行動開始
翌日。カインは、リテアの書斎に来ていた。
「やあ、リテアさん」
「カ、カイン様!?」
案の定、リテアはかなり驚いていた。
「どうかなされましたかカイン様、……まさか、使用人やユーグが何か失礼を?」
「いやいや、そんなことはないよ。ただ、聊か退屈でね。久しぶりにリテアさんに会いたいなーと思って、足を運んだところさ」
「えっ、えと、あの、そんな」
リテアがぽっと顔を赤らめる。そういうところは少女らしい反応をするんだなあ、と思う。……うん、悪くない。って、いやいや、そうではなく。
「とはいえ、リテアさんの仕事を邪魔するつもりはないよ。わたしのことは気にしないで、いつも通り過ごしてくれれば良いから」
「えええ、そんな、無理です!」
「無理なことはないだろう、……そうだな、わたしのことはたまに喋る空気だとでも思えば良い」
「そんな空気あります!?」
「まあまあ、とにかく気にしなくて良いから。さあさあ、席に座って?」
「ええ、そんな、ええと……うう、はい、わかりました」
リテアはかなり逡巡しながら、しぶしぶといった様子で机に向かった。そしてこちらをちらちらと気にしながらも、何とか仕事に取り掛かり始めたようであった。
(……よし、ひとまずは落ち着いてくれたかな)
強引に居座ってしまったが、これで彼女の普段の様子を窺えるというものである。
さてさて、カインがここに来た理由は、いくつかあった。リテアに言った通り、退屈を凌ぐため、というのもあるし、昨日の行動の理由でもあった、これ以上見知らぬ人々の中で一人放置されたくない、というのもあった。
しかしそれらが理由の全てという訳でもなかった。
……カインは昨日、この書斎に来た時に、いくつか気になることを見つけていたのである。
それについて、改めて見極めたいと考えた。
それが、彼がここに来た、一番の理由であった。
カインはとりあえず、書斎の端にあった、向かい合わせのソファの片側に座る。
部屋全体も見渡せるし、リテアの様子もさりげなく窺える、絶妙な位置である。
(さてさて、俺の勘が当たっているかどうか……当たっていて欲しくない気もするけれど、ううん)
そしてカインは、その日の観察を始めたのだった。
リテアはものすごく混乱していた。具体的に言えば、
(はわわわわカイン様がいるわカイン様がいるわすぐそこにいらっしゃるわ……!?)
そう、こんな風に。
この5日、リテアは気合を入れて仕事をこなしていた。仕事は翌日まで持ち込まない主義の彼女であったから、自分が不在の間、溜まりに溜まっていた仕事を早く消化してしまいたいという気持ちも当然ながら強かった。
しかし何より彼女のモチベーションを保つ支えになったのは、カインの存在であった。
彼がこの結婚に承知してくれたのは、領主仕事を全部自分が受け持つという条件があったからである。どうせなら仕事を完璧にこなして、カインと自信をもって向き合いたい――そんな思いに突き動かされ、リテアはいつもにも増して、書斎に籠りきりになっていた。
……その結果、まだここに馴染んでいないカインをほったらかしにしてしまったということには、残念ながら彼女は気づいていない。
その気合のおかげで、昨日溜まっていた分の仕事は概ね片付いた所であった。が、当然ながら仕事は毎日のように湧いて出てくるし、中にはそう簡単には判断できない、つまりはじっくりと考えなければならない類のものもある。
そんなわけで、ひとまずの目途がつきそうなのは数日後かしら、その間はまだカイン様にお会いするのはやめておきましょう、じゃないと私の気が緩むに違いないもの……と丁度考えていたときの、ご本人来襲である。
連日仕事続きで疲れていたこともあって、彼女の脳内はいつも以上に混乱の渦中にあったのだった。
カインは自分のことは気にするな、喋る空気と思え……などと言っていたが、そんなの到底無理な話である。
空気と思うにはカインの存在感は大きすぎるのだ。
今、彼はリテアから見れば右手にある本棚の前に立って、そこから取り出した本を読んでいる。その優雅な立ち姿といったらない。
うつむいた顔にかかる絶妙な陰影、すっと伸びた背筋と脚、時折零れ落ちる男性にしては長い赤髪、そしてそれを耳にかける、骨ばっていながらもすらりとした長い指――それらが、いちいち惚れ惚れするほど様になっているのである。
目をうばわれない方が無理な話というものであった。
(あああ、でもだめよ、仕事、仕事に集中しなければ……集中よ集中、頑張りなさい私!)
心の中で、精一杯自分に暗示をかける。視線は机に固定して、目線は上げず、ただひたすら目の前の書類に没頭する。
そうよ、私は今お父様に代わって大事な仕事をしているのだもの、ちゃんとしなければ皆に失礼というものだわ……。
そうやって必死になった結果、なんとか仕事に集中することに成功したリテアだった。
……が、その所為でカインがこちらに近づいていることに気付かなかったのは、一生の不覚というものであった。
「うん、やっぱり貴女は綺麗な字を書くよねえ」
「!!?」
ばっと振り向く。と、綺麗な赤い髪と逞しい男性の首元が自分の視界目一杯に広がり、今度はあわあわとのけ反る羽目になった。
近い近い全体的に近い!
あああおまけに顔に熱が集まってきた。きっと彼から見た自分の顔は真っ赤に染まっていることだろう。
「な、ななな……」
「? どうかしたかい、リテアさん?」
カインが不思議そうにリテアの顔を見る。と、その目が一瞬、面白そうにきらめいた。そして彼が悪戯っぽい笑みを浮かべながら、こちらに顔を近づけてくる。
「あわわわわ……」
「あはは、真っ赤だ。どうしたの? 恥ずかしがることないじゃない」
もうリテアの脳内はパンク寸前である。だというのにカインはますます面白がって、更に距離を縮めてくる。後ろは机、リテアに逃げ場はない。
視界一杯に彼の顔、鼻にはほんのりと香る彼の香水。そして美しい彼の瞳に映る、混乱を極めた無様な自分。
ついに、リテアは限界を迎えた。
「も」
「も?」
「もう、出てってくださーいっ!!!!」
……彼女の人生史上、一番の大声が出た瞬間であった。




