前編
1.リュエのモノローグ
できるなら抱きしめ合いたかった。世界にお互いしかいないのだと、本気で錯覚してしまえるぐらいに。もう二度と、離れ離れにならないように。
でも、私たちはそれをしなかったし、できなかった。年齢も身分も、許される生き方に至るまでの何もかもが違いすぎた。
可哀想なルュエ。逃げられない運命に踊らされて、今はこんなボロ雑巾みたいになってるなんて。…ううん、もっと可哀想なのは坊ちゃんだった。私が、壊してしまった。
私はぼんやりを息を吐き出す。もう私にとっての坊ちゃんでもなくなった彼を名前で呼べるほど、私は自由に生きられない。けれど彼の方がよっぽど明るく清潔で真っ白な何かに縛られて生きている。
木の枠組みにボロ布を敷いただけのベッド。私の寝床はここだ。履き違えるな。この首に絡みついたどす黒い何かを引き千切ろうなんざ、過ぎた望みだったんだ。
私は思い出したように喉を撫でた。変わらず痛むけれど、もう古傷となったあの日の傷も、少しだけ風化を感じさせる。あの頃みたいな鋭い痛みは消え失せたから。
屋根に穴の空いた小屋みたいな我が家に初夏の草の香りが吹き抜ける。きっと、今年の夏は暑くなる。
…あの夏と同じか、それ以上に。
ー・ー・ー
2.冬の三日月は笑う
いつも変わらない日々を過ごしていた。人生っていうでかい砂時計の砂が全部同じに感じるようなぐらいに。
朝起きたらまず髪を梳く。櫛はどこかから拾ってきたものだった。4分の1ぐらい歯の欠けているそれの持ち手は、下の持ち主の身分を誇示するようにぎらぎらとしていた。
趣味の悪い意匠だ。けれどそれ以上にかけられている金が多すぎる。だからきっとこれは価値のあるものなのだろう。
朝ごはんは昨夜の残りの汁物とぱさぱさのパン。正直言って動けるだけの栄養を摂れれば良かったので、かなり貧相な食事だったと思う。でもあの頃は、何とも思っていなかった。
食べ終わったら着替えて、お仕事の確認。特にお仕事が無かった日はただ武器の手入れをして鍛錬をする。…でも、あの日は夜にお仕事があった。
制服は真っ黒。夜に上手く溶けこめるし何より、血が目立たない。
私の生まれはあまり聞き心地のいいものではない。まあよくあることで、街の荒んだところに転がってる痴情のもつれをこねくり回して歪に整形してまたぶち壊した中の一番鋭いかけらを脳天に突き刺した感じだ。…と、言っても私自身でさえもあまり詳しくは知らないけれど。
その日は確かちょうど三日月だった。仄かに明るいのに、冬の空気が何処か寂しさと虚しさを感じさせる夜空は、絶好の殺人日和だった。
することと言えば普段のお仕事と変わらない。名前も顔も知らない依頼人にとって邪魔な人を言われた通りに始末するだけ。とっても簡単なお仕事だ。
でも、その日は少ししくじってしまった。いつもなら暗殺対象が一人になった隙をついて殺す。人間なんて大勢の人間が思ってる以上に、呆気なく死ぬから。けれど、その日のターゲットはすごく用心深いので有名なクソ野郎だった。
私が部屋に入った途端、警戒を露わにする護衛が四人。ターゲットは机の下に隠れた。こいつ、手慣れてやがる。それでも私は武器を構えた。今ここにあるのは、殺す人間と邪魔をする人間だ。ならばすることは、ただ一つだった。
それなりに死闘を繰り広げた記憶があるが、あくまでお互い事を内密に運びたいもの同士。冥土の土産を教えてくれたりはしなかったし、こちらから渡す土産もなかった。
「…任務完了」
後半使い物にならなくなった左腕を押さえながら小さく呟く。早くここから離れなくてはいけない事はわかっていた。それでも体が動かなかったのだ。動けないんじゃなく、動きたく無かった。
部屋中に充満した血の錆っぽい香りと遺体から仄かに香る饐えた匂い。それを鼻いっぱいに吸い込んで、私はうっとりと微笑んだ。
やっぱり私はこういう時の方が落ち着く。しかも今日は獲物が多くて少しはらはらして楽しかった。そう、楽しかったのだ。
ああ、やはり私はどうかしている。今こんなにも気分が高揚しているなんて。
