終着駅【時の船】
彼女もリスと同じ空を見上げた。橙色の蝶がヒラヒラと飛び交う空は美しく、初めて見る場所のはずなのにどこか懐かしかった。彼女は目を閉じて花の甘い匂いを吸い込んだ。たっぷり吸い込んだ息をふぅ、と吐き出し目を開く。そこは再び電車の中だった。また電車が揺れ始めたが、その動きは緩く穏やかで、電車が動き出したような揺れ方ではなかった。
どこからか潮騒が聞こえてくる。不思議に思った彼女が窓に近付き、耳を澄ましていると
「船の上の生活は如何ですか?不自由はありませんか?」
背後から突然、声をかけられた。彼女は驚いて飛び上がった。声をかけてきた青年は眉を寄せて困ったように笑った。
「すみません。驚かせてしまいましたね。」
その笑顔のせいか、驚いたことが恥ずかしかったのか、彼女は頬を紅く染めて俯いた。
青年は俯く彼女を手招きして座るように促すと、自分も彼女の横に腰掛けた。
「この船に医者は私だけですから、何かあればすぐに言って下さい。」
優しい声でそう言った青年に彼女は聞いた。
「他にも誰かいるんですか?」
「おや、まだお会いしていませんか?この船にはあと三人いますよ。もうそろそろ朝食に起きてくるはずです。」
目の前の窓から朝日が差し込んで、二人の座っている場所を照らしていた。窓の外には深い緑色の海とまだ夜の余韻が残る青い空が広がっていた。青年が静かに開いた木製のドアから忍び込んできた空気は冷たく潮の香りを含んでいた。
「私たちも朝食を食べに行きましょう。」
青年が言った。彼女は頷いて立ち上がり、戸惑いながらドアをくぐった。
船はあまり大きくない客船のようだった。周りは海と空ばかりで島や岩場すら見当たらない。潮風を受けながら細い柵で仕切られた通路を通り、つきあたりの階段を登った。そこに食堂があった。
食堂に着くと彼女たちより先に一人の老婆が座っていた。厨房から音が聞こえてくるところを見るとそこにも誰かいるのだろう。
青年は老婆に言った。
「彼はまだ起きてきていませんか。」
しばらく目を閉じて沈黙した後、老婆は答えた。
「起きている。だが、あまり食べる気が起きぬようでの。」
「僕が声をかけてきましょうか。」
「やめておけ。うるさがられるぞ。」
老婆が眉を寄せてやれやれと言うように首を振ると、厨房から少年のような声が聞こえてきた。
「あとで僕が部屋まで食事を届けにいくよ。」
その声の主は狸だった。こげ茶色の体の小さな狸がふさふさの尻尾を引きずりながら小さな両手に美味しそうな朝食を乗せた皿を持ち、二足歩行でテーブルに近付いてくる。
その様子を見た青年がすかさず立ち上がり、その皿を受け取って一つを老婆の前に置き、もう一つを彼女の前に置いた。
狸は小走りで厨房に戻ると、また同じように二つの皿を持ってきて少し背の高い椅子の席と、さっき青年が座っていた席の前に置いた。彼女はその様子をじっと見つめていた。
老婆が言った。
「気味が悪いか。」
彼女は慌てて首を振った。
「いえ、ただ不思議に思って見ていただけです。」
「隠さずともよい。わしにはわかる。他人の本心が聞こえるのだ。」
「本心が?でも、気味が悪いなんて本当に……」
彼女が否定しようと口を開くと、老婆はケタケタと軽い声で笑った。
おかしなことを言う老婆だと彼女は思った。二足歩行の狸など見たことがない。だから不思議だと思っていただけなのに。
不満そうな顔をしている彼女に青年が言った。
「気にしないで。僕たちもあの方が言う言葉ばかりが本心じゃないことくらいわかってるから。」
優しく微笑む青年の隣でやっと椅子によじ登り座った狸が何度も頷いた。老婆は気分を害したように
「だが、気味が悪いと思う心もある。それも本心ではないのかね。」
そう言った。狸が言い返した。
「そんなことを言うと彼女が嘘つきみたいじゃないか。」
老婆は鋭い目で狸を見て更に不機嫌になった様子で顔を歪めた。青年が一つ手を叩いた。その大きな音にみんなの視線が集まった。
「まずは食べましょう。空腹だから腹が立つんです。」
みんな青年の言葉に賛成した。
食事を済ませて部屋に戻ろうと通路を歩く彼女の行く先にさっきの狸がいた。料理の載った皿を抱えている。食堂に姿を現さなかった人に食事を届けに行くのだろう。
部屋に戻ってもすることが何もなかったことを思い出した彼女は静かに狸の後を追いかけた。まだ会っていない最後の一人の顔を見てみたかったのだ。だが、あまり堂々と顔を見に行くのは気が引けた。
狸が他の部屋より大きく作られたドアの前で足を止めてノックした。窓の向こうで隙間なく閉まった濃い紺色のカーテンが僅かに揺れた。
ドアが開いて出てきたのは猫だった。体はオレンジの縞模様で熊ほどの大きさだ。大きな黄色い瞳でじっくりと小さな狸を見下ろしていた。
「食事、持ってきた。僕と他の人たちはもう済んだよ。」
狸が言うと、猫は面倒臭そうに背中を掻き、鋭い爪のついた大きな手で皿をつまみあげた。
「お前、よく人間と一緒に飯が食えるな。」
猫は低い声でそう言ってまた部屋に入った。
ドアの鍵が閉まるまで困った顔で立ち尽くしていた狸は振り向いてすぐに驚いて固まっている彼女に気付いた。
「大きな猫さんね。……部屋から出てこないの?
