おまけ 久世くんの気持ち
うちの猫は、本当は人のズボンをベロベロ舐めたりしない。
元保護猫で、薄茶色のトラ柄。
家族に対しても割と素っ気ないタイプで、触らせてくれる時は触らせてくれるけど、嫌な時はスッとどこかへ行く。
抱っこも好きじゃない。
だから前に本田さんが俺の制服のズボンによだれを垂らして、大パニックになった時に、
『うち猫飼ってるから。猫もよく俺のズボン舐めてベトベトにするし』
と言ったのは、嘘だ。
あの時は慌てる本田さんにそれらしい理由を与えたかったのと、単純によだれ嫌じゃない俺がやばい気がしたから。
俺だって本田さん以外のよだれはたぶん嫌だ。他を試す機会なんて無いと思うけど。
そんなことを思い出しながら、俺は目の前で猫じゃらしを必死に振っている本田さんを眺めていた。
「ほら!ほらほら!」
猫は見ている。
でも動かない。
「なぜ全然反応しない…」
「なんでだろうね。」
「今しっぽ動いた!」
「…」
猫のカトリーヌは立ち上がって別の場所へ行った。
ちなみにあまりにシカトされた飼いはじめのころに、お母さんがシカトリーヌと名付け、それが今はカトリーヌとなっている。
「…………」
「残念だったね」
「猫ってこんなに素っ気ないの?」
「うちのはね」
本田さんが、ぐぬぬ、みたいな顔をする。
付き合い始めて、すぐの週末。
本田さんがうちに猫を見に来た。
付き合う前から約束していたし、その日の夜には本田さんから、
『いつ見に行っていい?』
とLINEが来た。
猫飼っててよかったな、と素直に思った。
結局、二週間後の放課後に来ることになった。
俺の家に連れてきた本田さんは
「お邪魔します」
と、で出迎えたうちのお母さんに礼儀正しく挨拶する
「あら、どうもー」
くらいで、そのままほとんど出てこなかった。空気が読めるタイプのお母さんに俺は内心感謝する。
愛菜ちゃんはいない。
友達と遊びに行っている。
俺としては助かる。
万が一、本田さんと愛菜ちゃんが話して俺のボロがでたら困るし。
俺は窓際のカトリーヌの揺れる尻尾を恨めしそうに眺める本田さんの横顔を眺めながら、少し前のことを思い出していた。
あの日。
俺が耳かきを持っていたのは。
本当は、シンプルに間違えただけだった。
前の日。
机の引き出しの奥に入っていた耳かきのケースをたまたま見つけた。
「あー、そういえば最近使ってないな」
と思って、机の上に出しておいた。
翌朝。
寝坊していた。
弁当をリュックに突っ込んで、机の上に置いてあった細長いケースも一緒に放り込んだ。
箸ケースだと思った。
それが耳かきだった。
化学室で落とした。
それを拾ったのが、本田さん。
「それ、耳かき?」
と聞かれた。
しかも。
妙な熱量で。
「え?」
「ああ。うん。そうだけど」
「やっぱり耳かき好きなの?」
「え?……あ、うん。そうだよ」
熱に押されるように、つい、
「外で使う機会なんてないんだけど。なんとなく持ち歩いてる」
と答えた。
答えてから思った。
(これ俺、相当やばいやつじゃない?)
