最終話~強欲魔女の店じまい
夕暮れ時の銀刻交易連合は、昼間より少しだけ広く見えた。
祭りの後始末も、預かり金の返却も、橋の仮復旧に伴う細かな相談も、ひとまず今日の分は終わっている。机の上にはまだ帳簿が三冊、紙束が二つ、封を待つ書簡が四通残っていたが、朝から比べればずいぶん静かなものだった。
窓の外では、ジルコールの通りに灯りがともり始めている。仮橋が通ったという報せのせいか、人の足取りも昨日までより軽かった。大通りの角では露店崩れの小さな屋台がもう店を開いていて、焼けた油と香草の匂いが風に乗って流れ込んでくる。
ノーラは最後の帳簿を閉じ、指先で紙の端を揃えた。
「……よし」
小さくそう言ってから、しばらく机の上を見つめる。
採算は黒字。
大儲けというほどではないけれどきちんと残った。
祭りの一日で増えた金も、逆に失わずに済んだ信用も、どちらもちゃんと帳簿と街の人々の印象に残っている。
それで十分だと、今日は思えた。
「ノーラさん?」
向かいで控えを束ねていたルチェアが顔を上げる。
「どうしたんですか?」
「別に。ちょっと考えごと」
「帳簿のですか?」
「半分はね」
ノーラは椅子の背にもたれ、棚の方へ視線をやった。
壁際には、祭りの前後で買い取った品がいくつか並んでいる。銅のやかん、銀のスプーン、香辛料瓶の空き箱、使い込まれた小鍋、折りたたみ式の五徳。売れば金になるものばかりだ。そういうものを積んでここまで来た。
でも、今日はその中からいくつか機能性と見た目を備えた品をノーラが厳選し、日ごろから手料理のランチを持ってきてくれるフレアリスに、恩返しとしてプレゼントしようと思っていたのだった。工房に発注した品もいくつもある。
「ルチェア」
「はい」
「ちょっと出るわよ」
「今からですか?」
「そう。日が沈みきる前に」
ルチェアがぱちぱちと瞬く。その足元では、帳簿の陰で丸くなっていたピョコマルが「ぴゃ」と顔を上げた。
ノーラはもう立ち上がっていた。棚から布包みを取り出し、もう一つ小さな木箱も抱える。鍋の縁が布越しにこつんと鳴った。
ルチェアはそこで何かを察したらしく、目を輝かせる。
「もしかして……」
「声に出さない」
「はいっ」
でも顔は隠しきれていなかった。
ノーラは苦笑しながらローブを羽織る。
「ソルトには、今日はもう締めるって伝えてある。カルメノとジンジャーはギルド寄り。ミントは寄り道して薬屋。だから今いるのは私たちだけ」
「フレアリスさんのところ行くんですね」
「今、声に出したわね」
「ご、ごめんなさい……」
ノーラは大きく息をついたが、本気では怒っていなかった。
「まあいいわ。どうせ見れば分かるし」
ピョコマルがとことこと寄ってくる。
布包みの匂いを嗅いで、「ぴゃう」と機嫌よく鳴いた。
「ついてくるの?」
「ぴゃん」
「まあ、あんたも共犯みたいなものだしね」
ルチェアが慌てて外套を羽織り、ノーラの後を追う。
銀刻の扉を開けると、夕方の空気は少し冷えていた。
高台地区にあるルクレール家の借家は、夕陽を受けて妙に立派に見えた。
白壁に青い屋根。小さなバルコニー。石段の先にある玄関扉まで、いかにも高貴な人が住んでいますと主張している造りで、今となってはその精一杯の見栄まで含めてフレアリスらしい。
ノーラが扉を叩くと、少し遅れて中から足音がした。
開いた扉の向こうで、フレアリスが目を見開く。
「なっ……ノーラ!? それにルチェアとピョコマルまで。どうしましたの、こんな時間に」
言いながら、彼女は一瞬だけ背後を振り返った。散らかったものがないか確認したのだろう。ソファの端に投げてあったらしい布が、足元でもそりと動いて見えなくなった。
「どうもこうもないわよ。届け物」
「届け物?」
