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88~祭りのあとの帳簿


 祭りの翌日のジルコールは、妙に静かだった。


 昨日あれだけ人と声と音であふれていた大通りも、今朝はどこか拍子抜けするほど落ち着いている。露店の大半はもう引き払われ、石畳の端には、こぼれた酒と焼き串の脂がまだ薄く染みついていた。風が吹くたびに、祭りの名残りらしい甘い匂いと、片付けの遅れた生ごみの匂いが混ざって流れていく。


 銀刻交易連合の事務所では、朝から帳簿の紙をめくる音が途切れなかった。


「……はい、これで預かり分の返却は終わり。手数料二パーセントを引いた分、確認して」


 机の向こうでノーラが銅貨を並べる。向かいに座った焼き菓子屋の女将は、皺の多い指でそれを数え、ふうと息をついた。


「きっちり合ってるねえ。いやあ、助かったよ。本当に」


「それはよかった」


「昨日みたいな騒ぎが起きるとね、売上を腰袋に入れっぱなしにしておくの、どうにも落ち着かなくてさ。あんたのとこに預けといて正解だったよ」


 ノーラは帳簿に印をつける。


「次も預けるなら、今度は朝一番で来て。昼を過ぎると預かり限度に引っかかるかもしれないから」


「商売っ気が抜けないねえ」


「抜いたら死ぬもの」


 女将はからからと笑い、礼を言って帰っていった。


 扉が閉まると、室内に一瞬だけ静けさが戻る。


 その静けさを破ったのは、ルチェアのぱらりと帳面をめくる音だった。


「あの、ノーラさん」


「なに?」


「昨日の預かり分って、思ってたよりずっと多かったんですね」


 ルチェアの前には、返却済みの控えが何枚も広げられていた。預かり主の名前、店の場所、預かり額、返却額、手数料。昨日一日で、それなりの枚数になっている。


 ノーラは頷いた。


「祭りの日は、普段よりずっと現金が動くからね。しかも人が多い。盗難、紛失、喧嘩、火事、踏み倒し。そういうよくない偶然も増える」


「だから預かり商売が成り立つ……」


「そう。怖いからこそ払う金ってあるのよ」


 ルチェアは真面目な顔で控えに追記した。


 怖いからこそ払う金。

 祭りや騒ぎの時ほど、安心の値段が上がる。


 ノーラは横目でそれを見て、少しだけ口元をゆるめた。


 昨日までのルチェアなら、こういう言い方にいちいち眉をひそめていたかもしれない。けれど今は、言葉の冷たさの奥にある理屈を、少しずつ拾おうとしている顔をしている。


 それは悪くない変化だった。


 床ではピョコマルが、帳簿の山の間をのそのそ歩いている。時々、紙の端に鼻を押しつけては「ぴゃ」と鳴き、何か仕事をしているつもりらしかった。


「ピョコマル、そこ踏まないで」


「ぴゃ」


「そっちはもう締めた控え。ぐしゃぐしゃにしたら、あとで照合が面倒になる」


「ぴゃう……」


 叱られたピョコマルはしぶしぶ退いたが、その途中で机の脚に置かれていた麻袋に顔を突っ込んだ。中身は、昨日預かった売上のうち、まだ返却前の分を種類別に分けた銅貨だった。


 じゃら、と音がする。


 ノーラの目が細くなった。


「ピョコマル」


「ぴゃっ」


「それはおやつじゃない」


 ピョコマルは慌てて顔を引っこめ、今度はルチェアの椅子の脚元へ逃げ込んだ。ルチェアは笑いをこらえきれず、小さく肩を震わせる。


「お金を食べる子みたいになってますよ」


「やめて。縁起が悪い」


 そう言いながらも、ノーラの声色はいつもより少し柔らかかった。


 奥の棚では、フレアリスが大きなため息をついていた。


「……どうして祭りの翌日にまで、わたくしが帳面仕事を手伝わなければなりませんの」


「昨日、あんたが高貴なる護衛として最後まで働いた以上、その後始末まで見届けるのが責務ですわって言ったからでしょ」


「言いましたけれど! あれは流れの美しさを整えるための台詞であって、本当に数字を数える覚悟を示したわけではありませんわ!」


 フレアリスの前には、露店ごとの返却札が種類別に分けられていた。本人は文句を言い続けているが、手元の作業そのものは意外と丁寧だ。紙の端はきっちり揃っているし、店名の読み違いも少ない。