使う予定もない耳かきをケースに入れて、学校に持ち歩いている男子高校生。
何のために。
でも。
すぐに思い出した。
そういえば俺。
自己紹介カードに、
『趣味 耳掃除』
って書いた。
確かに書いたな。
そもそも、他に趣味らしい趣味が思いつかなかった。
家で、
「俺、趣味って何」
と聞いたら。
愛菜が、
「耳掃除じゃない?昔よく私の耳掃除してたじゃん」
と言った。
確かに。
と思って。
何も考えずそのまま書いた。
でも。
人の耳掃除をすること自体は好きだ。
あの小さくて暗い穴の中を覗いて。
傷つけないように、絶妙な力加減で耳垢を取る。
一個ずつ綺麗になっていくのは達成感がある。
なんか、そういう攻略ゲームをしている気分というか。
あと。
俺はもともと耳というパーツの形状とか、感触も好きだ。
だから、母親に耳かきを断られた妹に、代理を頼まれた時は喜んで引き受けた。
ただ。
愛菜に頼まれるまま毎日やっていたら、一度外耳炎にしてしまったことがあった。
その時は母親にこっぴどく怒られた。
それ以来。
多くても一週間に一回。
奥には入れない。
固いのは無理してとらない。
痛がったらすぐやめる。
この辺りが俺が学んだ耳掃除をするうえでの鉄則だ。
それも愛菜ちゃんが大きくなるにつれて耳かきを頼まれることは自然と減った。
愛菜が中学生になった頃、
「お兄ちゃんにしてもらうのはちょっと」
と言われた。
まあそうだよな。
高校生の兄に耳掃除してもらう女子中学生って、ちょっとあり得ない。
妹の成長を感じながら、俺は耳かきをケースごと机の引き出しの奥にしまった。
それを。
昨日偶然見つけて。
朝間違えてリュックに入れた。
それだけだった。
そして今。
目の前には。
普段はふわっとした穏やかな顔でクラスメイトと話している本田さんがいる。
俺は本田さんのことを、二年で初めて同じクラスになるまで存在すらほとんど知らなかった。
特別目立つわけじゃない。
でも。
如才なく、色んなクラスメイトと上手く関われる人。
そういう印象だった。
その如才ないはずの本田さんが。
対して関わりもないクラスメイトの俺に、おかしな熱量で、
「耳かき好きなの?」
と聞いてくる。
しかも。
「する方とされる方どっち?」
まで聞かれた。
なんだこれ。
罰ゲームとか?
からかっている?
でも。
本田さんがわざわざ悪意のあることをするタイプにも見えない。
俺も地味ではあるけど、別にいじられ系でもない。
全く意図が読めない。
でも。
本田さんの鬼気迫る態度は本物にしか見えなかった。
これが演技ならすごいな。
それから。
「私はしてほしい。でも相手がいない」
と言われた。
さらに。
「需要と供給が一致してる」
と言われた。
本当に意味が分からなかった。
でも。
考えても分からないし。
俺も久しくしていなかった耳掃除ができるならしたい。
向こうから言ってきたんだし、まぁどうにでもなるだろ。
そうして俺は。
中学生の妹に耳かきをする有り得なさを遥かに超える、
クラスメイトの女子に耳かきをするやばい男子高校生になってしまった。
その後は。
本田さんの早すぎる手綱捌きのもと。
場所。
曜日。
時間。
LINE交換。
あっという間に決まった。
約束の日。
俺は歴史研究部の資料室で、あまり期待せず待っていた。
もともと俺一人の部活だ。
気ままに歴史雑誌を読んだり。
史実の本を読んだり。
史跡に行く日を決めたり。
来なきゃ来ないで。
普通にいつも通り過ごすだけ。
でも。
本田さんは本当に来た。
しかも。
俺の膝に頭を乗せた。
なぜ咄嗟に膝と言ったんだ俺は、アホか。
膝の上の本田さんの緊張が伝わってくる。
俺は俺で。
施錠してあるとはいえ、いつ何かの間違いが起きてドアが開いたらどうしようかと内心ヒヤヒヤしていた。
誰かに見られたらどう説明する。
「クラスメイトの女子に耳かきしてます」
最高にやばい。
でも。
耳かきを始めてすぐ。
本田さんは眠そうに瞼が閉じかかって。
黒目がうるうるして。
うっとりした顔になった。
しまいには。
寝た。
そこで。
やっと分かった。
この人、本当の本当に、俺に耳かきされに来てる。
それからは楽しかった。
本田さんの耳は、愛菜の耳より柔らかくて。
少し大きくて。
たまに恥ずかしいとすぐ赤くなる。
俺が耳垢を一個取れたの報告すると、
すぐ捨てろと言うけど、顔はかなり嬉しそう。
あと。
本田さんは。
耳かきするとすぐ寝る。
愛菜も小さい頃はウトウトすることはあった。
でも。
本田さんは完全に寝る。