ノーラは布包みを少し持ち上げる。
フレアリスの瞳がきらりと揺れた。
「……爆発物ではありませんわよね?」
「安心して。たぶん爆発するのはあんたの機嫌だけ」
「意味が分かりませんわ」
「入っていい?」
「そ、それはもちろん! どうぞお入りなさいませ!」
フレアリスは慌てて扉を広く開けた。
中へ入ると、部屋には品のいい茶の香りと、まだ新しい紙の匂いが混ざっていた。テーブルの上には家計簿が開きっぱなしで、横に羽根ペンが一本。ノーラはそれを見て、小さく眉を上げる。
「珍しいわね。あんたが帳簿なんて」
「珍しいとは何ですの。高貴なる者とて、家計の現実とは無縁ではありませんわ」
「へえ。で、現実はどうだった?」
「……詳しく聞かないでくださる?」
その返しが妙に素直で、ルチェアがこっそり笑った。
ノーラはテーブルの上に布包みを置いた。
「じゃあ本題ね。ルチェア、ほどいて」
「はいっ」
ルチェアが慎重に布を解く。
中から姿を現したのは、小ぶりな鉄鍋、折りたたみ式の五徳、古い型だが手入れの行き届いた保温板、そして小瓶の並ぶ木製スパイスラックだった。
フレアリスは、しばらくそれを見て何も言わなかった。
「……これは?」
「見ての通り」
ノーラはさらっと言う。
「携帯厨房セット。あんた用」
「……わたくしに?」
「そう。いつも飯を持ってくるでしょ。だったら、あんたが使いやすい道具があった方がいいと思って」
フレアリスはようやく一歩近づき、鍋をそっと持ち上げた。
その目が、鍋の底の刻印に止まる。
「……っ」
「見つけた?」
鍋の底には、小さな紋章が入っていた。
ルクレール家の紋章を、それっぽく簡略化した意匠だ。
フレアリスの肩がぴくりと震える。
「これ……ルクレールの紋章……?」
「それっぽいのだけどね。あんまり精密にやると余計高くつくから」
「高くつくのは別によろしいでしょう!?」
「よくないわよ。誰の財布だと思ってるの」
ルチェアが慌てて口を挟んだ。
「あの、でも鍋も五徳もすごくいい品なんです! ノーラさん、ちゃんと軽さと火の通りを見て選んで……」
「しかも値切った」
「そこは言わなくていいの!」
フレアリスは鍋を抱えたまま、目をぱちぱちさせている。
ノーラはわざと咳払いをした。
「正式名称もあるわよ」
「正式名称?」
「《正統ルクレール流・高貴なる携帯厨房セット〈焔麗の膳〉》」
数秒の沈黙。
次の瞬間、フレアリスの顔が一気に輝いた。
「…………もう一度」
「《正統ルクレール流・高貴なる携帯厨房セット〈焔麗の膳〉》」
「……っ、なんという……!」
フレアリスは鍋を胸元へ抱き寄せた。
「高貴で、無駄に麗々しく、それでいて実用品としても成立している……! わたくしの趣味を、ここまで理解した上で贈り物にするなんて……!」
「そこ褒めるところなの?」
「褒めるところですわ! むしろ最重要ですわ!」
ピョコマルが下から「ぴゃう」と鳴いた。
なんとなく同意している顔だった。
ノーラは肩をすくめる。
「鍋はハンマーベル工房の薄鍋。五徳は折りたたみ式。保温板は少し旧型だけど、弱火くらいなら十分。小瓶は割れにくいガラス。全部、旅でも野営でも使える」
「……そんなに」
フレアリスの声が少しだけ柔らかくなった。
「そこまで考えて、これを?」
「考えたわよ。売ってもよかったけど、あんたが使った方がこっちに得だと思って」
「台無しですわね!」
「本音だもの」
でも、それだけではないことは、言わなくても分かった。
フレアリスもたぶん、ちゃんと分かっていた。
彼女は鍋を見つめ、保温板を撫で小瓶の木枠を指先で確かめてから、ようやく顔を上げた。
「……ありがとう、くらいは言いますわ」
少しだけ顔を背けて。
「その……悪くありません。いえ、かなり……とても」