「猫は人間が嫌いなんです。特にあの老婆が苦手らしい。」
最後の声を少し潜めて狸が言った。
「私も苦手。」
彼女が肩を竦めてそう言うと狸は笑った。
「そうですね。僕も、少し。あの老婆のことを丁寧に扱うのは彼くらいですよ。」
そう言った狸が指差した先には青年がいた。突然指を差された青年は首を傾げた。
「猫の様子はどうでしたか?」
青年が聞いた。
「相変わらずでしたよ。」
狸が答えた。
「あなたの調子は如何です?」
「相変わらずですよ。」
青年と狸はそう言って微笑み合った。階段を降りてきながら老婆が言った。
「こんな船の上で満足な治療が出来るかと疑問に思うておるわ。」
青年と狸は困った顔をした。
「治せなくても楽にすることはできます。」
青年は言った。狸も
「僕たちが何事もなく暮らせるのは彼のおかげですよ。」
と言ったが、老婆はふんと鼻を鳴らして部屋に戻ってしまった。
「どうして老婆は本心を口にしてしまうんだろう。本当の気持ちを隠しても嘘にはならないし、それが必ず真実だとは限らない。」
狸が言うと、青年は肯定も否定もせず困った顔で笑っただけだった。
そのとき猫の部屋から大きな音が聞こえてきた。よく耳を澄ますとそれは猫の呻き声だった。
青年がすぐさま自分の部屋まで走って大きな荷物を抱えて戻り、猫の部屋へ入っていった。老婆も部屋から出てきて、猫の部屋へ入っていった。狸は階段を駆け上がって食堂へ行った。
「大丈夫、落ち着いて。どこが痛い?」
青年が猫の体を擦りながら耳を猫の口元に近付け聞いてみたが、猫はぜいぜいと苦しそうに息をするだけで答えることができなかった。老婆が猫の心を聞いて言った。
「左の腹が痛いそうな。」
それを聞いた青年は頷いて、すぐに処置を行った。随分長い時間をかけて猫の呼吸が楽になった頃、狸が氷水を持って現れ、老婆は黙って猫の部屋を出て行った。
猫は狸が差し出した冷たい水を少し飲んで、小さな溜息をついた。その口の動きが「ありがとう」と言っているように見えた。
「猫さん、どこか悪いの?」
彼女が聞くと狸が答えた。
「治らない病気だ。」
猫が僅かに頷いて重い口調で言った。
「もう永くない。」
そう言った猫よりも辛そうな顔で青年が頷いた。彼女は猫と青年に何と言っていいかわからず、黙って青年に寄り添い、手を握った。
猫の部屋を出た彼女は食堂で狸が淹れてくれた紅茶を飲んでいた。青年は猫に付き添っている。
老婆が入ってきた。
「わしも茶をいただこう。」
狸は頷いて厨房へ歩いていった。彼女が老婆に聞いた。
「どうして陸地できちんと治療を受けないの?」
「きちんとした治療を受けて命を永らえることばかりが必ずいいとは限らぬ。」
「じゃあ何故みんなはこの船に乗ってるの?何をするため?」
老婆は出された紅茶を啜り、答えた。
「では、お前さんは何をするためにこの船に乗り込んだのだ?できることは何もないだろう。皆も同じだ。」
「でもあの人は猫さんの治療をしているんでしょう?」
「あぁ、だが治せぬものに治療など意味はない。何もしていないことと同じだ。」
彼女はその言葉を否定したかった。それでも辛そうな青年の顔を思い出し、その無力感を考えると、どうやら言葉は正しいような気がした。彼女の迷いが聞こえたのか、老婆は探るように彼女の目を覗きこんでクククと笑った。
「この船はどこへ行くの?」
「何処へも行かない。ただ船が前に進むだけ。それだけだ。」
老婆はニヤリと笑ってもう一口飲んだ。
「お前はどこへ行きたい?」
老婆の問いに彼女は口を噤んだ。老婆はおもしろそうにクツクツと笑った。が、しばらくすると笑うのをやめた。
