嵐の前の
赤くなった頬を、ぱたぱたと両手で扇ぐ。
……冷めない。
目覚めてから随分と経つのに、羞恥やらなんやらで集まった熱は引いてくれそうになかった。
あれから大変だった。
リテアが上げた悲鳴を聞き、駆け付けた使用人やら兵士やらが雪崩を打って寝室に飛び込んできた。
彼らの目に飛び込んでくるのは寝起きで乱れた姿の二人、あまりの混乱で失神寸前のリテアとそれを苦笑いで支えるカイン。
おまけにリテアの腕はいまだカインの身体に絡んだままときた。
その状況に女性たちは黄色い声を上げつつ介抱に使うタオルやら団扇やらを探しに行き、兵士ら男どもはおいおいうまくやりましたねこんにゃろうとカインをぺしぺしはたいてから、のんびり部屋を出ていった。
アランだけは終始にやにや笑いを浮かべていた。
ひっぱたいてやろうかと思った。
それからなんとか落ち着いたリテアはすみませんすみませんとカインに平謝りしつつ、着替えを済ませ、食堂に入る。
いつもは軽食を片手に書斎に行ってしまうカインも、しばらくは同じ席に着くことになっていた。
朝一番から義兄に会えて上機嫌なユーグから、「ご一緒に現れるなんて。姉上と義兄上、仲良しさんですね!」と無邪気に言われてまた気が遠くなりかけたが、何とか持ち直しマアサのご飯を味わった。
にこにこ顔の弟とにやにや顔の厨房の使用人たちに見送られ、書斎に入ったのがつい先ほどのことである。
書類を分けるから少し休んでいてと言われ、今は働くカインの後姿をぼんやりと眺めていた。
窓から差し込む朝日に照らされるカインの姿は、相変わらず綺麗だ。
手入れの行き届いた赤い髪が、彼の動きに合わせてさらさらと、その背を流れ落ちる。
仕事中にどうしても気になるため、いつもひとまとめに括ってしまうリテアだが、彼の絹糸のような美しい髪を見ると少しだけうらやましくなってしまう。
今度、カインに手入れを教えてもらおうか。
そんな風に思考を遊ばせていると、「リテアさん?」と、深い海の色を宿した双眸がこちらを覗き込んでいた。
あまりの距離の近さに、リテアはのけぞる。
「は、ははははははははい!??」
「あ、よかったやっと戻ってきてくれた」
ほっとしたように息をつき、カインは身を乗り出していたのをもとに戻す。
「大丈夫? やっぱり昨日、あんまり休めなかったかな」
「あっ、いいいえ、そんなわけじゃ」
むしろ、かつてないほど熟睡出来た気がする。
隣に他人の体温があるというのは、こうも安心するものだったろうか。
「そう? 良かった」
にこりと笑って、カインが書類を差し出す。角がきれいにそろえられた書類は種類別に分けられており、分かりやすいように反故を細く切った紙が挟まっていた。
「いつもの通り、上から順に見ておくと良いかな。今日はそんなに重要なのは無さそうだね」
「ありがとうございます」
受け取って、ざっと検める。
彼の言った通り、それほど重要なものは無さそうだ。ふむふむと頷きながら書類を置き、一番上から手に取る。
それから集中し、しばらく経った後。
ふと顔を上げると、カインが何やら書き物をしていた。
珍しいな、と思う。基本的に、彼はこの部屋では調べもの以外で筆を取らないし、書くとしても遠慮してか、反故の裏に書くことが多い。
今回は真新しい紙に、丁寧に字を書き連ねている。
「カイン様、お手紙ですか」
「ん? うん、そうだね」
はらりと落ちる髪を耳にかけながら、彼は言う。
「まあ念のため、できることはやっておこうかと思って」
「……?」
意味は良くわからなかった。
けれど、きっと彼も、今の状況に対して、何か思うところがあるのだろう。
そう考えると、自分が何か言うのもおかしな気がして、リテアはそっと口を閉じた。
それから、何事もなく数日が経過した。
数か月にわたる膠着状態の後、突如リテアの夫を名乗るカインが現れたのだ。
いくら悪い噂がついて回っているとはいえ、カインの生家である公爵家は十分な影響力を持つので、先に手を打たなければアギゼやグレイズが伯爵家の跡継ぎになる可能性はゼロになる。
その為、彼らが仕掛けてくるのは今しかないと身構えていたリテアとしては、なんだか拍子抜けである。
それは邸の皆も同じらしい。ぴりっと……というよりはきりっとした表情で往来していた使用人たちも、段々と普段通りの様子に戻ってきていた。
今朝の食事の席では、ユーグが「剣の稽古はまだ再開してはいけませんか?」と、不安そうに聞いてきた。
あの子にも負担をかけているこの状況を、少しでも早く終わらせたいものなのだけれど。
「……まずいなあ」
「え?」
いつもの書斎。何やら考え込んでいたカインが、深刻な表情でそう言った。
「まずい、とは。何がですか?」
「この状況すべてが、かな」
「……?」
カインの言っている意味が分からず、思わず首を傾げてしまう。
「えーっと」と、カインは考えをまとめながら、少しずつ話し始めた。
「確認だけれど。このイシス領には、近頃大きな諍いとかは無かったんだよね?」
「ええと、はい。少なくともお父様が領主となってからはずっと、平和であった筈です」
「うん。……それは本当は、とても良いことなんだけどね。今回に限っては違う」
一呼吸おいて、カインは続ける。
「つまり、この邸の皆はこういう、危機的状況には慣れていない。だからもう、緊張感が切れてきてる。普段通りに戻ってしまってる」
「緊張感、ですか」
「そう。例えば歴戦の猛者が揃っている状況だったら、普段通りってのは逆に良いのかもしれない。でも、ここの皆は違うでしょう。経験のない危険に備えるときは、常に緊張感は保っておくべきだ。でなければ、見落としてしまう」
「……」
カインの言っていることは、説得力があった。
それは彼が実際に、命の危機を生き抜いてきた人であるからかもしれない。
「俺の感覚だけれど。警戒し始めてから数日、ってのが、一番危ないんだ。最初に張り詰めていた気持ちがふっと切れて、緩んでしまうのが、そのタイミングだから。そしてそういう時程、何かが起こる。いや……起こしてくる」
「起こして、くる? 意図的に、ですか?」
「うん……余程、こういうのに慣れた相手であれば、ね。あの時見た限りでは、彼らがそこまで頭が回るようには見えなかった。でも」
脳裏に閃くのは、アギゼとグレイズの切羽詰まった様子と、どろどろとした憎しみの瞳。
「ああいう風に思いつめた奴ほど、何をするか分かったものではないから」
ぽつりと呟くカインは、もう一度警護体制を見直そうと、アランを呼んでくるよう兵士に言付けた。
そして。
邸のとある一角にて小さな悲鳴が上がるのは、もう間もなくのことである。