ルチェアの口元がほころぶ。
ノーラはそのまま流そうとしたが、フレアリスがさらに小さく続けた。
「こういうの、嫌いじゃありませんの」
その一言だけは、いつもの芝居がかった調子ではなかった。
ノーラは短く頷く。
「そう。ならよかった」
「せっかくだから、試してみます?」
ルチェアが嬉しそうに言った。
「今ここで?」
フレアリスが鍋を抱えたまま目を丸くする。
「保温板の具合も見たいですし。あと、ピョコマルもお腹すいてそうです」
「ぴゃう!」
「……そうね」
ノーラも頷いた。
「どうせ夕飯時だし。実用品は使ってなんぼでしょ」
フレアリスは一瞬だけ考え、それからぱっと扇子を開いた。
「よろしいですわ! 高貴なる料理人として、この《焔麗の膳》に最初の火を入れて差し上げます!」
その後の動きは早かった。
フレアリスは魔法箱から食材を取り出し、玉ねぎを刻み、残っていたハムとチーズを並べる。保温板に火が入り、五徳の上の鍋がじんわり温まり始めた。
「今日は軽めにいきますわ。名付けて《ルクレール家特製・半月オムレツ・ジルコール風》」
「名前が長いのよ」
「高貴さと料理名は比例しますの」
ルチェアが真面目な顔で頷く。
「確かに、フレアリスさんの料理って名前が立派です」
「そこ納得しちゃうんだ」
ノーラは椅子に腰を下ろし、できあがるまでの手際を眺めた。
火加減はやはり見事だった。
鍋が薄くて扱いが難しい分、熱の入り方が早い。それをフレアリスはきちんと読んで、焦がさず、膨らませすぎず、絶妙なところで火を引いていく。
「……やっぱり、その鍋にして正解だったわね」
ノーラがぽつりと言うと、フレアリスは一瞬だけ手を止めた。
「どういう意味ですの?」
「薄鍋は焦げつきやすいけど、使いこなせれば火の入りはきれい。あんた向きよ」
フレアリスは目を丸くした後、照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。
「当然ですわ。このフレアリス=ヴァン=ルクレールですもの」
でも声は、少しだけ嬉しそうだった。
やがて皿に盛られたオムレツが、三人と一匹の前に並ぶ。
ノーラがひと口食べ、目を細めた。
「……うん。やっぱり、あんたの飯はうまい」
ルチェアも続いて食べ、ぱっと顔を明るくする。
「おいしい……!」
ピョコマルも味付けを落とした端切れをもらって、「ぴゃうっ」と幸せそうに鳴いた。
フレアリスは扇子で口元を隠したまま、しかし隠しきれない満足顔で胸を張る。
「当然ですわ。今後はこの《焔麗の膳》を携え、より高貴なる食卓をお見せして差し上げます」
「助かるわね」
ノーラはさらりと言った。
「銀刻の接待用コンテンツとしても優秀だし」
「そこはどうしても商売に繋げるのですわね!」
「褒めてるのよ」
「分かりにくいですわ!」
笑い声が、小さな借家の中に広がった。
外ではもう夜風が吹いている。祭りの後のざわめきも、橋の修復の音も、この高台まで届く頃にはずいぶん丸くなっていた。
ノーラはふと、この光景を頭のどこかへしまい込むように見つめる。
鍋。
火。
食卓。
くだらない言い合い。
それを囲む顔ぶれ。
再生魔石でも、交渉でも、帳簿でもない、でも確かに守りたかったものが、こういうところにあった。
食事を終えた後、ノーラたちは銀刻へ戻った。
夜の事務所は静かだった。
昼間まで積まれていた書類も片づき、机の上には最後の灯りだけが残っている。
ルチェアは少し名残惜しそうに椅子へ座り、ピョコマルはもう眠そうに目を細めていた。
フレアリスは贈られた鍋の入った包みを大事そうに抱えている。
「今日は本当に、ありがとう」
今度は、さっきよりもう少しだけ素直な声だった。