私は自分の頬を撫でる。その口元は歪に、どこか満足げに、歪んでいた。
けれど私はこの時失態を犯した。気がつけなかったのだ。ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、父親に悪戯を仕掛けにやってきた少年がこちらを見ていた事に。
きっとこの日に、地獄のようでいて夢心地な私たちの物語の歯車が動き始めたのだと思う。
ー・ー・ー
3.リシェルのうたた寝
頭が痛い。もう何日もまともな睡眠が取れていなかった。片手にコーヒーを持ってひたすらに書類を捌く。
___ 彼女が笑っている。
そこに転がる死体も徐々に広がる火の海も見えていないかのように。こぼれ落ちる涙でさえも、諦めたかのような憑き物が落ちたかのような、淡く美しい透明さだった。
僕は気がついたら手を伸ばしていた。彼女に近づくにつれ、自身の手のひらが焦げていることも知りながら。
ああ、ほらまた彼女が笑っている___
「っは、…」
目が覚めた。コーヒーのマグカップを握ったまま器用に眠っていたらしい。
僕は手のひらを見つめ、両手を覆う白い手袋を外した。両手のひらに残るあの時の火傷が、なぜだか熱を帯びていた。
何だか酷く懐かしい夢を見ていたような気がする。指先に触れた誰かの涙の感覚が少し残っている。
僕は軽く伸びをして、コーヒーを一口飲むんだ。これからやらねばならないことはたくさんある。僕は書類にまた目を通し始めた。
たとえ、世界中の人から忘れれろと言われても、忘れることなんてできない。僕は叶うはずもない夢をずっと抱き続けてる。
できるならまた、会える事を。
ー・ー・ー
3.二人の出会いと芽生え
春の風が髪を撫でるように囁いた。それに合わせて花も綻ぶような錯覚に襲われるぐらいに、甘く、ゆるやかに。
こんな季節になったら、どんな子供であろうと走り出したくなるのは当然である。と、言うことで今まさにお屋敷の庭を走り抜ける僕、リシェルにはなんとも怖い追っ手が後ろから駆けてくる。
「おーい坊ちゃーん、そっちはいっちゃだめって旦那様がー」
息をきしながら追いかけてくる彼女の名前はルュエ。身体能力が高くて体力もあるから、屋敷で体力持て余して走り回ってる僕の世話係に任命された。
理由は知らないけど僕を殺したいらしい。
「僕が死んだら好都合だろー」
僕は足元の崖を見やる。断崖絶壁、と言うほどではないにしても、子供が落ちたらひとたまりもないだろう。もし足を踏み外したら、なんてゾッとすることも考えてしまう。
「ほら、ストーップ」
「うわっ」
追いつかれたルュエに後ろから抱きしめられる。安全のためにはこれが一番だとは思うが、いかんせん子供扱いされてるみたいで不服だ。
「ダメですよ坊ちゃん。子供はそーゆーややこしいこと考えちゃ。そーゆーのはむさいおっさんどもに任せるものです。」
彼女は人差し指で輪っかを作ると、ぺしっと軽く僕のおでこを弾いた。手加減はしてるみたいで、一瞬おでこが痛んだ程度だった。
これはあくまで直感だが、なんだか彼女が本気を出したら自分の頭ぐらい軽く吹っ飛ぶ気がする。あくまで直感だが。
「僕の命狙ってるくせに悠長だな。ほんとにそんなんでいいのか?」
僕はため息を吐くと彼女の腕の中からどうにか脱出する。あれはなんだか居心地が悪くて嫌だ。少し、気恥ずかしい。
「おーいぇ。プロにはプロのタイミングってのも美学ってのもあるんですよ。…今はまだその時じゃないだけです。」
ビリッ、と僕の心が震えた。いや、痺れたと言う方が正しいのだろうか。僕が進んで僕の生き死にどうこうを話すのは偏に、彼女のこの姿が見たい一心である。
人の生死の、特にターゲットの生死の話をする時に彼女はなんとも言えぬ色気を纏うのだ。子供が語れる色気なんてたかが知れてるから、僕の口から語るなんて野暮ったいことはしない。見ればわかる、それだけだ。
一瞬で人の心を鷲掴みにするその瞳は、ターゲットのその奥にある止めるべき心臓しか目に入っていないからこその賜物だ。
色んな人の命を味わったことのある人にしか出せない何かが彼女の周りに現れるのだ。まるで蛙を睨む蛇のように。