「階下で泣き声がするな。猫が呼んでおる。」
三人が猫の部屋に行くと、猫の目がゆっくり開いた。
「逝くか。」
老婆が聞くと、猫は静かに頷いた。呼吸は浅く苦しそうだが、表情は穏やかだ。
狸が小さな手で猫の大きな手を握る。彼女が座り、青年の手と重ねるように猫の手を握った。老婆はドアの前で睨むように猫を見ていた。猫は嬉しそうに目を細めた。
「何か言い残すことがあるなら聞かせてみろ。わしが皆に伝えてやる。」
猫がゆっくりと瞬きをして、掠れた声で言った。
「婆さんはここから出て行ってくれ。」
その言葉を聞いた全員が驚いて目を見開き、耳を疑った。老婆は顔を歪めて悔しそうに頷くと部屋を出て行った。全員が老婆が出て行ったドアを見つめ、信じられないほど重い沈黙の中、猫の呼吸だけが響いていた。握られた手を握り返して猫は言った。
「最期にみんながいてよかった。俺はあまりいい奴ではなかったが、それでもみんなは優しくしてくれた。大好きだったよ。今まで、本当にありがとう。」
そう言って目を閉じた。呼吸が段々と弱く小さくなり、最後に大きく胸を上下させて深呼吸をした後、猫は眠るように死んだ。
狸は猫の手に顔を埋めて泣いた。青年はきつく唇を噛み締め、肩を震わせていた。彼女はそっとその肩を抱いた。悲しみで壊れてしまわないように強く抱いて自分も泣いていた。目の前で逝った猫の死も十分に悲しかったが、青年の肩から伝わる悲しみが胸に突き刺さるように痛かった。それだけ悲しんでいても泣くことのできない青年の涙が自分の目を通して流れているような気がした。
やっと立ち上がり、無言で自分の部屋に戻ろうとする青年を見送り彼女も部屋に戻ろうとして通路を歩いていると老婆に会った。彼女は涙の跡を拭って言った。
「猫さんがあなたを追い出したのにはきっと何か理由があったんだと思うわ。」
慌てて弁解をしようとする彼女に微笑みかけ、老婆は頷いた。
「わかっておる。お前たちに聞こえる声だけが真実ではない。……猫はきちんと自分の口で、自分の言葉で別れを伝えられたか?」
彼女は大きく頷いた。
「そうか。ならばよい。それでよかったのだ。」
老婆は満足そうに頷いた。そして
「お前は何も伝えずに帰って、それでよいのか?」
と言った。彼女は首を傾げた。
「誰に何を伝えるの?」
「あの男に思いを伝えず、何も残さず帰ってよいのか?」
彼女は驚いた。湧き上がったばかりの愛しさを老婆に知られたことではない。彼女にはこことは別の世界があり、帰るべき世界があると老婆が知っていたことに驚いた。彼女は夕闇に覆われた海を見つめ、少し考えてから言った。
「まだ、伝える気はないわ。」
「船は絶えず動き続けている。今を逃せば機会は永遠に失われるかも知れぬのだぞ。」
彼女は微笑み、頷いた。
老婆が彼女の部屋の扉を開いた。彼女は迷わず扉をくぐった。
潮騒が消え、蛍光灯の世界が広がる。老婆が念を押すように聞いた。
「本当によいか?」
彼女は自信ありげに言った。
「今はそうするべきときじゃない気がするの。それに彼と私が繋がる運命ならばまた必ず何処かで巡り合うはずよ。」
その言葉を聞いた老婆は笑った。
「行くべき場所を見つけたか。」
電車が溜息をついた。
電車の扉が閉まる。小さな窓の向こうで夕闇の中に浮き上がった老婆が細い手を振っている。彼女も手を振り返した。
ガタン、と電車は大きく揺れて走り出す。老婆は段々と遠く小さくなり、夜の闇の中に消えていった。
「ご乗車、ありがとうございます。どなた様も今宵のことはお忘れなきよう願います。またのご乗車お待ちしております。」