ノーラは店の戸締まりを確認しながら答える。
「別に。あんたが使うなら、あの鍋も本望でしょ」
「物に本望があるのですの?」
「あるんじゃない? 少なくとも倉庫で錆びるよりは」
フレアリスは小さく笑った。
「やっぱり、あなたは変ですわね」
「今さら?」
「今さらですわ」
ソルトたちはまだ戻っていない。
ミントも、ジンジャーも、カルメノもいない。
今ここにいるのは、ノーラとルチェアとフレアリス、そしてピョコマルだけだ。
だからこそ、この静けさはちょうどよかった。
ノーラは机の上の帳簿を見下ろす。
再生魔石の騒動。
預かり倉庫の保管サービス。
魔石や雑貨、日用品の買い取り販売。
敵商会の思惑。
回収した金の流れ。
その全部が、この分厚い帳簿のどこかに記載されている。
でも今夜は、もうそれを開く気になれなかった。
「ノーラさん」
「なに?」
ルチェアが少しだけためらってから訊く。
「これで、ひと区切り……なんですよね」
ノーラはすぐには答えなかった。
代わりに、机の脇にかけてあった木札を手に取る。
昼間は営業中になっていたそれを、指先でくるりと裏返す。
裏には、丁寧な字で【本日閉店】と書かれていた。
木札が小さく鳴る。
「……そうね」
ノーラは静かに言った。
「少なくとも、今日はここまで」
フレアリスがその言い方に少しだけ目を細める。
「終わりではなく?」
「商売に終わりなんてないわよ」
ノーラは肩をすくめた。
「損があれば埋めるし、得があれば伸ばす。今日閉めても、明日になればまた開ける。それだけ」
ルチェアはその言葉を、今度はノートに書かなかった。
ただ胸の中へしまうみたいに、静かに頷いた。
ピョコマルが眠たげに「ぴゃ」と鳴く。
フレアリスは鍋を抱え直し、いつものように少しだけ高飛車な顔を作った。
「では、この高貴なる携帯厨房セットの初仕事も終えたことですし、わたくしはそろそろ退きますわ。明日からはさらに洗練された食卓を――」
「材料費が上がらない範囲でね」
「最後まで細かいですわね!」
「そこが大事なのよ」
ルチェアがくすっと笑う。
それにつられるように、フレアリスも笑った。
夜の銀刻には、小さくて柔らかい笑い声がよく似合った。
ノーラは扉の鍵を閉め、灯りを一つずつ落としていく。
最後に残った卓上灯だけが、帳簿の角と、今日贈った鍋の布包みを淡く照らしていた。
銀箱女。
値踏み上手。
強欲な魔女。
そう呼ばれる女は、結局のところ、今日も損を減らし、得を拾い、少しだけ誰かの腹を満たした。
それで十分だと思えた。
最後の灯りを落とす前に、ノーラは一度だけ振り返る。
机、棚、帳簿、椅子。
そこに残る、これまでに訪れた客や仲間たちの体温みたいな気配。
「じゃ、閉めるわよ」
誰にでもなくそう言って、灯りを消した。
扉の外では、ジルコールの夜が静かに続いている。
再生魔石は動かなかった。
けれど、街の金は動いた。
信用も、人も、食卓も、確かに動いた。
木札には【本日閉店】
けれど、それは終わりの札ではない。
明日また店を開けるための、店じまいだった。
これまで閲覧いただき、ありがとうございます。
ひとまず物語を区切りのいいとこで畳めたことにほっとしています。
ノーラの物語には愛着があり達成感と寂しさが両方ありますが、
それでも最後まで書き切れたのは、少しでも続きを読んでくれる方がいたからです。
数字のことを考えると複雑な気持ちがないわけではありませんが、それ以上に、完結までたどり着けたこと自体に意味があったと思っています。
最後まで付き合ってくださった方には、本当に感謝しています。
この物語はいったんここで店じまいです。
けれど、ノーラたちはきっと、またどこかで帳簿を開いている気がします。
ありがとうございました。




