第四十七話 最初の帰宅/長卓の次の扉
婚礼の翌朝、私はいつもより遅く目を覚ました。
灰鴎城は静かだった。
昨日あれほど浮かれていた城とは思えないほど、窓も廊下も落ち着いている。たぶん、私を起こさないようにしてくれていたのだ。
隣の部屋から、カイル様が茶を持ってきた。
「よく眠れたか」
「はい。城が静かでした」
「皆に言い聞かせた」
「皆?」
「灰鴎城と、アルクと、厨房だ」
私は笑った。
厨房まで含まれている。
朝食は暖炉の前で取った。焼きたてのパンと、温かい卵料理と、薄い果実水。特別な料理ではない。けれど、婚礼の翌朝に特別すぎない食事が出てくることが嬉しかった。
特別な日は大切だ。
でも、帰る場所を作るのは、特別ではない朝の方だと思う。
食後、私は灰鴎城の中を歩いた。
東棟の子ども部屋は、床の修理が終わっていた。壁紙の鳥と船は、残せるところを残し、破れた部分には新しい絵が足されている。古い傷と新しい色が、同じ部屋にあった。
灯室では、クラリス様がいない日でも小さな灯が保たれている。夜に来た人が、眩しすぎない光で座れるように。
厨房の暖炉は、煙を返さない。
玄関扉は、出入りする人を選ぶのではなく、理由を聞くようになった。
城は完成していない。
でも、帰ってこられる。
カイル様が廊下の端で待っていた。
「どこか痛む場所はあったか」
「あります。でも、隠していません」
「なら、直せるな」
「はい」
私は彼の手を取った。
夫、という言葉はまだ少し照れる。
けれど、手の温度は昨日と同じだった。
「カイル様」
「ああ」
「ここに帰ってきてよかったです」
彼は少しだけ目を伏せた。
「私も、あなたが帰ってきてくれてよかった」
灰鴎城の廊下が、静かに温かくなった。
最初の帰宅は、派手な出来事ではなかった。
ただ、朝食を食べ、廊下を歩き、痛む場所を確かめる。
それだけで、十分だった。
昼前、私はカイル様と一緒に、二人で使う部屋を見に行った。
灰鴎城が選んだ部屋は、意外にも豪華な客間ではなかった。海の見える中くらいの部屋で、暖炉は小さく、窓は二つ。隣に私の仕事部屋として使える小部屋があり、廊下へ出る扉も別にある。
「逃げ道が多い」
カイル様が言った。
私は窓の金具に触れた。
「逃げ道というより、出入りできる道ですね」
「あなたが閉じ込められない部屋を、城が選んだのだと思う」
胸が少し熱くなった。
部屋の扉は、私たちが入ると静かに開いたまま待っていた。閉まるのを怖がっているのではなく、こちらの合図を待っている。
「閉めてもいいですか」
私が尋ねると、扉は小さく鳴った。
いい、という返事だった。
カイル様が扉を閉める。
部屋は閉じた。
けれど息苦しくない。
私は深く息を吸った。
「大丈夫です」
カイル様は何も言わず、ただ頷いた。
その沈黙がありがたかった。
閉じた部屋で怖くないこと。
開けたいときに開けられること。
それもまた、私にとっては新しい帰宅だった。
午後、私たちは部屋の棚に何を置くかを決めた。王城から来た白い石、潮見町の貝殻、北の村の乾いた草、ニルが描いた灰鴎城の絵。どれも高価なものではない。
でも、棚に並ぶと、これまでの道が部屋の中に静かに腰を下ろしたようだった。
◇
婚礼から七日後、長卓は再び灰鴎城の食堂に集まった。
新婚だから休めと言われたが、カイル様も私も、完全に休むのは苦手だった。とはいえ、以前のように無理をして走るつもりもない。午前だけ話し合い、午後は暖炉の前で休む。それが灰鴎城との約束だった。
長卓には、新しい顔が増えていた。