僕はシャツの胸の辺りを軽く握った。口元にゆるゆると笑みが広がっていく。これから僕はどうなってしまうのだろうか。何処までも純粋で鮮烈な好奇心が心を掻き立てる。僕もまた、おかしいのだろうか。
僕は弛んだ口元を隠すように手を当てて、口の形を元の真一文字に戻そうとする。それでも上手くいかず、口元にはまだほんのりと笑みが残っていた。
「そっか…その時っての楽しみにしてるよ」
「急がなくてもいいですよ…どうせすぐ来ますから」
最後の方の言葉は、彼の耳に上手く届かなかった。しかし二人はお互いの顔を見ると急に吹き出して笑い始めた。なんでかわからないけれど、なぜだか面白いぐらいにおかしかったから。
死を挟んで向かい合っている二人とは思えないほど、無邪気に和やかに。
やっぱり春のパワーは偉大なんだな、と関係ないことを考える。それもまた、おかしかった。
二人でひとしきり笑い終わると、僕はおもむろに彼女に手を差し出した。
「…これからよろしく、ルュエ」
彼女は少し戸惑ったかのような、呆気に取られたような顔をした後、僕の手を取った。
「ええ、こちらこそ」
ここに、なんとも不思議な主従関係が爆誕したのである。
ー・ー・ー
4.残暑
「坊ちゃん、坊ちゃん、坊っちゃーん。そろそろ起きてくださいよー」
ゆさゆさ、と体が揺さぶられる。彼女がここに来てから早くも四ヶ月ほど。僕はまだ一向に、殺される気配がない。
「起きないと今日のご飯ににんじん混入させますよー、いいんですかー?」
「うぁぁ。起きる、起きるから」
僕は飛び起きた。にんじんなんて人間が食べるものじゃないだろ。それをわざわざ入れてくるうちのお世話係は性格が悪い。
急いで着替える。着替えは一人でするように、と父上から厳しく言われていたから一人でできる。それに、早く着替えないと朝ごはんににんじんが入ってるかもしれない。
ボタンを掛ける手が一瞬止まった。
「父上、か…」
あの人が死んでからもう半年になる。僕はいつまで、あの人に縛られて生きなくてはいけないのだろうか。親子の縁なんてあってないようなものなのに、親子の呪いは一生続くのだろうか。
コンコン、とドアが軽く叩かれた。まずい。このままでは本当ににんじんだらけの朝ごはんを食べることになる。僕は急いで着替えを終わらせて食堂に向かった。
料理が運ばれてきてすぐ、僕はほっと息を吐き出した。にんじんが、あの忌々しいオレンジ色の物体が入っているような形跡が無かったからだ。
因みに、過去数回寝坊した時は一面オレンジの朝ごはんを食べたこともあるので、これはかなり死活問題だった。もうすぐ僕は殺されるけど。
食後の紅茶を飲んでいたら、リュエが今後のスケジュールを読み上げに来た。
いつも通り礼儀作法など諸々のレッスンを済ませた後、もうすぐ建国祭なので“本邸”へと戻るらしい。
そう。ここは長閑な領地の隅の方にある別邸だ。僕はここに言うなれば追いやられていた。
父が殺されてからまだ幼い僕が家を継ぐのは不安だと言う声が多かったため、一時的に叔父が家を切り盛りすることになったのだ。そして僕は“心の傷”を療養するためにこんな辺鄙な土地に飛ばされたのだ。
別に僕は父が死んで少しすっとしたところもあるし、鼻血が出るぐらい美しい姿のルュエに出会えたのでそんなに傷という傷を負ってはいなかったのだが、叔父からしたら僕は邪魔だったのだろう。
あとこれは直感だが、父を殺したのは叔父だ。あとたぶんルュエを僕の元に派遣したのは叔父だ。僕を殺すために。
叔父の策略で殺されるのは癪だが、彼女の手にかけられるのなら悪くない。凡庸なりに汚く頑張っている叔父にしては気が利いていた。
僕は紅茶のカップをソーサーに置く。よし、自分なりにかなり優雅にできた気がする。そして、できる限り威厳と余裕とありそうな声を出すよう心がける。
「そう。本邸に、ね…。一体どんな“おもてなし”をしていただけるのか、楽しみで仕方がないよ」
口元がにやけそうで仕方がないのを彼女に悟られないように。