 ノーラはその働きぶりを見て、内心ではかなり助かっていた。


「そのわりに手が止まってないじゃない」


「止めたら、あなたが嫌味を言うでしょう?」


「言うわね」


「ほら見なさい」


 ソルトが横で苦笑した。


「でも助かってますよ、フレアリスさん。僕一人じゃ、この量を午前中で片づけるのは無理でしたし」


「当然ですわ。高貴なる女は、雑務すら気品でねじ伏せますの」


「その気品で、こっちの札も並び替えて」


「言い方が雑ですわね!?」


 騒がしい。

 けれど、その騒がしさが今日は妙に心地よかった。


 昨日は再生魔石を巡って街全体がぴりついていた。誰がどこを狙うか、どこで騒ぎが起きるか、本物はどこにあるのか。人の視線も噂も金も全部が不安定に揺れていた。


 それに比べれば、今日の混乱はずっと可愛いものだ。


 銅貨が一枚足りないだの、返却札の順番が違うだの、屋台の店主が想像以上に酔っ払いだっただの。そういう、あとで笑い話にできる種類の面倒くささで済んでいる。


「ノーラさん、これ」


 ルチェアが控えを差し出した。


「昨日の露店預かり分、全部合わせると……手数料収入は、思ったより多いです」


 ノーラは計算板を見て、頷いた。


「ええ。悪くない」


「じゃあ、儲かったんですか?」


 ルチェアの問いに、ノーラはすぐには答えなかった。


 帳簿をめくる。

 ブース用の仮設布代。

 筆記具と控え紙。

 預かり金の保管に使った箱と封印札。

 ギルドへの保管協力費。

 祭り当日の臨時人件費。

 ついでに、騒ぎの中で壊れた折り畳み机の修繕見込み。


「……単体で見れば黒字。でも、橋の仮復旧が終わるまでは市場全体が不安定だから、手放しでは喜べないわね」


 ソルトが頬杖をつく。


「ノーラさんらしい答え」


「何それ」


「露店預かりだけなら成功なのに、街全体の流れまで込みで考えるから」


「当たり前でしょ。こっちだけ儲かっても、周りが全部こけたら次が続かないんだから」


 ノーラはさらりと言った。


 それは商売の理屈であり、銀刻交易連合が今の形で残っている理由でもある。自分の取り分だけ見て大きく勝とうとするより、少しずつ信用を積んで、次の取引に繋がるように場を整える。