北の古砦から来た兵士。竜骨屋根の村の老女。潮見町の女主人。王城の侍女。灯室を学びたい若い娘。床の危険を見るのが得意になったニル。
ユリウス殿下も、上座ではなく端の席に座っている。
クラリス様は灯を中央に置いた。
「今日の議題は、次の扉です」
彼女がそう言うと、ニルが目を輝かせた。
次の扉。
それは、困っている場所を一つずつ聞くという意味だ。
王都の南区には、閉じたい女性の家がある。
北の村には、屋根の声を覚え直す子どもたちがいる。
空殿の休み場には、まだ帰り先を決めていない旅人がいる。
王城には、王妃の子ども部屋のように、開く日を選ぶ部屋がいくつもある。
すべてを一度に直すことはできない。
それでも、長卓は一つずつ聞く。
「まず、誰が一人で抱えていますか」
私はそう尋ねた。
皆が少し考える。
白髪の石工が手を上げた。
「北の古砦の兵が、また責任を全部背負おうとしている。嵐の夜、人を守れたから余計にな」
老女が頷く。
「屋根の音を読む者も、私だけでは足りない。若い者に教える場がいる」
潮見町の女主人が言う。
「鍵箱に預ける人が増えています。預かった思い出を、どう休ませるか考えたいです」
話は次々に続いた。
私はそれを書き留めるのではなく、まず聞いた。目を見て、場所の匂いを想像し、誰が疲れているのかを探す。
カイル様は必要な人手を考え、ユリウス殿下は王都の道を安全にする手配を約束した。クラリス様は、灯室を学ぶ者を増やすことにした。
会議の終わり、ニルが小さく手を上げた。
「ぼくも、次の扉を見に行けますか」
料理長が心配そうな顔をした。
カイル様は私を見た。
私はニルへ尋ねる。
「行きたい理由は?」
「怖い床を、早く見つけられるようになりたいです。でも、怖い人もいると思うので、話を聞く練習もしたいです」
立派すぎる答えに、食堂が静かになった。
私は頷いた。
「一緒に行きましょう。ただし、無理をしたら戻ります」
「はい!」
長卓の次の扉は、もう開き始めている。
それは終わりではなく、続いていく日々の始まりだった。
午後、約束どおり長卓は終わった。
まだ話したいことは山ほどある。王都南区の灯室、北の砦の訓練、休み場の冬支度、潮見町の鍵箱。けれど灰鴎城の暖炉が、時間だと言うように火を弱めた。
料理長も腕を組んで入口に立っている。
「午前だけのお約束でしたね」
カイル様は少し気まずそうに頷いた。
「そうだった」
「旦那様も奥様も、約束は守っていただきます」
奥様、と呼ばれて、私はまだ少しだけ頬が熱くなる。
長卓の仲間たちは笑いながら席を立った。だが、笑いの中にも安心があった。誰か一人が無理をする場ではないと、皆で確認できたからだ。
ユリウス殿下は帰り際、通用口ではなく灰鴎城の玄関へ礼をした。
「また来てもよいか」
玄関扉は、少し間を置いてから開いた。
殿下は笑った。
「待つ時間が短くなった」
「油断すると長くなりますよ」
私が言うと、彼は真面目に頷いた。
「覚えておく」
クラリス様は灯室に残った。今夜、王都から来た女性が一人、そこで休む予定だという。
「婚礼のあとでも、日常は続きますね」
彼女が言った。
「はい。でも、日常が続くのは悪いことではありません」
「むしろ、そこに戻るための婚礼だったのかもしれません」
その言葉は、私の胸にすとんと落ちた。
大きな事件も、誓いの日も、すべては温かい朝食や、休める灯や、開け閉めできる扉に戻るためにある。
私は暖炉の前へ座った。
カイル様も隣に座る。
何かを決めない時間。
それを守ることも、長卓の次の扉を守るために必要だった。




