弓は獲物を捕らえるための道具である。しかし、獲物の命を奪うものでもある。
道具を大切にすることは、命を粗末にしないことにもつながっていた。
午後、森の風が再び強くなった。
三人が山の斜面を下ろうとしたとき、上の方から大きな音が響いた。
ごうっ。
木々の枝が激しく揺れ、何かが倒れるような音が続いた。
「離れろ!」
ゴウザが叫んだ。
先ほど見つけた大木の枝が、風に揺さぶられていた。ほかの木に引っかかっていた枝が、ついに外れたのである。
大きな枝が斜面を滑り落ち、途中の若木を折りながら、岩にぶつかって止まった。
土が崩れ、小石が転がり落ちる。
アシナたちは身を低くして、しばらく動かなかった。
やがて、音が静まった。
「危なかったな」
オトが息を吐いた。
ゴウザは、落ちた枝の先を見つめた。
「森は、風の日にも姿を変える。昨日まで安全だった場所が、今日も安全とは限らぬ」
アシナは、倒れた木の根元にあった石を思い出した。
「あの石は、どうする?」
「今日は手を出さぬ。土が落ち着いてから、もう一度見に来よう」
ゴウザはそう言った。
「森から恵みを受けるときは、森が許すところを見極める。急げば、土も木も人も傷つく」
三人は、倒れた枝を避けながら山を下りた。
夕方、ヌナの邑に戻ると、ミヤは新しい木の柄を仕上げていた。
以前のものより少し太く、握るところは手のひらに沿うように丸くなっている。石を支える部分には十分な厚みを残し、紐を巻いて固定できるように溝もつけた。
ミヤは、磨き具を取り付け、手の中で動かしてみた。
「どう?」
サナが尋ねる。
「前より握りやすいわ。力を入れても、指が痛くなりにくい」
ミヤは翡翠の小片を取り、磨き具を当てた。
以前よりも手元が安定し、細かな部分を整えやすくなっていた。
「これなら、長く磨いても疲れにくい。もっと早く考えればよかった」
「早く作ることだけがよいわけではないよ。使ってみて、困ったことに気づく。それから直せばよい」
サナの言葉に、ミヤは笑った。
そこへ、アシナたちが帰ってきた。
「木のことは、どうだった?」
ミヤが尋ねると、アシナは山で見た倒木の話をした。斜面から根ごと倒れた大木。その根元に隠れていた不思議な石。風で落ちた大枝が、若木を折ってしまったこと。
「石は、まだ見ていないの?」
「ああ。土が落ち着いてからにする。ゴウザは、根元の土を崩さずに確かめたいと言っていた」
ミヤはうなずいた。
「石を採るにも、土を採るにも、木を使うにも、急いではいけないのね」
「そうだな。森には、まだ知らないことが多い」
アシナは、ミヤの手元にある新しい柄を見つけた。
「これは、何だ?」
「翡翠を磨く道具の柄よ。少し形を変えてみたの」
アシナは受け取り、握ってみた。
「手になじむな。これなら細かな仕事がしやすそうだ」
「木を削るのも、翡翠を磨くのも、少しずつ確かめながら進めるのがよいみたい」
ミヤは、磨き具を元の場所に置いた。
その夜、ヌナの邑では、木の枝を束ねる者、籠を編む者、弓の弦を直す者、土器を並べる者たちが、それぞれの仕事を続けていた。
火のそばでは、サナが木の実を煮ていた。ナギは乾いた薪を選び、燃え残った炭を土器のそばへ寄せている。
オトは若者たちに、弓の弦を傷めない手入れの仕方を教えていた。
ゴウザは、森から持ち帰った枝を見ながら、どの木を何に使うか考えていた。
森の木は、住まいを支え、舟を進め、道具となり、火となって人々を温める。
けれど、使い尽くせば森は痩せる。
若い木を残し、倒れた木を生かし、必要な分だけを受け取る。そうして初めて、森は次の春にも人々へ恵みを与えてくれる。
アシナは、火のそばで木の柄を手に取るミヤを見つめた。
小さな道具の中にも、山の木と人の知恵が息づいている。
その道具で磨かれる翡翠もまた、山の奥深くから長い年月をかけて生まれたものだ。
土も、石も、木も、火も。
人はそれらを支配するのではなく、性質を知り、恵みを分けてもらいながら生きている。
そのことを、今日の森が教えてくれた。
翌朝、ゴウザはアシナとオトを連れて、再び大木の倒れた斜面へ向かった。
夜の雨はなく、土は少しずつ落ち着いていた。
倒木の根元に近づくと、昨日見つけた淡い色の石が、さらに姿を現していた。
石の周囲には、木の根が幾重にも絡み合っている。
ゴウザは、根を一本ずつ確かめた。
「この根の間に、石が挟まっている。無理に引けば、根も石も傷つく」
アシナは、石の表面をじっと見た。
その石には、淡い緑の筋が一本、斜めに走っていた。
翡翠ではない。だが、山の中で見たことのない、不思議な模様だった。
「この石は、何だろう」
ゴウザは答えず、しばらく石を見つめた。
「山には、まだ知らぬ石が眠っている。名をつけるのは、よく見てからでよい」
三人は石を無理に動かさず、根元の土を少しずつ取り除くことにした。
そのとき、斜面の奥から、かすかな人の声が聞こえた。
アシナが振り返る。
木々の間に、見知らぬ人影があった。
その人物は、こちらを見ているようだった。
やがて、枝を踏む音が一つ、また一つと近づいてくる。
森の奥には、まだ人の知らない道が続いている。
そして、倒れた大木の下から現れた石は、これからヌナの邑の人々に何をもたらすのだろうか。
アシナは、山の奥を見つめた。
森の風が、若葉を揺らしていた。
第三巻 第四部 了
次回予告
第五部「森の奥の石 ― 倒木が開いた古い道」
大木の根元から姿を現した、淡い緑の筋を持つ不思議な石。そして、森の奥から近づいてきた見知らぬ人影。
その人物は、遠い土地から木の実や樹皮を求めて山を越えてきた旅人だった。彼が語るのは、森のさらに向こうにある、古い石の採取場と、そこへ通じる道のことだった。
アシナとゴウザは、倒木によって開かれた斜面を慎重に調べる。ミヤは石の模様を見極めようとし、ヌナの邑では木の皮や繊維を使った新しい道具づくりが始まる。
森の奥に残された人々の足跡は、翡翠の道とは異なる、もう一つの恵みの道へとつながっていく。