 派手ではない。

 でも、その方が長持ちする。


 扉が叩かれたのは、その時だった。


 ソルトが立ち上がり、取り次ぐ。入ってきたのは、昨日預かりに来ていた干物屋の主人だった。顔は日に焼け、手は荒れているが、今日は機嫌がよさそうだった。


「銀刻の姐さん、これ返しに来た」


「返しに?」


 主人が差し出したのは、小さな紙袋だった。中には干した小魚がきれいに包まれている。


「昨日、売上を預けといて助かった礼だ。火事だの喧嘩だので通りが荒れた時、腰袋に金を入れたままだったら気が気じゃなかった。家内も次も銀刻に頼れってさ」


 ノーラは紙袋を受け取り、一瞬だけ目を丸くした。


「……わざわざどうも」


「礼ぐらいはしとかねえとな。商売ってのは、借りを作りっぱなしにしちゃいけねえ」


 主人はそれだけ言って、照れくさそうに去っていった。


 扉が閉まると、ルチェアが小さく微笑む。


「よかったですね」


「何が?」


「信用、です」


 ノーラは紙袋を見下ろした。


 たかが小魚の干物だ。銀貨何枚にもならない。市場で見れば、そんなに値打ちのあるものではない。


 でも、その軽さが妙に胸に残った。


「……そうね」


 ノーラは小さく息をつく。


「悪くないわ」


 フレアリスが帳面から顔を上げる。


「嬉しそうですわね」


「別に」


「今の間で、そうではありませんと言われても説得力がありませんわ」


「うるさいわね」


 ノーラは干物の袋を棚に置き、少しだけ口元をゆるめた。


 金になる信用もある。

 すぐ金にならない信用もある。

 でもどちらにせよ、帳簿に直接は載らなくても、あとでじわじわ効いてくるものだ。


 昼を回る頃には、預かり分の返却はほぼ終わっていた。


 最後の確認を終え、ノーラは帳簿を閉じる。紙の束を整え、今日使った控えを紐でまとめる。その手つきはいつも通り無駄がないが、どこか昨日までより呼吸が深い。


「これで終わり?」


 ルチェアが訊く。


「預かり商売の分はね。あとは橋の仮復旧が進めば、代替路を使った荷の流れも少し戻るはず」


「じゃあ、昨日の祭りは……」


「成功よ」


 ノーラははっきり言った。


「少なくとも、街に守れなかった祭りって傷を残さずに済んだ。それだけでも十分大きい」


 そこへまた、今度は急ぎ足の使いが来た。ギルドからだった。


 封を切ったノーラは、ざっと目を通す。


「仮橋、予定より半日早く通るって」


「おお」


 ソルトが声を上げる。


 ルチェアの顔も明るくなる。


「それって、すごいことですよね」


「ええ。かなり」


 ノーラは紙を折りたたむ。


 橋が早く通る。

 それは単に人が便利になるというだけではない。止まっていた荷が少しずつ動く。商人の不安が減る。買い控えが緩む。市場が呼吸を取り戻す。


 つまり、次の商売の土台が整う。


「じゃあ銀刻の株もまた少し上がりますの?」


 フレアリスが訊く。


「どうかしら。でも昨日の預かりと今日の返却で、銀刻に預けてもちゃんと戻るって印象は残ったはずよ」


「ずいぶん当たり前のことを言ってるようで、商売では一番大事なことですわね」


「そうよ。預けて返ってくる。言うのは簡単だけど、みんなそれが怪しいと思うから手数料を払うんだから」


 ピョコマルがタイミングよく「ぴゃう」と鳴いた。


 まるで話が分かっているような顔で胸を張っている。


「そうね、あんたも功労者よ」


 ノーラは紙袋から干物を一匹取り出し、ピョコマルの前に置いてやった。


「ぴゃっ!」


「ただし帳簿の上では食べないこと」


「ぴゃう」


 ピョコマルは神妙に頷いたあと、すぐに干物へかじりついた。


 その姿に、ルチェアが笑い、ソルトが肩を揺らし、フレアリスが呆れたように扇子を鳴らす。


 ノーラは机の端に座り、事務所の中を見渡した。


 昨日の祭り。

 騒ぎ。

 囮の山車。

 再生魔石を巡る思惑。

 そして今日の返却と帳簿。


 派手な事件の後に残るのは、こういうものだ。銅貨の重み、紙の束、礼の言葉、小さな信用。誰かがそれを数え、整え、次に繋げなければ、どんな大きな勝ちもすぐ散ってしまう。


「ノーラさん」


「なに?」


「昨日より、少しだけ……街が元気に見えます」


 ルチェアがそう言った。


 ノーラは窓の外へ目をやる。


 大通りでは、片づけを終えた露店主たちがまた店先を整え始めていた。橋の仮復旧の知らせでも回ったのか、荷車を引いた男たちの声にも昨日までの重さが少しだけ薄れている。


「そうね」


 ノーラは静かに頷いた。


「そういうのを、ちゃんと残せたなら上出来よ」


 それは誰に聞かせるでもない、小さな総括だった。


 帳簿の上では、昨日の祭りは黒字だった。

 橋の被害まで含めれば、街全体はまだ完全には取り戻していない。

 それでも、失わずに済んだものが確かにある。


 ノーラは立ち上がり、今日の帳簿を棚へしまった。


「よし。じゃあ今日はここまで」


「珍しいですわね。まだ昼過ぎですのに」


 フレアリスが目を瞬かせる。


「こういう日は、終わったところでちゃんと終わらせるの。だらだら帳簿をいじってると、いらない不安まで掘り起こすから」


「そんなこともあるんですね」


「あるわよ。数字って見すぎると、人を疑いたくなる時があるもの」


 ノーラはそう言って肩をすくめた。


「でも今日は違う。今日は、ちゃんと締めていい日」


 その言葉に、ルチェアは少しだけ背筋を伸ばした。


 ソルトは「じゃあお茶でも淹れますか」と言い、フレアリスは「本来なら最初からそうすべきでしたのよ」ともっともらしく頷く。ピョコマルは干物をくわえたまま、とことことルチェアの椅子の下へ戻っていった。


 銀刻の事務所には、祭りの後らしい静かな空気が流れていた。


 大きな魔石は動かなかった。

 けれど、街の金は動いた。

 信用も動いた。

 そして銀刻の帳簿には、昨日までなかった小さな数字と名前が確かに残った。


 ノーラは窓辺に立ち、仮橋へ向かう荷車の音を聞きながら、ほんの少しだけ笑った。


 悪くない一日だった。

ラスト2話です。

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