俺の膝の上で。
それを見ると。
俺はなぜか、
やりきった。
みたいな妙な喜びに満ちる。
俺は。
もっとやりたくなった。
本田さんを。
耳かきで。
もっとグズグズにしたい。
攻略欲というやつなのか。
ネットで色々調べた。
もちろん耳掃除はやりすぎたらだめだ。
愛菜の件で分かっている。
でも。
頻繁に耳かきをしたがる本田さんの要求を断り続けていたら。
本田さんが、
俺じゃないもっとたくさん耳かきしてくれる、
他の耳かき野郎を見つけ出すかもしれない。
本田さんならやりかねない。
嫌だ。
だから。
耳かき以外の耳マッサージ。
梵天。
そういうものを調べた。
ちなみに。
俺は本田さんに、
「妹にも耳ふにふにしてた」
と言ったことがある。
嘘だ。
愛菜に耳マッサージなんてしたことない。
するわけがない。
なんでそんなこと知ってるのって聞かれたら面倒だと思って。
適当に言った。
普通に信じた。
耳かき中の本田さんは。
明らかに色んな判断力が落ちている。
それから。
俺は。
膝の上で寝ている本田さんを見るのが好きだ。
雑誌は手元に置いている。
本田さんが起きた時。
ずっと寝顔をガン見していたとバレたら気持ち悪がられそうだから。
でも。
実際は。
本田さんが寝た後。
雑誌はほとんど読んでいない。
本田さんは身体は割と細そうなのに、頬っぺただけ丸い。
俺の太腿に乗せると。
片側だけ餅みたいに潰れる。
めちゃくちゃかわいい。
前に寝落ちした時。
口が少し開いていた。
夕陽に照らされると。
思っていたより睫毛が長い。
寝息に合わせて。
先が微かに震える。
少し開いた口から。
白い小さい歯が見える。
そのうち。
太腿が冷たくなってきた。
本田さんがよだれを垂らしていた。
すぐ分かった。
でも。
別に嫌じゃなかった。
なんならこの時間を引き延ばせるならズボンが再起不能になってもいいとすら思った。
俺はこの時にはもう
本田さんのことを女の子として好きになっていた。
俺は、
特別かっこいいわけでもない。
背が高いわけでもない。
面白いわけでもない。
好きになってもらえそうな要素が特にない。
だから。
俺の持っている耳かき技術で。
本田さんの必要不可欠な存在になることにした。
本田さんは時々。
わざとなのか。
無意識なのか。
俺の理性を破壊しようとしてくる。
その時は。
俺もやけくそで、そっちがそうならと、仕返しした。
少しくらい男として意識してくれたらなぁ。
とも思いつつ。
そんなことをぼんやり思い出しながら。
カトリーヌの方ばっかり見てる本田さんに俺の方を見てもらうことにした。
「耳かきする?」
「え?!いいの?!」
「あ、こないだ耳かきしたばっかだから、マッサージの方でいいなら」
「いい!いい!やったー!」
本田さんはまんまと俺の撒いた餌に食いついてくる。
本田さんは何の迷いもなく、ラグの座っている俺の隣に移動して。
ごろん。
俺の脚に頭を乗せる。
「なんか、やっぱりいつもと変わるね〜」
「そうだね。横向いて」
「うん」
少し耳を触っただけで。
本田さんはあっという間にうっとりした顔になる。
やっぱり。
これが好きだ。
「志乃ちゃん」
「え?」
目が開く。
「志乃ちゃんって、下の名前で呼んでもいい?」
「うん!……あ、じゃあ私は侑くん、かな。恥ずい」
「知ってたんだ」
「知ってるよ!」
そりゃ知ってるか。
耳の縁を。
ゆっくり揉む。
ふに。
ぐにぐに。
「…………あー」
早い。
もう溶けてる。
マッサージの後。
梵天で表面をさわさわする。
本田さんは。
梵天の最初だけ必ず肩がぴくっとなる。
これも結構好きだ。
「志乃ちゃん」
「んー?」
「キスしていい?」
「へ?……うん、したい」
やっぱり。
この状態の本田さん。
色んなことに対するハードルが異常に低い。
多分、今、俺がこれ以上のことを要求しても。
全部、
「いいよ」
って言いそう。
だから。
俺がちゃんとしないといけない。
「志乃ちゃん、俺がこの先もっと色々お願いしても、たとえ耳かき中でもちゃんと嫌な時は断ってね。」
「色々って?」
「イロイロだよ。恋人のイロイロ」
「え、するの?嫌なことたぶんないんだけど」
「しないよ。親いるし。」
俺は何を試されているんだろうか。
とりあえず志乃ちゃんを家に連れてくる時は
カトリーヌを部屋に居させることにしよう。
猫の目でも多少の抑止力にはなるかもしれない。
俺は膝の上の困った顔の志乃ちゃんをじっと見つめてから、
顔を近づけて2回目の長めのキスをした。




